ゼロの式神
のだめの神様
第1話 陰と陽
ーーあの時。キミと出会った時ーーーー私の水晶が、光った。
夜の校庭は冷えていた。
石畳に落ちる月明かりは薄いのに、輪郭だけはやけに鋭い。
御饌音子(みけねこ)の手のひらにある小さな水晶が、脈みたいに熱を返す。
息を吸うたび胸の奥がきしんで、吐くたび視界の端が揺れた。
……目の前に立つ司馬巻(しばけん)は、片手で丸い鳥を掴んでいる。
トト。
羽が震えて、喉からかすれた声が漏れた。
「ねこさ――」
「トト!」
音子が一歩踏み出した、その瞬間。
数珠が淡く光った。
風が、校庭の中心へ集まる。
空気が形を持ち、肺が押し潰される。
見上げた夜空に、巨大な輪郭が立ち上がりかけた。
(……来る)
頭の奥に、知らない警告が落ちる。
誰の声かも分からないのに、背筋だけが先に凍る。
月明かりの端――結界柱の影。
そこに、誰かが立っていた。
刀を持っている。
なのに殺気は薄くて、代わりに“静けさ”だけが濃い。
その瞳と、ほんの一瞬だけ目が合った。
胸元、鎖骨の少し下が、じわりと熱を帯びた。
(――その夜の記憶。)
◆
「ねこさまー! 起きてくださいませー! 遅刻しますよーっ!」
夢が、鳥の声にたたき割られた。
御饌音子の布団は、今日も戦場だった。
布団はねじれて、枕は行方不明で、本人は布団の端っこに丸まっている。
起こしているのは式神トト。
(式神って、もっと恐ろしくて、もっと怖いものだと思ってた)
(祟るとか、憑くとか、夜に“増える”とか)
(呼んだ覚えがないのに、背後に立つとか)
(気づいたら名前を覚えられてて、忘れたら怒るとか)
(そういうのが、“式神”だと思ってた)
(なのに、うちの式神は――)
人間の頭ひとつ分くらいの丸っこい鳥で、一頭身。
ペットみたいな姿なのに、口調だけはやけに丁寧だ。
(恐怖の象徴どこ行った)
(……この恐怖、私の寝相にキレてる)
「ねこさま、起床。起床でございます」
「……むり……」
「むり、ではございません。授業でございます」
「むりはむり……」
「ねこさま。むりを認めると、遅刻が確定します」
「確定って言い方やめて!? 心が折れる!」
トトは布団をぐい、と引っ張った。
勢いで音子の寝姿が露わになる。
「……」
「……」
「……ねこさま。本日は寝巻きの防御力が極端に低い状態です」
「うわぁぁぁぁ!? 待って! 背中向けて! 今すぐ!!」
「御意。ですが時間がありません」
「御意じゃない!! そんな丁寧に急かさないで!」
ばたばた。どたどた。
音子は着替えをひっつかみ、黒髪ツヤサラのツインテールを乱暴にまとめる。
艶が強すぎて、頭のてっぺんに輪っかみたいな光の筋ができた。
最後に、掌に収まる小型の水晶を握る。
ひやりとするはずが、今日は妙にあたたかい。
昨夜の夢の熱が、まだ指先に残っているみたいだった。
「よし! 行く!」
「ねこさまー! 走る時は足元を! そして戸締まりを!」
「分かってるってばー!」
「ねこさま。“分かってる”は、実行が伴って初めて成立します」
「うるさい! 成立とか言わないで!」
角で滑りかけて、ぎりぎり踏ん張る。
心臓が喉まで跳ね上がった。
(危ない。朝から危ない)
(でも、遅刻はもっと危ない)
音子は勢いのまま飛び出した。
◆
陰陽寮。
国の陰陽師を育てる、石と札の匂いがする場所だ。
二年次の初日、教室は浮ついていた。
期待と緊張が混ざって、誰もが少しだけ背伸びをしている。
教壇に立つのは蘆屋道満(あしやどうまん)。
男らしくスマートで、言葉は短いのに背筋だけで“格”が分かる。
「二年次の昇学、おめでとう。今日から担任の蘆屋道満だ」
「御意!」
「一年で叩き上げる。二年次は式神について学ぶ」
その瞬間、扉がバンッと鳴った。
「すいやせーん! 到着しましたぁー!」
御饌音子が飛び込む。
視線が一斉に刺さる。皮膚の上に針が並ぶみたいだ。
(針、痛い)
(でも今は、針より遅刻が痛い)
道満は眉ひとつ動かさず言った。
「前だ。そこで立ってろ」
「は、はい……!」
そこへ、冷たい声が刺さる。
「また寝坊か。ゼロ音子」
言ったのは司馬巻。
同じ二年次の成績トップ。
飛び級のせいで輪郭は幼いのに、言葉だけが妙に大人びている。
制服の肩が、ほんの少しだけ余って見えた。
(あ、やっぱり若い)
(……若いのに、口だけ古参ぶってない?)
“ゼロ音子”――才能ゼロ扱いのあだ名。
(初日からそれ? 本気で?)
音子の胸に、ぐさりと入った。
“立ってろ”の言葉より痛い。
音子は睨む。
司馬巻は薄く笑う。
「……ば」
「……か」
口から出てしまってから、遅れて「やべ」と思う。
(しかも“ば”“か”だけって、幼稚すぎる)
(でも出た。出ちゃった。もう戻らない)
道満が空気を一刀で落とした。
「質問だ。陰陽師が術を使うのに必要なものは何だ」
司馬巻が即座に手を挙げる。
「水晶です。媒介がなければ術は成立しません」
「正解だ」
道満は水晶を掲げた。
透明なのに重い。道具というより“臓器”みたいな存在感がある。
「水晶がないと術は使えない。全員、携帯しろ。落とすな。割るな」
誰かが小声で言った。
「割れたら?」
「泣け」
即答だった。
教室が小さく笑い、すぐ静まる。
生徒たちが一斉に自分の水晶へ触れた。確認するように。
司馬巻の指には数珠がかかっている。
珠の一つ一つが水晶で、触れるだけで淡く光った。
音子は自分の掌の水晶を握り直す。
小さい。でも、重い。
(この小ささで、人生の重さ引き受けさせるのやめてほしい)
道満は形代を一枚取り、指先で挟んだ。
「急急如律令」
紙が跳ねた。
教壇の上を元気に走り回る。
「おぉ……!」
「すげぇ……!」
道満は淡々と続ける。
「願いをイメージし、生力を水晶へ注げ。注がなければ動かない。注ぎすぎれば壊す。簡単だが外すと痛い」
「全員やる。まず――お前」
道満の指が音子を指した。
「え、私!?」
「うわ……」
「やめとけって……」
小さな笑い。小さな軽蔑。
その全部が音子の背中へ落ちる。
司馬巻が親切そうな口で刺す。
「先生。やめた方がよろしいですね。特にそいつは」
(“そいつ”やめろ!)
音子は水晶を握り、形代を掴む。
深呼吸。逃げたい。でも逃げたら“ゼロ”が完成する。
「……やります! 得意です! 本当です!」
(本当って言えば本当になるって、トトが)
(言ってない。今、私が勝手に作った)
音子は覚えた通りに唱えた。
「急急如律令!」
――動かない。
紙がきし、と鳴るだけ。
それどころか、形代が指の中で“耐える”みたいに震えた。
紙の縁が熱でわずかに反り返る。
「あれ〜……この紙、おかしいなぁ……」
(うそ。私の方だ)
道満が形代を受け取り、同じ言葉を唱えると、形代は何事もなかったように跳ね回った。
「注ぎ方が乱暴だ」
道満の声は低いが、責める音ではない。
「願いと生力の釣り合いを外すな。水晶は受け皿だ。受け皿を割ってどうする」
その言葉の最後だけ、音子に刺さって残る。
司馬巻が勝ち誇る。
「成功ゼロ、才能ゼロ。言い訳などこの道に向いていない」
音子の唇が震えた。
(悔しい。悔しい。悔しい)
(でも、ここで折れたら――本当にゼロだ)
道満は音子の額を軽くつつく。
意外に雑で、意外に温度がある。
「茶番は後だ。明日、校庭で召喚実習をやる」
教室がざわつく。
「期待してるぞ、御饌音子」
――名前で呼ばれた。
音子の胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「……はい! 召喚してみせます!」
司馬巻の笑みが、一瞬だけ消えた。
◆
翌日。
召喚実習は陰陽寮の校庭で行われた。
結界柱が周囲を囲み、護符が風に鳴る。
事故が外へ漏れないよう、最初から“封じる前提”の設備だ。
砂の匂いと、札の墨の匂いが混ざる。
「順番に行く。焦るな」
道満の声が通る。
「呼んで、縛って、帰す。暴れたら俺が止める」
生徒たちが次々に召喚する。
紙の狐が尻尾をぶんぶん振って駆け回り、
竹ぼうきの先が勝手に掃き始め、
石の塊は単眼でじろじろ見てきて、
丸い饅頭みたいな何かは「ふにゃ」と鳴いて転がった。
可愛いのもいる。
油断すると、普通に死ぬやつもいる。
「次、司馬巻」
空気が切り替わった。
ざわつきが沈み、視線の密度が上がる。
司馬巻は中央の大陣へ進むと、数珠の水晶へ指を滑らせた。
珠が淡く光り、校庭の風が一瞬だけ“向きを揃える”。
「急急如律令」
風が回る。
砂が舞い、護符が一斉に鳴く。
渦が形を持ち、刃の匂いをまとった“風の獣”が立ち上がった。
「……っ」
誰かが息を呑む。
司馬巻は数珠の回転を止めない。
渦が膨れ、“巨大な輪郭”が空に立ち上がりかけた。
道満が一歩踏み出す。
「そこまでだ」
短い声。だが絶対だった。
司馬巻は数珠の回転を止める。
巨大な輪郭は霧散し、風の獣だけが残った。
司馬巻は涼しい顔で振り返る。
「先生。まだ召喚を終えていない者がいますよ。御饌音子さんが」
来た。
逃げるな。逃げたら終わる。
「言われなくても分かってるってばー!」
音子は召喚陣の前に立つ。
掌の水晶を握る。震えが止まらない。
(お願い。来て)
(私だって、できるって証明したい)
(怖くてもいい。ちゃんと来て)
「――出でよ! 我が式神よ!」
水晶が一瞬だけ眩く光り、砂が跳ね、札がざわめく。
風が荒れる。
足元の陣が、鳴った。
視線が全部、音子へ刺さる。
だが――。
「召か……ん?」
何も、いなかった。
音だけが残り、風だけが逃げ、砂だけが落ちる。
空気が冷え、“そうだろうな”という諦めが背中へ貼りついた。
司馬巻が嘲るように息を吐く。
「笑わせてくれる。式神も召喚できないなら陰陽師失格だ」
音子は泣きたくなるのを歯で止める。
拳を握る。
(悔しい)
(でも、ここで折れない)
◆
放課後。
司馬巻は、御饌音子の家の近くで待ち伏せしていた。
決闘を叩きつけるために。自分の“正しさ”を示すために。
だが、いつまで経っても音子は戻らない。
(逃げた?)
(……いや、違う。逃げるなら、あの目をしない)
苛立ちが胸の内で膨らむ。
正しく呼吸するほど、正しくない感情だけが増えていく。
その時、門の内側から丸い鳥が出てきた。
箒をくわえ、庭掃除を始めようとしている。
式神トト。
司馬巻は迷わず鳥を掴んだ。
トトは羽をばたつかせ、丁寧な敬語で叫ぶ。
「やめてくださいませ! ねこさまー! ねこさまーっ!」
「黙れ」
司馬巻はトトを抱えて去る。
門前には紙を一枚、置いた。
決闘書だ。
◆
夜。
音子は遅くに家へ戻った。
修行でクタクタだ。足が重い。肩が痛い。
息を吐くたび、身体の奥が遅れて軋む。
「ただいま〜……あー……くたくただよ〜……トト、お茶ちょーだい〜……」
返事がない。
「……え?」
羽音もない。“ねこさまー!”もない。
いつも先に飛んでくる温度が、家から消えている。
音子は庭へ出た。
箒が倒れている。羽が一枚落ちていた。
喉が乾く。
(……やだ)
部屋に戻り、こたつに沈み込む。
息を整えようとして、逆に息が浅くなる。
(落ち着け)
(式神がいないだけ)
(……だけ、って何? 私の生活の八割なんだけど)
その時。
こたつの影が、ほどけた。
次の瞬間、少年の輪郭がそこに立っていた。
畳が鳴らない。足音もない。それでも、いる。
「……っ!? え、え、えええ!? だ、誰!? なんでうちのこたつに人!?」
「……落ち着け」
声は低い。温度がない。
怖くない――と言い切れない“平坦さ”だけがある。
少年の腹が鳴る。
「……ぐぅ」
「お腹……すいてるの?」
反射で、みかんを差し出す。
少年は一口で噛みちぎり、無言で食べた。
噛む音だけが妙に大きくて、音子の脳内の非常ベルが一拍遅れて鳴る。
次の瞬間、音子の頭の中に声が落ちてくる。
――これは“みかん”という食べ物なんだな。
「……え? いまの……」
「交信だ」
「テレパシー!? どうやって!?」
「俺は主に召喚された式神だ。交信できるのは主のみだ」
主。式神。
混乱しているのに、直感が「嘘じゃない」と言っている。
「……私の、式神?」
「そうだ」
(え)
(今日、召喚できなかったはずの私が?)
(……え?)
音子は理解するより先に体が動いていた。
「……そっか! 私の式神なんだね!」
勢いで抱きつきかけて、寸前で踏みとどまる。
少年が一瞬だけ身構えたのを見て、音子は咳払いした。
(危ない。勢いで行く癖、ここでも出る)
(式神って怖いはずなのに、嬉しさが先に出るのも怖い)
「ご、ごめん! びっくりしたの! あと……嬉しかった!」
少年は目をそらし、淡々と言う。
「……主は距離感が極端だ」
「分かってるってばー! ……って今のはノーカン!」
音子は誤魔化すように笑い、話題を前へ進めた。
「ねぇ、キミの名前はなんて言うの?」
「……俺の……名前……?」
少年は自分の名を知らなかった。
「え、名乗らない系? かっこ――いや怖い」
「怖くない」
「即ツッコミ!?」
音子は一度深呼吸して、少しだけ真面目な顔をする。
「言えないことなら無理しなくていいよ。その方が……なんか、いいし」
「……」
音子は軽く頷き、胸を張った。
「私の名前は御饌音子。みんな、私のこと“ゼロ音子”とも呼ぶ!」
「……ゼロ音子」
「うん。才能ないって言われて、努力しても失敗続きで……悔しくて。でも、だから――」
音子は目を擦る。泣き虫の癖を隠すみたいに。
「見返したい。立派な陰陽師になりたいの!」
頭の中に、静かな声が響いた。
――俺は主を認める。主は立派だ。
音子は目を見開いた。
「……っ、ありがと。今の、めっちゃ効く……!」
「……効くのか」
「効く! 心が回復する! みかんより効く!」
少年は少しだけ目を伏せ、床に落ちていた紙を差し出した。
「……これが、家の前に落ちてた」
「え……?」
決闘書。
――お前の式神らしき鳥はこちらの手元にある。
救いたければ陰陽寮の校庭に来たまえ。
「……トト……っ!」
朝の声。お茶。洗濯。“ねこさまー!”。
あれがない家は、急に寒い。
音子は立ち上がり、水晶を握りしめた。
「待っててトト……すぐ助けるから!」
少年の声が追った。
「主、待て」
「止めないで!」
「……来る」
短い警告。
意味を問う暇はない。
(来るって、何)
(……考えるな。今は走れ)
◆
陰陽寮の校庭。
司馬巻が立っていた。
片手には丸い鳥――トト。
「遅いぞ」
「ちょっと! 私のトトに何するのよ! 司馬巻!」
司馬巻はトトを握り潰すように力を入れる。
トトが羽をばたつかせ、震える声で叫ぶ。
「ねこさまー!」
「トト!」
司馬巻の目が冷たく光る。
「才能のないお前が、先生に気に入られていたじゃあないか」
「何の話よ!」
「おこがましい。僕より目立つことが」
司馬巻の数珠が淡く光る。
風が、校庭の中心へ集まる。
「これから決闘だ。断れば、この鳥を殺す」
トトがぐったりする。
その瞬間、音子の視界が赤く染まった。
「……受けて立つわよ。トトは絶対に返してもらう」
「お前の存在が癪に障る!」
風が鳴った。
空気が刃になる。息が吸えない。
音子は弾き飛ばされ、白砂を転がった。
肋が軋む。血の味がする。
視界が回るのに、頭だけが妙に冴える。
(立て)
(トトを返してもらう)
音子は水晶を握りしめる。
冷たいはずの結晶が、手のひらの奥で熱を返した。
「なめんなぁあ!」
形代が舞う。数が多い。
散らして視界を奪い、狙いをずらす。
紙の端が頬を掠め、熱い線を残す。
司馬巻が目を見開く。
「今日は一体も動かせなかったはずだろう! しかも数が……!」
(分からない)
(でも――手は止めない)
音子は弾かれて裂ける紙を無視し、術者へ札を叩き込む。
司馬巻の集中が揺れ、風の形が乱れる。
「操ってるなら、術者を揺らせば――!」
司馬巻が苛立ち、数珠を一気に回す。
「生意気な……!」
風が増す。
校庭の空気が薄くなる。護符が唸る。
結界柱が震え、石畳の隙間から砂が踊った。
巨大な輪郭が夜空に立ち上がった。
十メートル級の圧が、校庭を押し潰す。
風神。
「死ねぇええええ!」
拳が落ちる。世界が叩き潰される。
ドオォンッ!
地面が沈み、石灯籠が砕けた。
衝撃で耳がきいんと鳴る。
司馬巻は勝利を確信した。
「やったか。鋼鉄すら切り裂く風だ。生きて――」
次の瞬間。
ズシャアアアアア!
音が遅れて届いた。
風神の巨腕が、肩から斜めに断たれていた。
砂煙の裂け目から、ひとりの男が歩き出す。
刀を片手に提げ、刃には血も泥もない。
あるのは静けさだけ。
司馬巻の声は悲鳴になった。
「だれだ!! お前は!!」
音子は膝をつきながら見上げる。
「……キミは……」
「俺は――」
男の瞳が、音子を一瞬だけ見た。
そして司馬巻を見る。
「……ゼロ。主を守る式神だ」
ゼロの視線が、司馬巻ではなく――夜空に立つ“風神”の輪郭へ向いた。
人を見ていない。狙っているのは、術の塊だけだ。
司馬巻が吠える。
「まとめて始末してやる!」
風が集まる。
だがゼロの一歩が、風の理屈ごと踏み潰した。
「無駄だ」
風が届かない。
風神の輪郭も、ほどけて消える。
消える直前、ゼロの輪郭がほんの僅かに揺れた。
それでも足は止まらない。
消すのは“式神”。相手は“人”じゃない。
司馬巻が一歩引いた。
――今なら、斬れる距離だ。
だがゼロは踏み込まない。
刀を僅かに下げ、音子の横へ“影”のように立った。
(見守ってる)
(……前に出るのは、私)
音子が息を吸う。
「いつもクラスでバカにしてくるところ!
私のトトをさらったこと!
陰陽師失格って言ったこと!
……あと全部ぉおお!!」
札が舞う。
ゼロが、何も言わずに道を空けた。
守る位置だけは崩さない。
――前に出るのは、音子だ。
「急急如律令――形代吹雪!!」
空が紙で埋まる。
景色が消えるほどの吹雪。
司馬巻は風をぶつけようとするが、ゼロに弾かれ、術が乱れる。
そこへ形代が降り注ぐ。
「司馬ぁああああああ!!」
司馬巻の叫びが夜に沈み、最後は音もなく倒れた。
◆
決闘が終わるや否や、音子は司馬巻の手元からトトをひったくるように抱き上げた。
「トト!」
「ねこさまー! 生存確認でございますー!」
「確認いらない! 生きててよかった……!」
トトは胸元に顔をうずめて震えた。
音子はぎゅっと抱きしめ――慌てて緩めた。
「ごめん、潰すとこだった!」
「ねこさま、抱擁の加減が豪快でございます……!」
そこへ、足音。
道満が石畳を踏んで現れた。
夜の校庭に似合いすぎていて、逆に怖い。
道満は倒れた司馬巻を見下ろし、短く息を吐く。
「……やりすぎだ、司馬巻」
司馬巻は気を失っている。
道満は音子を見る。
ゼロを見る。
そして何も言わない。言わないのに、圧がある。
「後始末は俺がやる。お前らは帰れ」
「……はい」
音子は頷き、トトを抱え直した。
ゼロが一歩引き、夜に紛れる。
◆
――御饌音子の家。
音子は戸を開けた瞬間、トトを抱えたまま床にへたり込んだ。
「ただいま……」
トト「おかえりなさいませ、ねこさまー! そして言わせてくださいませ。誘拐は二度とごめんでございます!」
「それは私が言いたい!」
トトは震えながらも、急に思い出したように言う。
「ねこさま、お茶は……」
「今それどころじゃないってばー! ……いや、でも飲みたい!」
トト「では急行でございます!」
「急行って何!? 普通でいい! 普通で!」
慌ただしい羽音が台所へ飛んでいく。
“いつもの音”が戻った。それだけで家が暖かくなる。
音子が笑いかけた、その瞬間――頭の中に声が落ちてくる。
――いる。
「……ゼロ?」
こたつの影が、またほどけた。
畳が鳴らない。それでも、目だけは確かにこちらを向いていた。
「うわっ! そこから出てくるの禁止!!」
ゼロ「待機地点だ」
「ここ、こたつだよ!?」
ゼロ「合理的だ」
「合理的じゃない!!」
ゼロは子供の姿に戻っていた。
さっきまでの圧は薄いが、目だけが夜のままだ。
音子が覗き込む。
「……さっき、急に大人になったよね」
ゼロ「使った」
「燃費悪いの?」
ゼロ「悪い」
「正直!! 隠して!? かっこつけて!?」
ゼロ「無駄だ」
「無駄って言うな!」
トトが台所から顔を出す。
トト「ねこさま。会話が漫才になっております」
音子「なってない! ……なってるかも!」
ゼロ「……なってる」
音子「本人に認められたら終わりじゃん!」
トトが胸を張る。
「ねこさま。私の方が燃費が良いでございます」
「張り合うな! するなら私と張り合って!」
トト「ねこさまは燃費が悪いでございます」
「そこは言うな!!」
ゼロの目が、戸の外へ滑った。
「……外だ」
家の中の空気が、ほんの少しだけ冷える。
音子は息を吐いて、指を立てて押し返した。
「ねぇ。今後“主”じゃなくて“音子”って呼んで。練習」
ゼロ「……音子」
「よし! いい子!」
トト「ねこさま。今のは“お願い”という名の命令でございます」
「黙って!」
音子は笑って、ふと胸元の熱を思い出す。
鎖骨の少し下が、まだじんわり温かい。
(……何なんだろ、これ)
でも、今は答えがいらない。
音子はトトの頭を撫で、ゼロを見る。
「とにかく。今日は分かった」
ゼロ「何が」
「守るものがあると、体が勝手に動くってこと」
ゼロ「……それでいい」
音子は頷き、笑う。
「じゃあ、これからも守ってね。ゼロ」
「……守る」
そしてゼロは、初めて“声”で言った。
「主を守るのは式神の掟だ」
音子は一瞬きょとんとして、次の瞬間、満面の笑みになる。
「……うん! 最高!」
トト「ねこさま。では明日の朝は寝坊なさらぬよう」
音子「分かってるってばー!」
トト「“ばー”を付ければ許されると思わないでくださいませ」
音子「細かい!!」
家に、いつもの温度が戻った。
(第1話・了)
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