ゼロの式神

のだめの神様

第1話 陰と陽

ーーあの時。キミと出会った時ーーーー私の水晶が、光った。


夜の校庭は冷えていた。

石畳に落ちる月明かりは薄いのに、輪郭だけはやけに鋭い。


御饌音子(みけねこ)の手のひらにある小さな水晶が、脈みたいに熱を返す。

息を吸うたび胸の奥がきしんで、吐くたび視界の端が揺れた。


……目の前に立つ司馬巻(しばけん)は、片手で丸い鳥を掴んでいる。

トト。

羽が震えて、喉からかすれた声が漏れた。


「ねこさ――」


「トト!」


音子が一歩踏み出した、その瞬間。


数珠が淡く光った。

風が、校庭の中心へ集まる。

空気が形を持ち、肺が押し潰される。


見上げた夜空に、巨大な輪郭が立ち上がりかけた。


(……来る)


頭の奥に、知らない警告が落ちる。

誰の声かも分からないのに、背筋だけが先に凍る。


月明かりの端――結界柱の影。

そこに、誰かが立っていた。

刀を持っている。

なのに殺気は薄くて、代わりに“静けさ”だけが濃い。


その瞳と、ほんの一瞬だけ目が合った。


胸元、鎖骨の少し下が、じわりと熱を帯びた。


(――その夜の記憶。)



「ねこさまー! 起きてくださいませー! 遅刻しますよーっ!」


夢が、鳥の声にたたき割られた。


御饌音子の布団は、今日も戦場だった。

布団はねじれて、枕は行方不明で、本人は布団の端っこに丸まっている。


起こしているのは式神トト。


(式神って、もっと恐ろしくて、もっと怖いものだと思ってた)

(祟るとか、憑くとか、夜に“増える”とか)

(呼んだ覚えがないのに、背後に立つとか)

(気づいたら名前を覚えられてて、忘れたら怒るとか)

(そういうのが、“式神”だと思ってた)


(なのに、うちの式神は――)


人間の頭ひとつ分くらいの丸っこい鳥で、一頭身。

ペットみたいな姿なのに、口調だけはやけに丁寧だ。


(恐怖の象徴どこ行った)

(……この恐怖、私の寝相にキレてる)


「ねこさま、起床。起床でございます」

「……むり……」

「むり、ではございません。授業でございます」

「むりはむり……」

「ねこさま。むりを認めると、遅刻が確定します」

「確定って言い方やめて!? 心が折れる!」


トトは布団をぐい、と引っ張った。

勢いで音子の寝姿が露わになる。


「……」

「……」

「……ねこさま。本日は寝巻きの防御力が極端に低い状態です」

「うわぁぁぁぁ!? 待って! 背中向けて! 今すぐ!!」

「御意。ですが時間がありません」

「御意じゃない!! そんな丁寧に急かさないで!」


ばたばた。どたどた。

音子は着替えをひっつかみ、黒髪ツヤサラのツインテールを乱暴にまとめる。

艶が強すぎて、頭のてっぺんに輪っかみたいな光の筋ができた。


最後に、掌に収まる小型の水晶を握る。

ひやりとするはずが、今日は妙にあたたかい。

昨夜の夢の熱が、まだ指先に残っているみたいだった。


「よし! 行く!」

「ねこさまー! 走る時は足元を! そして戸締まりを!」

「分かってるってばー!」

「ねこさま。“分かってる”は、実行が伴って初めて成立します」

「うるさい! 成立とか言わないで!」


角で滑りかけて、ぎりぎり踏ん張る。

心臓が喉まで跳ね上がった。


(危ない。朝から危ない)

(でも、遅刻はもっと危ない)


音子は勢いのまま飛び出した。



陰陽寮。

国の陰陽師を育てる、石と札の匂いがする場所だ。


二年次の初日、教室は浮ついていた。

期待と緊張が混ざって、誰もが少しだけ背伸びをしている。


教壇に立つのは蘆屋道満(あしやどうまん)。

男らしくスマートで、言葉は短いのに背筋だけで“格”が分かる。


「二年次の昇学、おめでとう。今日から担任の蘆屋道満だ」

「御意!」

「一年で叩き上げる。二年次は式神について学ぶ」


その瞬間、扉がバンッと鳴った。


「すいやせーん! 到着しましたぁー!」


御饌音子が飛び込む。

視線が一斉に刺さる。皮膚の上に針が並ぶみたいだ。


(針、痛い)

(でも今は、針より遅刻が痛い)


道満は眉ひとつ動かさず言った。


「前だ。そこで立ってろ」

「は、はい……!」


そこへ、冷たい声が刺さる。


「また寝坊か。ゼロ音子」


言ったのは司馬巻。

同じ二年次の成績トップ。

飛び級のせいで輪郭は幼いのに、言葉だけが妙に大人びている。

制服の肩が、ほんの少しだけ余って見えた。


(あ、やっぱり若い)

(……若いのに、口だけ古参ぶってない?)


“ゼロ音子”――才能ゼロ扱いのあだ名。


(初日からそれ? 本気で?)


音子の胸に、ぐさりと入った。

“立ってろ”の言葉より痛い。


音子は睨む。

司馬巻は薄く笑う。


「……ば」

「……か」


口から出てしまってから、遅れて「やべ」と思う。


(しかも“ば”“か”だけって、幼稚すぎる)

(でも出た。出ちゃった。もう戻らない)


道満が空気を一刀で落とした。


「質問だ。陰陽師が術を使うのに必要なものは何だ」

司馬巻が即座に手を挙げる。


「水晶です。媒介がなければ術は成立しません」

「正解だ」


道満は水晶を掲げた。

透明なのに重い。道具というより“臓器”みたいな存在感がある。


「水晶がないと術は使えない。全員、携帯しろ。落とすな。割るな」


誰かが小声で言った。

「割れたら?」

「泣け」


即答だった。

教室が小さく笑い、すぐ静まる。


生徒たちが一斉に自分の水晶へ触れた。確認するように。


司馬巻の指には数珠がかかっている。

珠の一つ一つが水晶で、触れるだけで淡く光った。


音子は自分の掌の水晶を握り直す。

小さい。でも、重い。


(この小ささで、人生の重さ引き受けさせるのやめてほしい)


道満は形代を一枚取り、指先で挟んだ。


「急急如律令」


紙が跳ねた。

教壇の上を元気に走り回る。


「おぉ……!」

「すげぇ……!」


道満は淡々と続ける。


「願いをイメージし、生力を水晶へ注げ。注がなければ動かない。注ぎすぎれば壊す。簡単だが外すと痛い」

「全員やる。まず――お前」


道満の指が音子を指した。


「え、私!?」

「うわ……」

「やめとけって……」


小さな笑い。小さな軽蔑。

その全部が音子の背中へ落ちる。


司馬巻が親切そうな口で刺す。


「先生。やめた方がよろしいですね。特にそいつは」


(“そいつ”やめろ!)


音子は水晶を握り、形代を掴む。

深呼吸。逃げたい。でも逃げたら“ゼロ”が完成する。


「……やります! 得意です! 本当です!」


(本当って言えば本当になるって、トトが)

(言ってない。今、私が勝手に作った)


音子は覚えた通りに唱えた。


「急急如律令!」


――動かない。

紙がきし、と鳴るだけ。


それどころか、形代が指の中で“耐える”みたいに震えた。

紙の縁が熱でわずかに反り返る。


「あれ〜……この紙、おかしいなぁ……」

(うそ。私の方だ)


道満が形代を受け取り、同じ言葉を唱えると、形代は何事もなかったように跳ね回った。


「注ぎ方が乱暴だ」

道満の声は低いが、責める音ではない。


「願いと生力の釣り合いを外すな。水晶は受け皿だ。受け皿を割ってどうする」


その言葉の最後だけ、音子に刺さって残る。


司馬巻が勝ち誇る。


「成功ゼロ、才能ゼロ。言い訳などこの道に向いていない」


音子の唇が震えた。


(悔しい。悔しい。悔しい)

(でも、ここで折れたら――本当にゼロだ)


道満は音子の額を軽くつつく。

意外に雑で、意外に温度がある。


「茶番は後だ。明日、校庭で召喚実習をやる」


教室がざわつく。


「期待してるぞ、御饌音子」

――名前で呼ばれた。


音子の胸の奥が、少しだけ軽くなる。


「……はい! 召喚してみせます!」


司馬巻の笑みが、一瞬だけ消えた。



翌日。

召喚実習は陰陽寮の校庭で行われた。


結界柱が周囲を囲み、護符が風に鳴る。

事故が外へ漏れないよう、最初から“封じる前提”の設備だ。

砂の匂いと、札の墨の匂いが混ざる。


「順番に行く。焦るな」

道満の声が通る。

「呼んで、縛って、帰す。暴れたら俺が止める」


生徒たちが次々に召喚する。


紙の狐が尻尾をぶんぶん振って駆け回り、

竹ぼうきの先が勝手に掃き始め、

石の塊は単眼でじろじろ見てきて、

丸い饅頭みたいな何かは「ふにゃ」と鳴いて転がった。


可愛いのもいる。

油断すると、普通に死ぬやつもいる。


「次、司馬巻」


空気が切り替わった。

ざわつきが沈み、視線の密度が上がる。


司馬巻は中央の大陣へ進むと、数珠の水晶へ指を滑らせた。

珠が淡く光り、校庭の風が一瞬だけ“向きを揃える”。


「急急如律令」


風が回る。

砂が舞い、護符が一斉に鳴く。

渦が形を持ち、刃の匂いをまとった“風の獣”が立ち上がった。


「……っ」

誰かが息を呑む。


司馬巻は数珠の回転を止めない。

渦が膨れ、“巨大な輪郭”が空に立ち上がりかけた。


道満が一歩踏み出す。


「そこまでだ」


短い声。だが絶対だった。


司馬巻は数珠の回転を止める。

巨大な輪郭は霧散し、風の獣だけが残った。


司馬巻は涼しい顔で振り返る。


「先生。まだ召喚を終えていない者がいますよ。御饌音子さんが」


来た。

逃げるな。逃げたら終わる。


「言われなくても分かってるってばー!」


音子は召喚陣の前に立つ。

掌の水晶を握る。震えが止まらない。


(お願い。来て)

(私だって、できるって証明したい)

(怖くてもいい。ちゃんと来て)


「――出でよ! 我が式神よ!」


水晶が一瞬だけ眩く光り、砂が跳ね、札がざわめく。

風が荒れる。

足元の陣が、鳴った。


視線が全部、音子へ刺さる。


だが――。


「召か……ん?」


何も、いなかった。


音だけが残り、風だけが逃げ、砂だけが落ちる。

空気が冷え、“そうだろうな”という諦めが背中へ貼りついた。


司馬巻が嘲るように息を吐く。


「笑わせてくれる。式神も召喚できないなら陰陽師失格だ」


音子は泣きたくなるのを歯で止める。

拳を握る。


(悔しい)

(でも、ここで折れない)



放課後。


司馬巻は、御饌音子の家の近くで待ち伏せしていた。

決闘を叩きつけるために。自分の“正しさ”を示すために。


だが、いつまで経っても音子は戻らない。


(逃げた?)

(……いや、違う。逃げるなら、あの目をしない)


苛立ちが胸の内で膨らむ。

正しく呼吸するほど、正しくない感情だけが増えていく。


その時、門の内側から丸い鳥が出てきた。

箒をくわえ、庭掃除を始めようとしている。


式神トト。


司馬巻は迷わず鳥を掴んだ。

トトは羽をばたつかせ、丁寧な敬語で叫ぶ。


「やめてくださいませ! ねこさまー! ねこさまーっ!」

「黙れ」


司馬巻はトトを抱えて去る。

門前には紙を一枚、置いた。


決闘書だ。



夜。


音子は遅くに家へ戻った。

修行でクタクタだ。足が重い。肩が痛い。

息を吐くたび、身体の奥が遅れて軋む。


「ただいま〜……あー……くたくただよ〜……トト、お茶ちょーだい〜……」


返事がない。


「……え?」


羽音もない。“ねこさまー!”もない。

いつも先に飛んでくる温度が、家から消えている。


音子は庭へ出た。

箒が倒れている。羽が一枚落ちていた。


喉が乾く。


(……やだ)


部屋に戻り、こたつに沈み込む。

息を整えようとして、逆に息が浅くなる。


(落ち着け)

(式神がいないだけ)

(……だけ、って何? 私の生活の八割なんだけど)


その時。


こたつの影が、ほどけた。

次の瞬間、少年の輪郭がそこに立っていた。

畳が鳴らない。足音もない。それでも、いる。


「……っ!? え、え、えええ!? だ、誰!? なんでうちのこたつに人!?」

「……落ち着け」


声は低い。温度がない。

怖くない――と言い切れない“平坦さ”だけがある。


少年の腹が鳴る。


「……ぐぅ」


「お腹……すいてるの?」


反射で、みかんを差し出す。

少年は一口で噛みちぎり、無言で食べた。

噛む音だけが妙に大きくて、音子の脳内の非常ベルが一拍遅れて鳴る。


次の瞬間、音子の頭の中に声が落ちてくる。


――これは“みかん”という食べ物なんだな。


「……え? いまの……」

「交信だ」

「テレパシー!? どうやって!?」

「俺は主に召喚された式神だ。交信できるのは主のみだ」


主。式神。

混乱しているのに、直感が「嘘じゃない」と言っている。


「……私の、式神?」

「そうだ」


(え)

(今日、召喚できなかったはずの私が?)

(……え?)


音子は理解するより先に体が動いていた。


「……そっか! 私の式神なんだね!」


勢いで抱きつきかけて、寸前で踏みとどまる。

少年が一瞬だけ身構えたのを見て、音子は咳払いした。


(危ない。勢いで行く癖、ここでも出る)

(式神って怖いはずなのに、嬉しさが先に出るのも怖い)


「ご、ごめん! びっくりしたの! あと……嬉しかった!」

少年は目をそらし、淡々と言う。


「……主は距離感が極端だ」

「分かってるってばー! ……って今のはノーカン!」


音子は誤魔化すように笑い、話題を前へ進めた。


「ねぇ、キミの名前はなんて言うの?」

「……俺の……名前……?」


少年は自分の名を知らなかった。


「え、名乗らない系? かっこ――いや怖い」

「怖くない」

「即ツッコミ!?」


音子は一度深呼吸して、少しだけ真面目な顔をする。


「言えないことなら無理しなくていいよ。その方が……なんか、いいし」

「……」


音子は軽く頷き、胸を張った。


「私の名前は御饌音子。みんな、私のこと“ゼロ音子”とも呼ぶ!」

「……ゼロ音子」

「うん。才能ないって言われて、努力しても失敗続きで……悔しくて。でも、だから――」


音子は目を擦る。泣き虫の癖を隠すみたいに。


「見返したい。立派な陰陽師になりたいの!」


頭の中に、静かな声が響いた。


――俺は主を認める。主は立派だ。


音子は目を見開いた。


「……っ、ありがと。今の、めっちゃ効く……!」

「……効くのか」

「効く! 心が回復する! みかんより効く!」


少年は少しだけ目を伏せ、床に落ちていた紙を差し出した。


「……これが、家の前に落ちてた」

「え……?」


決闘書。


――お前の式神らしき鳥はこちらの手元にある。

 救いたければ陰陽寮の校庭に来たまえ。


「……トト……っ!」


朝の声。お茶。洗濯。“ねこさまー!”。

あれがない家は、急に寒い。


音子は立ち上がり、水晶を握りしめた。


「待っててトト……すぐ助けるから!」


少年の声が追った。


「主、待て」

「止めないで!」

「……来る」


短い警告。

意味を問う暇はない。


(来るって、何)

(……考えるな。今は走れ)



陰陽寮の校庭。


司馬巻が立っていた。

片手には丸い鳥――トト。


「遅いぞ」

「ちょっと! 私のトトに何するのよ! 司馬巻!」


司馬巻はトトを握り潰すように力を入れる。

トトが羽をばたつかせ、震える声で叫ぶ。


「ねこさまー!」

「トト!」


司馬巻の目が冷たく光る。


「才能のないお前が、先生に気に入られていたじゃあないか」

「何の話よ!」

「おこがましい。僕より目立つことが」


司馬巻の数珠が淡く光る。

風が、校庭の中心へ集まる。


「これから決闘だ。断れば、この鳥を殺す」


トトがぐったりする。

その瞬間、音子の視界が赤く染まった。


「……受けて立つわよ。トトは絶対に返してもらう」

「お前の存在が癪に障る!」


風が鳴った。

空気が刃になる。息が吸えない。


音子は弾き飛ばされ、白砂を転がった。

肋が軋む。血の味がする。

視界が回るのに、頭だけが妙に冴える。


(立て)

(トトを返してもらう)


音子は水晶を握りしめる。

冷たいはずの結晶が、手のひらの奥で熱を返した。


「なめんなぁあ!」


形代が舞う。数が多い。

散らして視界を奪い、狙いをずらす。

紙の端が頬を掠め、熱い線を残す。


司馬巻が目を見開く。


「今日は一体も動かせなかったはずだろう! しかも数が……!」


(分からない)

(でも――手は止めない)


音子は弾かれて裂ける紙を無視し、術者へ札を叩き込む。

司馬巻の集中が揺れ、風の形が乱れる。


「操ってるなら、術者を揺らせば――!」


司馬巻が苛立ち、数珠を一気に回す。


「生意気な……!」


風が増す。

校庭の空気が薄くなる。護符が唸る。

結界柱が震え、石畳の隙間から砂が踊った。


巨大な輪郭が夜空に立ち上がった。

十メートル級の圧が、校庭を押し潰す。


風神。


「死ねぇええええ!」


拳が落ちる。世界が叩き潰される。


ドオォンッ!


地面が沈み、石灯籠が砕けた。

衝撃で耳がきいんと鳴る。


司馬巻は勝利を確信した。


「やったか。鋼鉄すら切り裂く風だ。生きて――」


次の瞬間。


ズシャアアアアア!


音が遅れて届いた。

風神の巨腕が、肩から斜めに断たれていた。


砂煙の裂け目から、ひとりの男が歩き出す。


刀を片手に提げ、刃には血も泥もない。

あるのは静けさだけ。


司馬巻の声は悲鳴になった。


「だれだ!! お前は!!」


音子は膝をつきながら見上げる。


「……キミは……」

「俺は――」


男の瞳が、音子を一瞬だけ見た。

そして司馬巻を見る。


「……ゼロ。主を守る式神だ」


ゼロの視線が、司馬巻ではなく――夜空に立つ“風神”の輪郭へ向いた。

人を見ていない。狙っているのは、術の塊だけだ。


司馬巻が吠える。


「まとめて始末してやる!」


風が集まる。

だがゼロの一歩が、風の理屈ごと踏み潰した。


「無駄だ」


風が届かない。

風神の輪郭も、ほどけて消える。

消える直前、ゼロの輪郭がほんの僅かに揺れた。


それでも足は止まらない。

消すのは“式神”。相手は“人”じゃない。


司馬巻が一歩引いた。

――今なら、斬れる距離だ。


だがゼロは踏み込まない。

刀を僅かに下げ、音子の横へ“影”のように立った。


(見守ってる)

(……前に出るのは、私)


音子が息を吸う。


「いつもクラスでバカにしてくるところ!

 私のトトをさらったこと!

 陰陽師失格って言ったこと!

 ……あと全部ぉおお!!」


札が舞う。


ゼロが、何も言わずに道を空けた。

守る位置だけは崩さない。

――前に出るのは、音子だ。


「急急如律令――形代吹雪!!」


空が紙で埋まる。

景色が消えるほどの吹雪。


司馬巻は風をぶつけようとするが、ゼロに弾かれ、術が乱れる。

そこへ形代が降り注ぐ。


「司馬ぁああああああ!!」


司馬巻の叫びが夜に沈み、最後は音もなく倒れた。



決闘が終わるや否や、音子は司馬巻の手元からトトをひったくるように抱き上げた。


「トト!」

「ねこさまー! 生存確認でございますー!」

「確認いらない! 生きててよかった……!」


トトは胸元に顔をうずめて震えた。

音子はぎゅっと抱きしめ――慌てて緩めた。


「ごめん、潰すとこだった!」

「ねこさま、抱擁の加減が豪快でございます……!」


そこへ、足音。


道満が石畳を踏んで現れた。

夜の校庭に似合いすぎていて、逆に怖い。


道満は倒れた司馬巻を見下ろし、短く息を吐く。


「……やりすぎだ、司馬巻」


司馬巻は気を失っている。


道満は音子を見る。

ゼロを見る。

そして何も言わない。言わないのに、圧がある。


「後始末は俺がやる。お前らは帰れ」

「……はい」


音子は頷き、トトを抱え直した。


ゼロが一歩引き、夜に紛れる。



――御饌音子の家。


音子は戸を開けた瞬間、トトを抱えたまま床にへたり込んだ。


「ただいま……」

トト「おかえりなさいませ、ねこさまー! そして言わせてくださいませ。誘拐は二度とごめんでございます!」

「それは私が言いたい!」


トトは震えながらも、急に思い出したように言う。


「ねこさま、お茶は……」

「今それどころじゃないってばー! ……いや、でも飲みたい!」


トト「では急行でございます!」

「急行って何!? 普通でいい! 普通で!」


慌ただしい羽音が台所へ飛んでいく。

“いつもの音”が戻った。それだけで家が暖かくなる。


音子が笑いかけた、その瞬間――頭の中に声が落ちてくる。


――いる。


「……ゼロ?」


こたつの影が、またほどけた。

畳が鳴らない。それでも、目だけは確かにこちらを向いていた。


「うわっ! そこから出てくるの禁止!!」

ゼロ「待機地点だ」

「ここ、こたつだよ!?」

ゼロ「合理的だ」

「合理的じゃない!!」


ゼロは子供の姿に戻っていた。

さっきまでの圧は薄いが、目だけが夜のままだ。


音子が覗き込む。


「……さっき、急に大人になったよね」

ゼロ「使った」

「燃費悪いの?」

ゼロ「悪い」

「正直!! 隠して!? かっこつけて!?」

ゼロ「無駄だ」

「無駄って言うな!」


トトが台所から顔を出す。


トト「ねこさま。会話が漫才になっております」

音子「なってない! ……なってるかも!」

ゼロ「……なってる」

音子「本人に認められたら終わりじゃん!」


トトが胸を張る。


「ねこさま。私の方が燃費が良いでございます」

「張り合うな! するなら私と張り合って!」

トト「ねこさまは燃費が悪いでございます」

「そこは言うな!!」


ゼロの目が、戸の外へ滑った。


「……外だ」


家の中の空気が、ほんの少しだけ冷える。


音子は息を吐いて、指を立てて押し返した。


「ねぇ。今後“主”じゃなくて“音子”って呼んで。練習」

ゼロ「……音子」

「よし! いい子!」


トト「ねこさま。今のは“お願い”という名の命令でございます」

「黙って!」


音子は笑って、ふと胸元の熱を思い出す。

鎖骨の少し下が、まだじんわり温かい。


(……何なんだろ、これ)


でも、今は答えがいらない。


音子はトトの頭を撫で、ゼロを見る。


「とにかく。今日は分かった」

ゼロ「何が」

「守るものがあると、体が勝手に動くってこと」

ゼロ「……それでいい」


音子は頷き、笑う。


「じゃあ、これからも守ってね。ゼロ」

「……守る」


そしてゼロは、初めて“声”で言った。


「主を守るのは式神の掟だ」


音子は一瞬きょとんとして、次の瞬間、満面の笑みになる。


「……うん! 最高!」


トト「ねこさま。では明日の朝は寝坊なさらぬよう」

音子「分かってるってばー!」

トト「“ばー”を付ければ許されると思わないでくださいませ」

音子「細かい!!」


家に、いつもの温度が戻った。


(第1話・了)

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