第10話「疑惑の帳簿と、忍び寄る魔の手」

カーテンの裏での甘やかな仮眠時間から、現実へと引き戻された直後のことだった。 私の「不正感知」スキルが、サイレンのように警報を鳴らしていた。


手元にある黒い革表紙の帳簿。 初出勤の日に、

書類の樹海の底から発掘した「裏帳簿」だ。

そこにある違和感は、素人目には分からないレベルのものだった。書類の端がわずかに折れている。

ページの開き癖が、昨日私が閉じた時と違う。


(……誰かが、見た?)


私とアレクセイ様しか知らないはずのこの帳簿。 私たちがカーテンの裏で眠っている間に? いや、アレクセイ様の結界がある執務室に、気配もなく侵入するのは不可能だ。 ならば、私が席を外していたわずかな隙間か、あるいは──。


「リアナ、どうした? 顔色が悪いぞ」


デスクに戻ったアレクセイ様が、怪訝そうに私を見ている。 私は震える指で眼鏡を押し上げ、深く息を吸った。


「……閣下。緊急の報告があります」


「なんだ」


「この部屋に、鼠が入り込んだようです」


アレクセイ様の目が、スッと細められた。


「鼠? 衛生管理局を呼ぶか?」


「いいえ、四本足の鼠ではありません。二本足の、手癖の悪い鼠です」


私は黒い帳簿を開き、特定のページを指し示した。


「ここを見てください。七年前の『予備費』の項目です。インクの染みが、新しく付着しています。誰かがこのページをめくり、そして慌てて閉じた痕跡です」


「……」


アレクセイ様が無言で立ち上がり、私の手元を覗き込む。 その瞳が、ページに残された微細な痕跡をスキャンしていく。


「……確かに。私の記憶にある配置と、三ミリずれている」


「はい。そして、このページに書かれている数字こそが、この国の病巣そのものです」


私はペンを取り、裏紙に計算式を書き殴りながら解説を始めた。


「閣下、私はこの帳簿を再計算しました。一見すると、予備費は適切に運用され、余剰分は翌年に繰り越されているように見えます。ですが、ここには『幽霊』が住んでいます」


「幽霊?」


「架空の公共事業です。毎年、決まった時期に『道路補修』や『河川整備』の名目で予算が計上されていますが、その工期と資材購入履歴を照らし合わせると、矛盾が生じます。資材を買った記録がないのに、工事が完了していることになっているんです」


私はそろばんを弾くように指を動かした。


「つまり、行われていない工事に対して、金だけが支払われている。その額、年間でおよそ八億ベル」


「……八億だと?」


アレクセイ様の声が低くなる。 八億ベル。

地方都市一つが丸ごと潤う金額だ。それが毎年、煙のように消えている。


「十年分で八十億ベル。これだけの巨額資金が、正規のルートを通らずに闇に消えています。そして、この資金の流れを隠蔽するためには、財務省だけでなく、工事を認可する国土省、監査を行う監査局……複数の省庁にまたがる協力者が必要です」


「組織的な犯行か」


「はい。そして、この帳簿を見た『鼠』は、私たちがこの事実に気づいたかどうかを確認しに来たのでしょう」


私は帳簿を閉じた。 手が冷たくなっていた。

ただの横領ではない。これは、国の中枢に巣食う巨大な寄生虫だ。 私のような一介の経理係が触れていい案件ではない。これ以上踏み込めば、命の保証はないだろう。 「命の値段」と「正義感」を天秤にかける。 普通なら逃げ出す場面だ。


「……リアナ」


不意に、アレクセイ様が私の肩を抱いた。

彼の体温が、冷え切った私を包み込む。


「怖ければ、今すぐこの件から手を引け。君を巻き込むつもりはない」


「……手を引いたら、この八十億ベルはどうなりますか?」


「回収は不可能になるだろうな。証拠隠滅される」


「八十億ベルあれば……」


私は呟いた。 八十億ベル。 それで救える命の数。建て直せる孤児院の数。 そして何より、そんな巨額の無駄金が、一部の強欲な貴族の懐に入っているという事実が、私の「もったいない精神」を逆撫でした。


「……嫌です」


「え?」


「八十億ベルですよ? ドブに捨てるなんて、経理係として許せません。私のプライドにかけて、一ベル残らず回収してやりましょう」


私が顔を上げて言い放つと、アレクセイ様は一瞬呆気にとられ、それから楽しそうに喉を鳴らして笑った。


「くくっ……ははは! 君は本当に、金のことになると命知らずだな!」


「命は大事ですが、無駄遣いはもっと大罪です」


「いいだろう。その度胸、買った」


アレクセイ様は笑いを収めると、ふと、部屋の入り口の方へ視線をやった。

その瞳から、笑いの色が消え失せる。

残ったのは、絶対零度の殺意だけ。


「だが……私の許可なく、私の執務室テリトリーに土足で踏み込んだ罪は重いぞ」


彼がゆっくりと歩き出す。 執務室のドアノブへ。 彼はノブに触れることなく、指先だけでそれを凍てつかせた。


「鼠が侵入したということは、警備システムに穴があるか、あるいは警備兵の中に裏切り者がいるか。……どちらにせよ」


パキィィィン……


部屋中の空気が軋む音がした。 アレクセイ様の背中から立ち上る魔力が、目に見えるほどの冷気となって渦巻いている。 普段の「意地悪な上司」でも「甘い恋人(仮)」でもない。 これは、国一番の魔法使いであり、冷酷な支配者としての「氷の宰相」の姿だ。


「私の庭に入り込んだ害虫は、一匹残らず駆除しなければならないな」


彼は振り返り、私を見て微笑んだ。 それは、背筋が凍るほど美しく、そして残酷な笑みだった。


「リアナ。君は計算を続けろ。……掃除は、私がやる」


「……あ、あの、閣下」


「なんだ? 止めても無駄だぞ」


「いえ、掃除をするなら、ついでにカーテンも洗濯したいので、業者を呼ぶ費用を経費で落としていいですか? 鼠が触ったかもしれないと思うと、気持ち悪くて」


私のトンチンカンな申し出に、アレクセイ様の殺気が一瞬だけ緩んだ。


「……ああ。好きにしろ。君の気が済むまで、何度でも新品に変えてやる」


そう言って、彼は部屋を出て行った。

扉の向こうで、衛兵たちを招集する低い声が聞こえる。 嵐が来る。 私は眼鏡の位置を直し、再び黒い帳簿を開いた。


「さあ、計算の時間よ。……貴方たちが隠した数字、全部暴いてあげるわ」


私の戦場はここにある。 ペンを剣に、そろばんを盾に。 私たちの「共犯関係」は、ここから本当の意味で始まったのだ。

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