リンゴ飴の溶ける頃に

そらしずく

リンゴ飴の溶ける頃に

『夏祭りには、あの世から還ってきた死者が混じっているんだって』


誰に聞いたのかはもう思い出せない。

けれど、耳に張り付いたその言葉だけはずっと忘れられなかった。


人々のざわめき。すれ違うたびにヒラヒラと揺れる浴衣の袖。

並んだ屋台の明かりが、行き交う人の顔を煌々と照らしている。


ーーー今年もまた、探してしまっている。

見つかるはずなんて、ないのに。


ミハルは手にしたリンゴ飴を見つめながら、自嘲した。

幼い女の子の浴衣姿を見つけるとつい目で追ってしまう。

こんなことを、いったい幾度繰り返したことだろう。



妹がいなくなったのは、10年前の夏祭りの日だった。

あの時も、こうして夜店が並び、人の波が神社の境内まで続いていた。

目を離したのは、ほんの一瞬。

友達に呼びかけられて振り向いた、その一瞬だけだったはずなのに。

気づいた時には、隣を歩いていたはずの妹の手の温もりが消えていた。


ミハルの必死の呼びかけも、あとから合流した両親の声も、

警察の捜索も空しく、妹は見つからなかった。

まるで神隠しにでも遭ったように、妹がそこにいた痕跡は何一つ見つからなかった。


それでも、夏祭りのたびに、気づけば誰かを探している。

もはや癖のようなものだ。


…その時だった。

屋台に吊るされた綿あめの大きな袋が揺れたその向こうに、小さな影が視界をかすめた。

白地に鮮やかなオレンジの金魚が描かれた浴衣。

見覚えがあった。忘れるはずがなかった。

あの浴衣は、妹が最後に着ていたものだ。


浴衣の主の顔は見えない。狐のお面で隠されている。

けれども、たしかに一瞬こちらを見て、逃げるように駆け出した。


「待って!」


衝動的に駆け出す。

人波をすり抜け、屋台の隙間を抜けると、見覚えのない坂道に出ていた。

気づけば、うるさいほどに鳴いていた蝉の声がぴたりと止んでいる。


風が、抜ける。

湿り気を帯びた、ほんのりかび臭いその風は、まるで土の中から吹いているように感じた。


風の吹いてくる方向を辿ると、石段の先に一つの古びた祠があった。

その陰に隠れるようにして、さっきの子供が立っていた。

子供はゆっくりと白い狐面を外す。


「………ミユ?」

久しぶりに口にした名前が、空気をわずかに揺らした。

いなくなったはずの妹だった。間違いなく、10年前と変わらない顔。小さな瞳。


『久しぶり、お姉ちゃん』

唇が動いた、その瞬間だった。


祠の奥からなにかがずるりと立ち上がる気配がした。

先ほど通り抜けた風と同じ、湿った土の匂い。

声にならない低い音が、頭の中に響く。


『その子は、哀れにも殺された魂だよ』

祠の中から現れたソレは、人の形をしていた。

だが、顔がなかった。

顔があるべき場所には、白い半紙のようなものが貼り付いており

そこには墨で描かれた謎の紋様があった。

目がないのに、なぜかソレがこちらを見ていることが分かる。


ソレは、くつくつと低い声で笑うと、こう言った。

『この子の魂が欲しいのなら、この子を殺したものをここに連れておいで』


ミハルの肌が粟立った。

震える声で、必死に問いかける。

「…誰が妹を……?」


ソレは答えない。ただじっとミハルを見ている。

「誰か分かったら連れてくる!だから、犯人を教えて!」


すると、ソレは指をすいとミハルに伸ばしてきた。

『お前は知っているはずだよ』

そのまま、指がミハルの額に近づけられる。

『返してやろう、お前の罪を---』


額をトンと指で突かれたその瞬間。

ーー思い出してしまった。


あの日の夜。

10年前の夏祭り。


ミハルは友達と祭りに出かけたくて、母親に頼み込んだ。

小学生同士で夜の祭りなんて、と始めは渋っていた母親だったが、

最後には苦笑して、許してくれた。


浴衣を着せてもらい、うきうきして玄関に向かったその時。

妹のミユがぐずり始めた。

『お姉ちゃんだけずるい、ミユも行きたい!』


普段は仲の良い姉妹だった。

何かと自分の真似をしてくるミユのことも、可愛がっていたはずだった。

ただ、その日は違った。どうしても邪魔をされたくなかった。

それでもミユはどうしても引き下がらず、結局ミユを連れていくことになった。


その夜、友達との会話に夢中になっていた時、ミユが金魚すくいをしたがった。

ミハルはお金を渡し、「一人で行ってきな」と背中を押した。

金魚をすくうミユは、一人の男に話しかけられていた。

見覚えのある顔。父の友人。家にもよく遊びに来ていた人だった。

ミユにやたらと構うその人に、いつも違和感を覚えていた。


なんだかまずい気がする、そう思った。

でも、ミハルは目をそらした。声をかけなかった。

そして、気づいたときにはミユも、男もいなくなっていた。

そのまま、妹は消えた。


あの男に話しかけられていたことを、両親や警察に言ったのかどうか、

もう思い出せない。

言ったけれど、アリバイがあったのかもしれない。

男は、翌年町を出て行った。

そして10年が経った。


ーー殺したのは、たしかに別の誰かだ。

でも、まずいと分かっていながら見捨てたのは、私だ。


妹が祠の前に立ち、まっすぐに見つめてくる。

ソレが言う。

『罪を思い出したか。

 贖う気はあるか?それなら、おまえ自身を置いて行け。

 そうすれば、この子の魂は還るだろう』

「私が、代わりになるってこと…?」

『そうだ。おまえの存在をひとつ分けてもらおう。

 たとえば、目。たとえば、声。たとえば、記憶』


妹が小さく首を振る。

『そんなこと、しなくていい』

小さな口が、そう動いたように見えた。


ミハルはゆっくりと息を吐く。

「だったら、私の全部を持っていって」

ソレの影がゆらりと揺れ、湿った土の匂いが近づいてくる。


そのとき、妹が一歩前に出た。

「やめて」

風を切るような、小さな声が響く。


「もういいよ。私が帰りたいのは昔じゃない。

 ミハルが、前に進んでくれる世界だ」


妹の声に、ソレが静かにうなずいた。

『では、返そう。おまえの罪と、喪失と、赦しの記憶を。

 おまえの捨てたものを、持っていくがよい』


トン、と再び額を突かれた瞬間に、胸に微かな痛みが走った。

妹がふっと笑った気配がした。

そして、そのまま月明かりに溶けるように姿を消した。


蝉の声が降ってくる。

祭りのざわめきも、どこか遠くから戻ってきた。

気づけば、手に持ったリンゴ飴が溶けていた。


目の前には、狐のお面だけがぽつんと落ちていた。




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リンゴ飴の溶ける頃に そらしずく @sora_shizuku

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