D.iary-14職場脱出大作戦と、久方ぶりの抱擁
セシリアは静かにノアの傍らに立っていた。薄暗い光の中で、淡い金色の髪が微かに揺れる。 彼女は空気中の微妙な緊張の波動を感知していた――これを行うことは、間違いなく異常な擾乱(ディスターバンス)を引き起こす。
しかし、彼女の視線はノアが強く握り締めている自分の手に落ち、その目を通して、少年の渇望を見た。
軽く息を吸い、セシリアの声は静かだが揺るぎなかった。
「……了解(ラジャー)」
ノアはこの世界へと着地した。魂が天地と再び共鳴したその瞬間、彼はかつて冷たくなっていたその顔へと、一歩一歩近づいていった。
セシリアは静かに見守っていた。その眼差しには稀に見る優しさが透けていた。 彼女は少年の歩みが緩慢から急促へと変わり、ついに、母の少し驚いた視線の中で、ノアが駆け寄り、強く抱きしめるのを見た。
母は抱擁された瞬間、身体を一瞬硬直させたが、すぐに本能的に力を抜き、ノアの背中を優しく叩いた。
「それは、どんな温もりなのでしょうか?」
その疑問がセシリアの心にふわりと浮かんだ。彼女は自分が思考していることにさえ気付いていなかった。 あるいは、ノアの目に光る一抹の涙が、既に無言の答えを示していたのかもしれない。
ノアの母はそっと手を上げ、ゆっくりと息子の背中を叩いた。一度、また一度。 急がず、問い詰めることもなく、最も馴染み深い、日常的な方法で彼を慰める。
ノアの呼吸が次第に落ち着いてから、彼女は少しだけノアを離し、彼の少し赤くなった目元を見て、柔らかく、少しからかうような口調で言った。
「どうしたの、今日はまた。そんなに離さないなんて……小学校の時、鼻提灯つくって泣いてた時以来じゃない?」
ノアはようやくゆっくりと手を離した。 胸の中には数千数万の言葉が渦巻いているのに、喉元まで出かかった言葉は次々と飲み込まれていく。 彼は母の顔を見つめた――その見慣れた目鼻立ち、変わることのない優しさ――眼窩が再び微かに熱くなる。
遅れてやってきた数滴の涙が目尻を伝い落ちる。彼は全ての抑圧をこの瞬間に吐き出すように、低い声で言った。
「母さん……会いたかった」
ノアの母は沈黙して目の前の子をまじまじと見た――。 とかす暇もなかった乱れた髪、数日間まともに食事を摂っていないような僅かな痩身、そして何かに引き裂かれたような、血が滲むほど赤い目。
彼女はノアが何を経験したのか知らない。 彼がいったいどんな感情、恐怖、あるいは悪夢を背負ってここまで来たのかも知らない。 だが彼女は手を伸ばし、優しく彼の髪を撫でた。彼が小さい頃、悔しい思いをした時と同じように。
「行こうか」
彼女は優しく言った。
「今日は早退するわ――親子水入らずで、パーッと気晴らしに行きましょ」
そう言うと、ノアの母はノアの手を取り、振り返って隣の同僚に叫んだ。
「麗さん、今日私早退するわ。仕事頼んでごめんね、後でタピオカ奢るから! 来週埋め合わせするから!」
「おっけー。タピオカはいいよ、今日はマンゴーポメロサゴ頼んだし」 隣の同僚は気怠げに応じた。顔は上げなかったが、ノアは彼女の微かな微笑みを垣間見た。
「ちょっと待って、どこへ行くつもり?」
声を上げたのは主任だった。厚い書類の束を抱えて早足で近づいてくる。眉間には深い皺が刻まれ、その表情に作為的な傲慢さはなく、ただリズムを乱された焦燥と不快感だけがあった。
「十分後にエリアマネージャーとビデオ会議よ。今期のレポートもまだ終わってないのに。今帰る気?」
職場特有の高圧感が瞬時に迫る。周囲の同僚たちは黙って頭を下げ、キーボードを叩く音さえも慎重になった。
ノアの指が強く握り締められた。 彼はこの空気を熟知している――生活の重圧、大人の不自由さ。母を困らせたくはない。
「母さん……」
言葉が出る前に、母の手がより強く握り返してきた。温かい掌から確信に満ちた力が伝わる。 彼女は主任を見た。目には一瞬の申し訳なさがあったが、それ以上にあったのは、ノアが見たこともない、母親としての決断だった。
「すみません、陳(チェン)主任」
彼女の声は大きくはなかったが、騒がしいオフィスエリアにはっきりと響き渡った。
「レポートは明日の晩、残業して仕上げます。皆勤手当は規定通りカットして構いません。でも今は、息子に私が必要なんです」
「あなたねぇ――」普段おとなしい彼女がそう返すとは予想外だったのか、主任の声のトーンが数段上がった。「いい加減にしなさいよ、この案件がもし……」
周囲のひそひそ話、電話のベル音、それらが濁ったノイズとなって混ざり合い、狂ったようにノアの神経を攻撃する。
ノアはこめかみが脈打つのを感じた。何かを破壊したいという暴力的な感情が胸に渦巻く。
ふと。 世界が静止した。
いや、音が消えたのだ。主任の口はまだ動いており、周囲の電話のランプも点滅しているが、全ての煩わしい雑音が、見えない障壁によって優しく切断された。
ノアは振り返った。 セシリアが彼の半歩後ろに静かに立っていた。指先は微かに垂れている。 彼女はあの主任を一瞥もしなかった。その澄んだ瞳はただノアを注視し、彼の心拍数が落ち着くかを確認しているかのようだった。
「外部干渉(エクスターナル・インターフェース)、遮断完了」 「ありがとう」
ノアの返事は小さかったが、この静寂の領域(フィールド)では一言一句が鮮明だった。
セシリアは彼を見て、眼差しを幾分和らげた。 彼女は軽く頷いた。「貴方の感情指数が閾値に接近していました。外界による継続的な干渉を許可できません」
そして、彼女の口調は断定的かつ穏やかになった。既定の結論を述べるように。
「現在、お母様と十分に気晴らしをすることが、最優先事項(トップ・プライオリティ)と判定されました。これからの時間、貴方の安定維持を全力で支援(アシスト)します」
母はこの一瞬の異常な静寂に気付いていないようだった。彼女はただノアの手を引き、呆然とする主任の横を悠然と通り過ぎた。 言い争いはない。この母親の前では、言葉も権力も効力を失っていた。
彼女はただ彼の手を引き、このストレスに満ちた大人の世界から彼を「盗み出した」のだ。
母と子は一歩、また一歩と並んで歩く。廊下からエレベーターへ、回廊から正門へ。繋いだ手はもう二度と離そうとしなかった。
セシリアは二人の後ろに続いた。 彼女の速度は遅いが、視線は前を行く大小の影をしっかりと追尾していた。
母性愛――彼女にとって、それは永遠に演算不可能な空白であるはずだった。 しかし今、その固く結ばれた指、言葉を必要としない導き、その情緒の安定と緩和を見て……。 彼女はシステムの何処かが密かに点灯するのを感じた。
未解決の謎に、最初の一筆のデータが書き込まれたようだった。
13:10。
ノアと母が会社の正門を出た時、涼しい風が重たい湿気を伴って吹き付けてきた。上空は先程のような晴朗さをもはや失っている――漆黒の雨雲が空の半分を飲み込み、今にも押し潰してきそうだった。
一滴の冷たい雨水がノアの目の前を過った。 しまった、傘を階段に忘れた――彼が振り返ろうとしたその時、指先が不意に差し出された傘の柄に触れた。
傘は音もなく開かれ、絶妙なタイミングで彼の前に止まった。
ノアは振り向き、隣のセシリアを見た。彼女はただ手を上げ、静かに「シーッ」というジェスチャーをした。その瞳は波を抑え込んだ湖面に酷似していた。 礼を言わせないつもりだ。
ノアは胸の奥が微かに柔らかくなるのを感じ、ただ軽く頷いて、彼女の手から傘を受け取った。
「母さん、どこ行く?」 「まだお昼食べてないでしょ。よし、お店に行こ――あんたの大好きな『鍋八塊(グオバークワイ)』へ」 「うん」
ノアの返事は雨音を驚かせないように軽かった。しとしとと雨がついに降り始め、街の行人は急速に疎らになり、車列が水光の中で緩やかな長蛇となった。ビルの間を風が湿気を帯びて駆け抜け、広告看板だけが点滅し、雨雲に低く抑え込まれた都市にわずかな彩りを添えている。
傘の外、セシリアは雨の幕の中で静かに浮遊していた。 雨水は彼女によって隔絶され、周囲を流れる痕跡だけを残す。彼女は傘の下で寄り添う二人を見つめ、その組まれた腕に視線を集中させた。
システムログ表示:対象のコルチゾール値は急速に低下中。代わって平穏かつ重厚なドーパミン分泌を確認。
これが――「依存(リライアンス)」か。
雨傘の下、ありふれた一組の母子が肩を並べて歩く。傘の外は連綿と続く雨の線、傘の中は彼らが共有する小さな世界。足跡は水溜まりに落ち、跳ねる飛沫だけを残していく。
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