D.iary-9絶望の冷たさと、再臨する救済の光
消毒液の匂いが喉を締め付け、空気の奥底から冷気が滲み出してくる。 ノアがゆっくりと目を開けた時、最初に視界に映ったのは色彩ではなく、生命感の欠片もない蒼白な天井だった。
「……ここは、どこだ?」 「俺は……なんで寝てるんだ?」
声は遠くから響くように軽く、彼自身でさえその中に混じる狼狽を聞き取れないほどだった。
意識が誰かに泥の中へと強く押し込まれたかのように、混濁し、重い。 記憶は破片のように掴みどころがない。 頭部は鈍器で殴打されたように痛み、視界全体が暗転する。 それでも、彼は本能的に身を起こした。
ノアの指先が微かに震える。周囲を見回す――個室病棟だ。 テーブルには手付かずの温水が置かれている――湯気は既に消え、随分時間が経っているようだ。
静寂――部屋全体の音だけが抜き取られたかのよう。 ノアの途切れそうな浅い呼吸を除けば、動いているのは枕元のデジタル時計だけだ。
ノアは時計を一瞥する――20:00。 数字は冷たく、温度を持たない。
喉は紙やすりで削られたように渇き、指先はシーツを強く掴みすぎて白くなっている。 呼吸は乱れ、冷たい空気が肺を切り刻む。 曖昧だが心臓に直撃する予感が、音もなく這い上がってくる――彼はまだ思い出せていないある事実を恐れている。
その恐怖は、病室の冷気よりも骨身に沁みた。
病室の外、足音が最初は曖昧に、微かに、誰かが廊下の突き当たりで躊躇しているかのように聞こえた。 だがすぐに、その音は明瞭に、重く、規則的になった――一人ではない。二、三人がこちらに向かってきている。
ドアが軽く二回ノックされた。 続いて、ドアが開かれる。
警察官が先頭に立ち、表情は厳粛。医師が後に続く。 二人は同時に、冷酷で硬質な現実をこの過剰に静かな病室へと持ち込んだ。
警察官は簡単に頷いた。「ノア君、いくつか説明しなければならない状況がある」
医師は計器を見て、ノアの意識清明を確認してから口を開いた。「まず伝えておくが、君は昨日、道端で倒れているところを通行人に発見され、病院に搬送された」
警察官が補足する。「君のそばで君の携帯電話を発見した」 彼は制服のポケットから証拠品袋に入ったスマホを取り出し、ノアに渡した。「今、返却する」
ノアは受け取った。指先が微かに震える。
医師は深く息を吸い、平坦だが直接的な口調で言った。「君のお母さんが……会社の近くで突発的な事故に遭った。搬送時には既に危篤状態だった」
警察官は更に率直に告げた。「残念だが、助からなかった」
二人の言葉はまだ続いていたが、世界は中身をくり抜かれたかのように、音のない、完全に破砕された静寂へと墜落した。
泣くことも、足掻くこともない。視線は彼らの姿から逃走し、目の前のスマホを注視する。 自動ロック解除。数件のメッセージが目に飛び込んでくる。
『今日は自分でご飯作るよ』 『了解、帰りを待ってるわね』 …… 『母さん、まだ帰ってこないの?』
往日の情景が流水のように溢れ出してくる――幼い頃に抱かれた体温、下校途中に繋いだあの温かい大きな手、少年時代に顔を上げればいつでも捕まえられた、明るく平凡な笑顔。
それらの記憶が脳内で絶えず衝突するが、音はしない。
「母さんに、会わせてください」
警察官と医師が続けようとしていた説明の言葉が、強引に切断された。 音声は空中で凍りつき、空気はそれに伴い抑圧的な静寂に沈む。
二人は半秒愣然とした――医師は目を伏せ、警察官は軽く息を吸った。 両者は視線を交わす。その一瞬で、答えは人と人の間で伝達完了していた。
余計な慰めも、余計な説明もない。 ただ無力だが受け入れざるを得ない認可――それが彼らに与えられる、最も穏やかな許しだった。
ノアは医師の支えで起き上がった。病室のドアが開かれた瞬間、世界は無数の耳障りな破片となって砕け散った――呻き声、押し殺した泣き声、切迫した叫び、家族の口論と詰問……。 全ての音が混ざり合い、沸騰するまで煮詰められたノイズの鍋のようだ。 ただ一つの共通する下地(ベースカラー)を残して:
――苦痛。
病院に真の「静寂」など存在しない。ただ悲しみの形態が異なるだけだ。
ノアの指先が微かに強張る。彼は無意識に思考を閉鎖した。 それらの音は彼から遠ざかり、曖昧になり、エレベーターに乗り込むその時まで続いた。
金属の扉が両側からスライドし、閉まる瞬間、ようやく世界の雑音を切断した。
「4――3」 「2――1」 「――-1」
鋼鉄の壁が冷たい光を反射し、狭い空間にはノアのいささか急促な呼吸だけが残る。
エレベーターのドアがゆっくりと開いた瞬間、より冷たい空気がノアを正面から現実へと突き戻した。 廊下の照明は暗く、壁の白さはここでは灰色に近かった。
医師が前を歩く。足音は極限まで軽く抑えられているが、ノアの耳には依然として格別に鮮明だった。 医師は立ち止まり、軽く息を吸ってから、ドアを開けた。
薄暗い照明の下、白い布に覆われた大理石の台がある。 医師は言葉を発さず、ただ歩み寄り、そっと白布の一角を捲り上げた。
それは彼が記憶の中で数え切れないほど見てきた顔――心配、怒り、喜び。馴染み深い表情が脳内を駆け巡る。 だが目の前の、その顔にあるのは安寧だけだ。
ノアは手を伸ばした。 指先から母の顔までは数センチ――それは彼が生まれてからずっと、最も慣れ親しんだ体温の在処だった。 だが指先から伝わってきたのは――氷のような冷たさだけ。
感情の重圧が洪水のように理性の堤防を突き破った。 心臓が激しく脈打ち、収縮するたびに冷気が血液に沿って四肢に滲み込む。 喉は見えない手にきつく締め上げられているようだ。呼吸は荒く、痛みを伴い、眼前の現実は彼を圧迫し、方向感覚さえ奪っていく。
何の前触れもなく――口角に塩辛い味が伝わった。 涙が、細い流れとなって滑り落ちる。だが、失われた温もりを埋めることはもう二度とできない。
震え。全身が冷たい空気の中で揺らいでいる。
「母……さん……」
抑えきれない苦痛を伴い、声はようやく喉から破片となって絞り出された。
「母さん、……なんで?」 「母さん、俺……すっごく会いたいよ」 「母さん、……ここ……寒いよ」
震える声が何もない霊安室で反響し、絶望が両脚を押し潰した。
「誰か……助けて」
少年は跪き、そのほとんど聞き取れない、引き裂かれたような嗚咽で、世界全体に救いを求めた。
――その瞬間だった。
彼の胸に掛かっていた、長く彼に寄り添ってきたあのペンダントが、不意に微かに震えた。
彼の救難信号に応えるかのように、くすんだ金属の表面に柔らかな白い光点が浮かび上がり、光芒が急速に蔓延した。 光に伴ってやってきたのは、あの懐かしい温もり。
「……リ……ア?」
光芒はいよいよ強くなり、空気が微かに歪む。
『感情アンカー、生成』 『第六紀、再臨(リ・アドベント)』 『感情模倣システム、オンライン』
馴染みのある、空虚で透き通った声が再び響く。絶望の分厚い壁を貫くように。 光の粒子が人の輪郭へと凝縮し、淡い金色の長髪が柔らかな白い光流の中で舞う。 ノアは顔を上げた。 彼は見た。あの空白から色彩に染め上げられた瞳を――清らかで、それでいて深邃な瞳を。
「ノア」
声は柔らかく、けれど彼の心の最も脆い防衛線をノックした。 彼女の指先がノアの涙を拭い、優しく頬を撫でる。
「来ましたよ」
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