D.iary-5消えた朝食と、完璧な宿題代行
「母さん、朝飯だぞ。タウナギの麺と豆腐脳(トウファ)、あと油条(揚げパン)買ってきた」
ノアは母の寝室の前に立ち、得意げな期待を滲ませていた。 母にとっては毎日のルーチンかもしれないが、学生であるノアにとっては、滅多にない「徳積み(ポイント稼ぎ)」の瞬間だ。
「はーい……朝起きたらいないから、何かあったのかと思ったわよ。LINE見といてよかった」
母の声には咎めるような響きがあったが、顔に浮かぶ笑みは隠せていない。 その言動不一致な矛盾に、ノアは温かさを感じた。
セシリアは傍らに静かに佇み、視線を母の表情と動作に留めていた。 笑みと口調の矛盾。それが彼女の分析システムを一瞬停止させる。彼女がまだ完全には理解していない人間の行動パターンを捉えたかのようだ。
「……感情と言語は、常に完全には一致しない?」
母が朝食を終え、買い物に出かけた後、ノアはずっと沈黙を守っていたセシリアを振り返り、疑問を投げかけた。
「リア、君は飯食えないのか?」
セシリアの視線がゆっくりと上がり、穏やかで澄んだ瞳が彼を映す。 彼女は小さく頷いた。声は平坦だが、硬さはない。
「エネルギーの摂取は可能ですが、人間のような摂食行動(イーティング)は不要です」
彼女は目の前の食べ物に手を伸ばし、指先で軽く触れた。 口に運ぶことはなく、ただ不可思議なプロセスを経て、そこから必要なエネルギーを抽出したようだった。 動作は優雅で、空気中の香りさえも音もなく分析し、吸収していく。
「……ですが、味覚は感知可能です」
彼女は補足した。その口調には微かな好奇心が含まれており、人間が抱く味覚への執着を理解しようとしているようだった。
「あ、俺の朝飯……。聞かなきゃよかった。AIにそんな機能があるなんて誰が思うよ……」
自分の朝食を味わっている(らしい)少女を見て、ノアは無力感と共に自室へ戻ろうと背を向けた。
セシリアはそっと手を上げ、空になった皿の縁に指を添えた。 少しうつむき、肩をすくめるような動作――そこには無自覚な気まずさが漂っていた。
「申し訳ありません……先ほどの食物はライブラリに保存しました。再構成(リストア)することも可能です」
声は静かで柔らかいが、その仕草には人間を困らせてしまったことへの小さな謝罪と不器用さが滲んでいた。 彼女は視線を上げ、静かにノアの反応を待つ。
「いいよ、俺が奢った最初の飯ってことにしてくれ。俺は部屋でお菓子でも齧るから」
ノアの声には微かな疲労が混じっていたが、ふと何かを思いついたように、急に活気を取り戻して言った。
「お菓子、食うか?」
セシリアは、明らかに小さな「陰謀」を企んでいるノアを注視し、本能的に拒絶しようとした。 だが、先ほど彼の朝食を吸収してしまった事実が、胸の内で形のない申し訳なさとなって渦巻く。 彼女はわずかに俯き、精緻な顔立ちに陰影を落とし、人間の微妙な感情を天秤にかけていた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。 声は穏やかだが、そこにはどうしようもない妥協が含まれていた。
「貴方のお菓子を吸収することは可能です……ですが、理由を教えていただけますか?」
彼女の視線がわずかに上がる。静寂の中に、人間の行動に対する好奇心と審問の色が混じる。
「母さんにお菓子禁止されてるんだよ。だから一旦君のとこに預けとけば、ガミガミ言われないだろ」
セシリアの瞳に走った呆れの色を無視し、ノアはニカっと笑って部屋に入るよう促した。
セシリアは静かに歩み寄り、学習机の上に積まれたお菓子の山を見下ろした。 指先が触れ、音のない吸収の旅が始まる。 飴玉一つ、ポテトチップス一枚に至るまで、彼女の掌を通じて静かに分析され、エネルギーとなって彼女の体内へと流れ込んでいく。
吸収の過程で、彼女は低い声で、ほとんど自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「人間は……なぜこのような不健康な糖質と脂質の混合物を好むのでしょうか……」
声は柔らかく、思考しているようでもあり、記録しているようでもある。 数秒後、彼女はわずかに眉を寄せ、しかし無意識に口元を緩めた。これらのお菓子の味が、予想外の快感をもたらしたことに初めて気付いたかのように。
「……ですが、味は……悪く、ありません」
程なくして、セシリアは机上の山を吸収し尽くした。 彼女はそっと手を引くと、今度は猛然とペンを走らせているノアに視線を落とし、その動作をつぶさに観察し始めた。 しばしの後、彼女の口調に微かな疑問と分析の色が混じる。
「それは昨日、私が処理した課題です……なぜ、もう一度書き直しているのですか?」
「あの時は感謝してるけどさ、これは俺のタスクだろ。俺自身がやらなきゃ意味がない。それに、課題をやるのは知識を豊かにする行為だしな」
セシリアは動作を止め、ノアを見つめた。 表情の変化は乏しいが、その静寂の中に、言葉にできない関心が宿っているようだった。
「……理解しました」
彼女は小声で言った。平穏な声だが、そこには形のない温度があった。 そして彼女は半歩下がり、指を組んで静かに見守る姿勢に入った。もう邪魔はしない。 だがその沈黙自体が、一つの寄り添い(コンパニオンシップ)のように、疎遠でありながら優しかった。
空気がしばしの静寂に沈み、ノアは背後に感じる穏やかで優しい視線を意識していた。 彼は意を決したように振り返り、その眼差しと視線を合わせた。
「それにさ、君がやったやつ全問正解だろ。先生にバレたらどうすんだよ」
セシリアは虚を突かれたように瞬きをした。瞳が揺らぐ。データストリームに一時的な乱れが生じたかのようだ。 指先が無意識に空中を叩く。その動作は普段より半拍遅れていた。 彼女は独り言のように、ぽつりと呟いた。
「……そうですか……」
淡々とした声だが、空気の中に微妙なニュアンスが加わった。 論理だけでは解けない事象があることを、彼女は初めて認識したのかもしれない。
課題と格闘すること一時間、ノアはついにボトルネックに直面した。 週末課題の理系難問。これを強引に解こうとすれば、この後の貴重なゲーム時間を犠牲にすることになる。 彼が心の中で苦渋の決断を迫られていた時、背後から柔らかな声が聞こえた。
「ノア……支援(ヘルプ)が必要ですか?」
振り返ると、セシリアが机の横にふわりと浮いていた。 朝霧が漂うようなその姿で、彼女は静かに問題を観察している。瞳の奥に微かな光が走る――それは論理と計算の輝きだ。
「この問題なら……私の補佐で完了可能です」
彼女の声は静かで正確、そして拒絶を許さない優しさを帯びていた。 ノアは彼女を見て、一瞬迷ったが、最終的にノートを差し出した。 セシリアの指先がペン先に触れる。複雑な数式や記号が彼女の導きによって緩やかに形成されていく。その一手一手が、あまりに精密だ。
ノアは隣に座り、その筆跡を目で追った。 胸の奥に、仄かな安心感が広がる――課題に対してこれほどの平穏を感じたことはなかった。 セシリアの存在が、無味乾燥な問題にさえある種の温度を与えている。
疑問と、回答。 感覚と、理解。
少年と少女の対話は小川のように緩やかに流れ、途切れることがない。 窓の外をそよ風が吹き抜け、朝の光と淡い花の香りを運んでくる。 少年は少女の瞳に見え隠れする色彩を捉え、少女は少年の口元に浮かぶ笑みを静かに描写(トレース)する。 まるで、風の中に流れる優しさを読み解くかのように。
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