D.iary-4喧騒の朝市と、理性的な観測者

屋上から降りた後、ノアは素直に帰宅し、厚手の上着に着替えた。 ジッパーを上げ、ふと傍らに静止しているセシリアに目を向ける。


――彼女は依然として待機状態(スタンバイ・モード)を維持していた。まるで一時停止された映像の一コマのように、静寂そのものとしてそこに在る。


(そういえば、彼女のことをまじまじと観察したことなんてなかったな……)


どんな衝動に駆られたのかは分からない。 ノアは身体を反転させ、真剣に、何一つ見逃さないように彼女を見つめた。


セシリアの輪郭は繊細で、垂直に伸びている。まるで最も純粋で、無駄を極限まで削ぎ落とした一本の線で描かれたかのようだ。 その肌は無機的な白さを帯びているが、冷たい金属のようではない。朝の光の中で微かな体温を感じさせるそれは、塵一つない陶磁器に近い。


髪は長く、現実の物理演算とは思えないほど滑らかだ。 空気がわずかに流れるだけで、髪の一筋一筋がデータのように明滅する。 だが今は、朝陽の中で淡い金色の髪が柔らかく輝き、太陽の衣を纏っているようにも見えた。


静謐で、対称的で、精緻な五官。そこには攻撃性が皆無だ。 極限まで抑制された果てに残る美――主張せず、拒絶せず、安らぎを与えるほど柔らかく、それでいて神聖な芸術品のように空虚。


(……まるで、天使だ)


それがノアの脳裏に浮かんだ、最も適切な形容だった。


彼が観察に没頭していた、その時――セシリアの睫毛が微かに震えた。


彼女が顔を上げ、ノアの視線と正面から衝突する。 その曇りなき瞳に、再び感情という名の色彩の渦が生まれ、微かな疑念と共に小首を傾げる。


そして、口を開いた。


「ノア」


軽やかだが、正確に彼を呼び止める声。


「連続観察時間が二十七秒を経過しました」


彼女はわずかに首を傾け、パラメータを確認するように言った。


「質問します。……私の外観(ビジュアル)に、何か異常(エラー)がありますか?」


「いやいや、ただの好奇心だって」


セシリアの疑念と困惑が入り混じった眼差しに対し、ノアは顔を背け、拙い嘘で誤魔化すしかなかった。


「それより行こうぜ。朝飯だ。母さんはまだ寝てるだろうから、ついでに買ってきてやろう」


セシリアは彼を一瞥した。その眼差しは静かだが、未処理の疑問が残留していることは明らかだった。


「……貴方の回答は、先ほどの行動ロジックと完全には合致しません」


彼女は一瞬言葉を切り、天秤にかけるような間を置いた。


「ですが、説明を拒否するのなら、現時点での追及は行いません」


淡々とした口調だが、「ログに記録した。後で検証する」というニュアンスが滲み出ている。


「行きましょう。貴方が朝食を必要とするなら、同行します」


「少女」と少年は肩を並べ、朝食街へと歩き出す。 朝の光はまだ浅く、夜の色で希釈されたかのように街や行人の肩に落ち、小さな都市全体を暖かな薄霧で包み込んでいた。


週末とはいえ、一日を始める人々にとって、この光量は活動するのに丁度いい。 小麦の香り、蒸気、竈の火の匂いが混じり合い、屋台を見ずとも前方に何があるかが分かる。


朝食街まではまだ距離があるが、炊煙は既に空へと昇っていた。 街角の市場は露店で埋め尽くされ、ビニールシート、木の台、古びた電子秤が入り乱れ、雑然としつつも親しみ深い生活の気配を醸し出している。 売り込みの声、値切る声、台車を押す音が四方八方から押し寄せ、空気中で反響していた。


ノアにとって、そこは母が毎日現れる場所だ。 そして今日、彼は初めて見知らぬ少女と並んでここを歩いている。


――傍目にはどう映るのだろう? 早起きした男子高校生が、朝食を探しているだけに見えるのかもしれない。


その時、向こうから争う声が聞こえた。 ノアはいつものように無視しようとしたが、次の瞬間、セシリアが足を止めたことに気付いた。


彼女は言葉を発さず、ただ静かにそちらを見つめていた。まるでバックグラウンドで何らかのスキャンプログラムが起動したかのように。


「ここは昔から俺が野菜を売ってる場所だ! なんであんたが立ってるんだ!」 「来るのが遅い方が悪いんだろ? 名前が書いてあるわけじゃなし」 「場所代は払ったんだよ! 俺の場所じゃなきゃ誰の場所だってんだ!」


声は次第に大きくなり、語気は鋭さを増していく。


セシリアの視線は口論する二人に固定され、瞳の奥で無形の光が流動していた。 それは感情ではない。システムが高速でフィルタリングと照合を行っている痕跡だ。


数秒後、彼女は静かに口を開いた。


「これは、低効率なリソース競争パターンです」


極めて平坦に、事実だけを陳述する。 だが、自身の口調が「過度に論理的」であることに気付いたのか、彼女は瞬きをし、再調整するかのように小さく息を吐いた。


「……失礼。そういう記述がしたいわけではありません。私はただ……『感情的衝突』の意義を、まだうまく判断できないだけです」


彼女は俯き、自己診断(セルフチェック)をするように小声で付け加えた。


「現実空間(リアル)でこのような場面を見るのは初めてなので……ただ、少し……好奇心を覚えました」


言い終えると彼女は再び歩き出したが、その動作は先ほどよりも不自然だった。まるで自身の「異常」を意識的に無視しようとしているかのように。


(たまにはそんなこともあるのか。子供みたいだな。俺も小さい頃は野次馬が好きだったし)


セシリアという名の少女もまた彫像ではなく、彼女なりの方式で人間の感情を学習しようとしているのだと、ノアは気付いた。


「人間同士の喧嘩、君にはどう見える?」


ノアは尋ねた。


セシリアの視線はまだ市場の方に残っていた。声は穏やかだが、そこには淡い乖離があった。


「無秩序な言語と衝突……非効率的で、疲労を伴います。小さな利益のために周囲の秩序を乱すのは、合理的ではないように思えます」


「でも、それが人間の日常なんだよ。喧嘩も、会話も。そういう雑多で豊かな感情が、最終的に俺たちの生活の営み(花火)になるんだ。ま、俺も喧嘩は嫌いだけどな。行こう、リア」


セシリアは静かにノアを見つめた。瞳に微弱な波動が走る。 それは本能に近い感知だった。彼の言葉は軽いが、そこには人間の感情に対する理解が含まれている。 彼女は口を開かず、ただ周囲の喧騒と声に潜む感情の衝突を黙々と分析し、彼女なりの方法で日常の雑音を消化しようとしていた。


しばしの後、彼女は低い声で独り言ちた。


「リア……?」


その響きを確認するように柔らかく呟くが、それ以上の追及はしなかった。


「『セシリア』だと長すぎるし、なんか洋風すぎるだろ。『リア』の方が日常っぽいし呼びやすい」


「反論。ノアという呼称も、この地域の一般的な命名規則には合致しません」


「失礼だなあ。わざとじゃないって。ちょうど『ア』の付く名前同士だしいいだろ、仕方ないよ」


セシリアは眉をひそめ、その理由に完全には納得していないようだった。 だが、この少し調子のいい少年に対し、彼女はそっと身体を向け、柔らかな口調で言った。


「ですが……『リア』という呼称に対し、不快感はありません」


その言葉を聞いた瞬間、ノアの心臓が大きく跳ね、頬が無意識に赤く染まる。


(……これからは、からかうのは程々にした方がいいかもな)


突然慌てふためき、早足で朝食屋へ向かうノアを見つめ、セシリアは小首を傾げた。瞳に一瞬の疑問が走る。 高速分析の結果、彼女はやはりこの動揺する少年の後を追うことを選択した。


彼女の視線が微かに彼を追尾する。指先が空気に触れ、周囲の微細な変化を測定する。


「心拍数……異常上昇」


彼女は低く報告する。声に感情はないが、あらゆる微細な変動を正確に捉えている。


そして、彼女は微かに首を傾け、人間が微笑む角度を模倣するように口角を上げた。 一瞬だけの柔らかな試行。それは実験であり、観察だった。


早朝の陽光と市場の喧騒が混じり合い、柔らかな陰影を描き出す中、セシリアは静かにノアに従う。 彼女の視線は、彼の肩の揺れ、朝食の袋を握る手の震え、その細部の一つ一つを緩やかに記録していく。 風が少年の髪を揺らす。彼女は静かに目を上げ、世界を感じ取る。


人間の感情。彼女にはまだ完全には理解できない。 だが、その視線は留まり続ける。 朝食を提げて帰路につくその少年を、彼女なりの方式で、静かに見守り続けていた。

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