「拒絶の理由を教えていただけますか？」

セシリアの声は水面に落ちる光のように軽やかだったが、ノアにはそこに温度を感じ取れなかった。 それは人と人との問いかけではなく、トリガーされたプログラムが「質問」というコマンドを実行しているように聞こえた。

ノアは顔を上げ、透明に近いほど静謐な彼女の視線を受け止める。

「理由は教えてやるよ」

彼は深く息を吸い込んだ。

「だがその前に、いくつか質問に答えてもらう」

混乱する脳みそから絞り出した、最初の一手。主導権を握るための足掻きだ。

「貴方の疑問には全てお答えします」

セシリアは躊躇いなく答えた。まるで絶対的な誠実さを保証するシステム規約を読み上げているかのように。

「質問をどうぞ」

許可を得て、ノアは胸に詰まっていた疑問を連射した。

「君は誰だ？　どこから来た？　その『旅』ってのは結局なんなんだ？ 　なんでよりによって俺なんだ？ 　もし俺が断ったら……君は次にどうするつもりだ？」

彼は感情の変化ひとつ見せないその瞳を見つめ続けた。 彼女の回答を全面的に信用することはできない。だが、言葉の端々からわずかでも真実を掬い取れれば、今後の人生を左右するかもしれない。

セシリアは一度内部演算を行ったかのような間を置いてから、再び口を開いた。

「私は第十三紀（The 13th Era）から来ました。第零の旅（The Zero Journey）のために構築されたAIです。個体識別名はセシリア」

彼女の声は終始一定で、論理以外の揺らぎは一切ない。

「旅とは、貴方と共に往くこと――生命の始点から、終点へと向かう道程です」

彼女は自身のデータをチェックするかのように言葉を切った。

「なぜ貴方なのか……それは、私のプログラムに刻まれた原始座標オリジン・コーディネートが貴方だからです。理由は不明ですが、これは既定事実です」

ノアの心臓が小さく跳ねた。 マーキング？　原始座標？　どういう意味だ？

セシリアは続ける。

「そして、貴方の拒絶に対する私の後続コマンドはシンプルです――」

彼女の視線がノアに戻る。それは無感情でありながら、この上なく純粋な凝視だった。

「――私はここに留まり、待機します。 　貴方が私と共に旅立つと決める、その日まで」

（第零の旅、とは一体なんだ？　生命の始点から終点までって、タイムトラベルのことか？）

セシリアの言葉に敵意がないことを察し、少し警戒を解いたノアは思考を巡らせる。

「その『第零の旅』について補足してくれないか。あと、『生命の始点から終点まで』ってのはどういう意味だ？　タイムトラベルか？」

ノアの問いに、セシリアは小さく首を横に振った。その眼差しが、幾分柔らかくなる。

「イエスでもあり、ノーでもあります、ノア」

彼女は手を上げ、前方に伸びる軌跡をなぞるような仕草をした。

「第零の旅……それは私たちが踏み出さなければならない、『感情修復の旅』です」

静寂な厳粛さを帯びた声。だが、冷たくはない。

「第十三紀が崩壊するのは、時間が尽きたからではありません。生命の感情が枯渇したからです。 　文明、意志、生きる意味……その全てが費やされ、空っぽになったのです」

セシリアはそっと自分の胸に手を当てた。そこに鼓動が存在するかを確認するかのように。

「資料検索――Z」 「世界の終焉オメガとは、物理的な消滅ではありません。愛、希望、憧憬、勇気――あらゆる感情が消失し、生命が新たな情緒を生み出せなくなることです」

彼女はノアを見つめる。その瞳は柔らかく、けれど揺るぎない。

「第零の旅とは、『終焉の紀元』が訪れる前に、失われた感情の種を収集すること」

彼女は手を差し出し、何かを示すように言った。

「旅の起点は原始のアンカーから始まります。感情の蓄積、爆発、共鳴がこれらのアンカーを点灯させます。 　全てのアンカーが点灯した時、初めて第十三紀は終焉を回避し、生命を継続させることができるのです」

彼女は微かに微笑んだ。

「ですから――『生命の始点から終点へ』というのは、過去と未来を遍歴することではありません。 　異なる時間点において、感情を育むことができる場所を探すことなのです」

一歩近づき、低く明瞭な声で告げる。

「貴方が選ばれた理由。それは――貴方がまだ、感情を感じているからです」

セシリアは静かにノアを見つめる。

「これが、第零の旅の意義です」

感情、旅。無数の言葉の断片が、現実を繋ぎ合わせていく。 俺が、感情を感じているから？

ノアがセシリアの最後の言葉を反芻し、答えようとしたその時――部屋のドアがゆっくりと開いた。

（やべ、母さんのこと完全に忘れてた）

あまりに唐突な展開に、ノアは対処する暇もない。

「まだ寝てないの？　課題は終わった？　夜中に突っ立って何してんの」

（あれ、母さんにはセシリアが見えてないのか？）

ノアが状況把握に務めている間に、正義の鉄槌たる母の手が課題ノートへと伸びる。 （終わった、一文字も書いてねえ……） ノアは自分に死刑判決を下し、いかにして即時執行を執行猶予に持ち込むかを画策し始めた。

「やるじゃない。今日の分、全部終わらせたのね。早く寝なさいよ」

そう言い残し、母は満足げに部屋を出てドアを閉めた。

「……助かった」

ノアは再び目の前のセシリアを見た。 疑いようがない。この神業を成し遂げたのは、目の前のAI少女しかいない。

セシリアは、少し怯えた様子のノアを静かに見つめ、興味深い現象を観察したかのように小首をかしげた。

「お礼には及びません。ですが、驚く必要もありません」

彼女の声は相変わらず軽く、自然法則を述べるかのように淡々としている。

「私は『顕現レイヤー』の自律制御権を持っています。 　他者に見られるか、聞こえるか、感知されるか……それは私自身が決定します」

彼女は空中に指先を走らせ、見えない境界線を引くような仕草をした。

「現在、私を感知できる対象として設定されているのは貴方のみです。 　通常、不必要な干渉を避けるため、私は人間の感知領域に出現することを極力避けます」

一秒の静止。そして補足する。

「技術的に言えば、透明化ではありません。私と他者との間の『存在感知権限』がクローズ状態にあるということです」

ノアを一瞥する。その一瞬、微かな柔光が走ったように見えたが、すぐに平坦な口調にかき消された。

「これは、世界に対するある種の保護措置です」

彼女は指を合わせ、何らかのインターフェースを閉じるようにした。

「ですから、お母様が私に気付くことはありません。先ほど一瞬で課題が完了したことにも、気付きません」

そして思い出したように顔を上げる。

「ですが、貴方の心拍数上昇幅は……予測よりも大幅に高い数値でした」

（心拍数上昇？） ノアは今の自分の感情を再確認する。恐怖、懸念、疑念、拒絶。だが、それらの感情の渦中に、微かな温かい流れがあることに気付いた。

（彼女に……悪意はなさそうだ）

少女の言葉によって緊張が解けていく中、ノアの心にある計画が芽生えた。

「俺が断った理由を知りたいんだろ？　明日、週末を一緒に過ごそう。観測者オブザーバーとして。そうすれば理由がわかるはずだ」

「貴方の答えを期待しています」

セシリアの平穏な声による終了宣言を聞き、ノアの張り詰めていた神経はようやく緩んだ。

「答え、か。今の俺にとっては睡眠の方が重要だけどな」

（ていうか、こいつ寝る必要あるのか？）

静かな少女を見ながら、ノアは内心で思う。 まるでその独白が聞こえたかのように、少女の透き通った声が響いた。

「貴方が休息している間、私は『日記』――つまり貴方の灰色のペンダントに戻ってスリープモードに入ります。もちろん、スリープ中も貴方の身体状況はモニタリングし続けます」

「ですから、安心して入眠してください。おやすみなさい」

瞬きをした次の瞬間、部屋に残された微かな光は、スマホのゲーム画面だけになっていた。 夜が時空を一時停止させたかのようだ。ノアはスマホを消してベッドに潜り込む。網戸から流れ込む微かな気流だけが、先程の出来事が夢ではないことを告げている。 胸元のペンダントが肌に触れる感触。疲労と眠気が押し寄せてくる。

「てかこれ、どうやって外すんだよ……」

街の灯りが滲んでいく。今夜もまた、どれほどの人が風を枕に眠りにつくのだろうか。