第7話「距離を縮めるにはまだ早い」

リディアは最近、辺境騎士団の駐屯地へ足を運ぶことが増えた。

表向きは聖獣ルナの体調管理や薬草の相談という名目だが、本当のところは、自分でも説明のつかない気持ちが心の奥に芽生えていたからかもしれない。

その感情の先にいるのは、冷静沈着で感情の起伏をほとんど表に出さない、あの団長――ゼノだった。


訓練の合間、団員たちが休憩を取る中、リディアはゼノにそっと声をかけた。


「今日は少し風が気持ちいいですね、団長さんも外に出られてよかった」


だがゼノは視線をほんの一瞬だけ彼女に向けただけで、「ああ」と短く返すのみだった。

それでも以前に比べればずいぶん進歩したとも言えるが、笑みを返してくれるでも、親しげな言葉をくれるでもない。無骨で、壁のような人だと改めて感じる。


それでもリディアは気落ちすることなく、変わらず微笑みを絶やさなかった。

リディア自身も、王都にいる時は感情を表に出さず「冷たい」と言われていたのだ。

リディアは、彼の背中を見ているだけで、なぜか温かい気持ちになれた。

自分がここに来てから笑顔が増えたように、この人の頑なな心にも、やがて春が訪れるのではないか。そんな希望が、彼女の胸の奥に灯っていた。


ある日、リディアは森に野草を探しに出ていた。

ルナの好む野草が川辺の湿った岩場に生えていると聞き、足元に気をつけながら慎重に歩を進めていたのだが、苔に足を滑らせ、思わず尻もちをついてしまう。


「……痛っ」


手のひらを擦りむき、さらに足首を軽く捻ったらしくしばらく立ち上がることができない。

辺りには誰もいないようで、木々のざわめきと遠くの鳥の声だけが耳に届いていた。


リディアが不安に思ったその時だった。

静かに足音が近づいてきたかと思うと、日陰から思いがけない、そして期待通りの人物が現れた。


「……またお前か」


ゼノがそこにいた。

リディアは驚きと安堵に目を見張った。


「団長さん……どうしてここに?」


「川沿いの巡回中だ」


そう言うとゼノは彼女の前に屈み、無言で手を差し出した。

リディアが戸惑いながらもその手を取ると、驚くほどしっかりとした力で引き起こされ、彼の腕に支えられる形で立ち上がることができた。


「手を見せろ」


短くそう告げると、彼は腰に下げていた小さな袋から布と薬草の軟膏を取り出し、手早く擦り傷の手当てを始めた。

冷たい指先が傷口に触れるたび、リディアの胸の奥に波紋が広がっていく。


「不注意だったわ……ごめんなさい」


「森には危険もある。あまり一人で入るのは感心しない。それにお前に何かあったらあの獣も困るだろう」


淡々とした口調ではあったが、その言葉の端に、リディアのことを気にかけている気配が滲んでいた。

彼の手つきはどこまでも冷静で、しかし優しかった。


リディアはゼノの横顔をそっと見上げながら、胸の奥に何かが確かに変わっていくのを感じていた。

恐れや戸惑いではなく、もっと静かで温かいもの。

彼の寡黙な優しさを知るたび、その心に近づいてみたくなる。


「ありがとう、団長さん……あなたは本当に、不器用な優しさを持ってるのね」


ゼノは返事をしなかった。

ただその瞳の奥に、一瞬だけかすかな揺らぎがあったことをリディアは見逃さなかった。


その後、ゼノは彼女を駐屯地近くまで黙って送り届け、ふたたび森へと戻っていった。別れ際もやはり言葉はなかったが、リディアの胸には、小さな温もりが残っていた。


そしてその夜、訓練を終えた団員たちにゼノは何気なく問いかけた。


「……あの女、いつも一人で森に入っているのか?」


その一言に団員たちは少なからず驚いたが、口に出す者はいなかった。

ただ、ゼノの中に確かに何かが芽生えていることを、彼自身もまた自覚しはじめていた。


互いの心はまだ遠く、触れ合うには慎重さが必要だった。

けれど、その距離が少しずつ縮まりはじめていることだけは、確かだった。


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