異世界卸 ~大量仕入、卸売り、これが商売というものだ~
風
第1話「貴族とはかくあるべきなどと申されても」
朝、窓を開けると、少し古くて頼りない木枠が、ぎい、と情けない音を立てた。
ひんやりした空気が部屋に流れ込んできて、布団に残っていたぬくもりをあっさりと連れ去っていく。
屋敷、と呼ぶにはあまりに小さくて、ところどころ壁も剥がれているけれど。
ここが、俺の家だ。
この村を預かる、貧乏貴族の屋敷。
「……今日も、立派にボロいな」
つい、そんなことを口にしてしまって、自分で笑ってしまう。
笑わないと、やっていられない。
床板のきしむ音に気をつけながら廊下を歩く。
余計なところを踏むと、板が抜ける。実績もある。
直したいと思いつつ、直すためのお金がないのだから仕方がない。
階段を降りると、ちょうど扉がどん、と叩かれた。
開ける前から、誰かはだいたい分かる。
「おはようございます、坊っちゃん!」
やっぱり、村のパン屋の娘、リナだった。
いつも通りの明るい声。いつも通りの、少し遠慮のない笑顔。
「おはよう、リナ。今日も早いな」
「パン屋は朝が勝負ですから! それより、これ。昨日少し余っちゃって」
そう言って、彼女は布に包んだパンを差し出してくる。
焼きたてではないけれど、まだかすかに温かい。ふわりと小麦の匂いが広がる。
喉が鳴りそうになるのを、どうにか飲み込む。
「いつも悪いな。代金は――」
「いりませんって。坊っちゃんにはいつもお世話になってますから」
そう言われると、弱い。
実際、俺は大して役に立っているわけでもないのだけれど。
村の揉め事の仲裁をしたり、税を何とか軽くするよう上に頭を下げたり。
貴族として当然のことをしているだけなのに、村の人たちはやたらと感謝してくれる。
「でも、本当に困ったときには、ちゃんと言ってくださいね?」
「困ってない困ってない。ほら、俺は立派な貴族様だぞ?」
わざと胸を張ってみせると、リナは「はいはい」と笑った。
その笑い声が、ひどく居心地がよかった。
……実際には、困っていないわけがない。
税収は少ないし、屋敷の維持だけで精一杯。
服だって、何度も繕って使い回している。
この世界に転生してから、十数年。
俺はずっと、「貧乏な貴族」として生きてきた。
前世の記憶は、ある程度残っている。
日本という、そこそこ平和な国で、そこそこ忙しく働いていたこと。
物流会社の一員として、倉庫で数字とにらめっこしていた日々。
在庫表。需要予測。天候による売上の変化。
そういったものに頭を悩ませていたのが、前の俺だった。
異世界転生といえば、勇者だの魔法だの、きらきらした何かを期待されがちだが。
俺に与えられたのは、地味な知識だけ。
この世界でそれをどう活かせというのか、最初は本当に分からなかった。
でも、村の人たちは、そんな俺を見捨てなかった。
だから、俺もこの村を見捨てたくはない。
「坊っちゃん、今度のお祭りの件なんですけどね」
リナが話しかけてくる。
村のささやかな祭りの相談。
屋台をどう並べるか、余ったパンをどう売り切るか。
そんな話をしていると、ふと、前世での仕事のことを思い出す。
祭りの動線。人の流れ。ピークタイム。
似たようなことは、何度も考えた。
俺はもう一度、リナの手の中のパンに視線を落とした。
「……余るパンを減らせる仕組みを作れたら、いいんだけどな」
「え?」
「いや、こっちの話」
言葉を濁して、曖昧に笑う。
この村だけの話じゃない。
余るパン、余る商品。売れ残るもの。
それは、この世界全体で、どれだけの無駄になっているのだろう。
前世では、それを少しでも減らすために、俺たちは頭を抱えていた。
この世界では、それを考える者がいない。
それが、ずっと不思議だった。
――貴族のくせに、そんなことばかり考えているから、笑われるのだろう。
思考が、自然とあの日のことへと流れていった。
◆◆◆
王都での、貴族子弟の御披露目の舞踏会。
地方貴族である俺にも招待状は届き、村の人たちも「行くべきだ」と背中を押してくれた。
問題は、服だ。
立派な礼服を新調する余裕など、ない。
だから、親父の古い礼服を、どうにか仕立て直して着ることになった。
仕立て直しをしてくれたのも、村の仕立て屋だ。
皆が少しずつ手伝ってくれて、どうにか形になった。
俺は、それで十分だと思っていた。
けれど、王都の煌びやかな会場に足を踏み入れた瞬間、その考えが甘かったと悟る。
眩しいシャンデリア。
光沢のあるドレス。
宝石で飾られた髪飾り。
新品の、仕立ての良い礼服たち。
その中に、一人だけ。
明らかに布地の古い、地味な礼服を着た男が立っている。
俺だ。
「見ろよ、あれ。まだあんな服、残ってたんだな」
「地方は流行が一周遅れているらしいぞ」
「いや、三周は遅れているんじゃないか?」
ひそひそとした声が、耳に入る。
わざと聞こえるように言っているのだろう。
笑いを隠そうともしない。
顔が熱くなる。
でも、ここで怒るわけにはいかない。
俺は深呼吸をして、笑顔を作る。
この程度で、村の人たちが用意してくれた服を恥じるわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせながら、会場の隅で状況を眺める。
煌びやかな会場の中で、自分だけが浮いている。
貴族として、というより、ここで「何かを持っていない人間」として立っている感覚。
その違和感は、どこか前世を思い出させた。
大企業の華やかな本社ビル。
そこに出向いたとき、自社の社屋との違いに、妙な疎外感を覚えたことがある。
設備も、制服も、ランチも、何もかもが違っていた。
俺は、いつも“裏側”にいた。
派手な営業成績とは無縁で、倉庫の数字をいじって、在庫の山を見て、地味に改善案を出す。
誰かに大きく称えられることも、笑われることもない仕事。
こっちの世界では、笑われる側に立っている。
それでも、不思議と絶望はしなかった。
この舞踏会が、俺にとって本当のフィールドではないと、どこかで分かっていたからだ。
「ずいぶん静かな方ね」
いつの間にか、隣に一人の女性が立っていた。
年は俺より少し上だろうか。
落ち着いた雰囲気で、でも目だけはよく通る光を宿している。
「いえ、人混みに慣れていないだけで」
「そう。あなた、どこの領地の方?」
簡単に名乗り合い、形式ばった挨拶を交わす。
彼女は王都に支店を持つ大商会の娘だと言った。
貴族の舞踏会に、商会の娘。
俺が少し驚いていると、その表情を見て、彼女は肩をすくめた。
「今の時代、貴族だけの集まりなんて、もうあまり意味がないもの。でも、取引先が増えるのは悪いことじゃないわ。あなたは?」
「残念ながら、取引先になれるほどの余裕は……」
自嘲気味に答えると、彼女は少しだけ笑った。
嘲笑ではなく、むしろ興味深そうに。
「じゃあ、いずれ。地方は、伸びしろが大きいもの」
そのときは、その言葉の意味を深く考えなかった。
ただ、彼女が「地方」という言葉に、蔑みを込めなかったことだけは、強く印象に残った。
――会場の笑い声。
――古い服。
――きらびやかな灯り。
その全部を抱えて、俺は舞踏会を終えた。
◆◆◆
「坊っちゃん?」
リナの声で、現実に引き戻される。
「ああ、ごめん。ちょっと思い出してた」
「王都の舞踏会のことですか?」
「……そうだな。よく覚えてるな」
「村の皆、気にしてたんですから。坊っちゃんが何を言われても、堂々としてたって聞きましたよ」
あの日の俺を「堂々としていた」と評するのは、少し買いかぶりだと思う。
でも、村の人たちがそう受け取ってくれたのなら、それでいいのかもしれない。
「ま、貧乏貴族には貧乏貴族なりの戦い方がありますしね!」
「力強いことを言うな、お前は」
リナは、胸を張って笑う。
こんな風に信じてくれる人がいるのに、俺がうつむいてばかりいるわけにはいかない。
今のところ、俺にできることは多くない。
だけど――何かできるはずだという感覚だけは、日に日に強くなっていた。
前世の知識。
倉庫の数字。
在庫の山。
売れ残り。
需要と供給の流れ。
この世界にも、流れはある。
誰も意識していないだけで、確かに「物の道」は存在している。
それがあまりにも歪で、無駄が多くて、苦しんでいる人たちがいる。
この村も、例外ではない。
「坊っちゃん、今日はこの後、どうされるんです?」
「村の様子を一回り見てくるよ。畑の水路の件もあるし」
「でしたら、ついでにうちの裏の道も見てください。雨のたびにぬかるんじゃって」
「了解。じゃあ、パンはありがたくもらっておく」
「はい! また後で!」
リナが帰っていく背中を見送りながら、ふうと息を吐く。
パンの布包みのあたたかさが、手のひらにじんと残っていた。
屋敷に戻り、簡素な机の上にパンを置く。
椅子に腰を下ろし、しばらく黙ってそれを眺める。
「……この“余り”を、減らしたいな」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰に聞かせるでもない。
だけど、それは確かな願いだった。
余ったパン。
余った野菜。
売れ残った布。
それらは、誰かの働きの結果だ。
捨てるのは、もったいないというより、申し訳ない。
前世でもそう思っていた。
山のように積まれた在庫に、心のどこかで罪悪感を抱いていた。
「流れをつくる人間が、足りてないんだよな、この世界は」
ぽつりと、自分で言って、自分で驚く。
流れをつくる人間。
それは前世で言うところの、物流担当者だったり、卸売業者だったり、小さな問屋だったり。
商品をつくる人と、商品を使う人の間に立ち、必要な場所へ、必要な量を、ちゃんと届ける。
そういう役割だ。
「卸、か」
口に出してみる。
この世界にも、卸に近いことをしている商会はある。
けれど、どこも高圧的で、情報を隠し、値を釣り上げることばかり考えている印象だ。
前世で俺が見てきた、地道な物流会社や、小さな卸の空気とはだいぶ違う。
ここに、入り込む余地は、あるのだろうか。
いや、そもそも、そんな大それたことを考える前に、この屋敷の床板をどうにかしろ、という話かもしれない。
そんな風に、自分で自分に突っ込みを入れていると、今度は屋敷の外で、馬の蹄の音がした。
こんな時間に、客人か。珍しい。
玄関に出てみると、見慣れた顔が馬から降りるところだった。
隣町にある小さな商会の主、マルクだ。
「やあ、坊っちゃん。相変わらず、元気そうだ」
「マルクさん。こんな朝からどうしたんです?」
彼は、どこか疲れ切った顔をしていた。
いつもは軽い冗談を飛ばしてくる人なのに、その余裕もなさそうだ。
胸の奥に、嫌な予感が走る。
「ちょっと、相談があってな。中に入れてもらっても?」
「もちろん」
客間と言うには質素な部屋に通し、湯を沸かして、簡単なお茶を出す。
マルクは一口飲んでから、深く息を吐いた。
「……うちの商会がな。今、潰れかけてる」
言葉は、予想していたよりもずっと直接的だった。
俺は思わず、手の中の茶器を握りしめる。
「街道がここ最近、特に危ないのは知ってるだろう? 魔物が増えたとかで、護衛代も上がる一方だ。それでも何とかやりくりしてたんだが……」
マルクの話は、淡々としているのに、どこか切迫していた。
「仕入れたはずの品が届かなかったり、逆に予定がずれて一気に押し寄せたり。在庫は膨らむわ、資金は回らないわでな。ついに、倉庫に“山”ができちまった」
山。
その言葉だけで、前世の倉庫の光景が頭に浮かんだ。
積み上がった段ボール。
動かない在庫。
焦る現場。
マルクは、苦笑に近い笑みを浮かべる。
「売れないわけじゃない。町には需要があるはずなんだ。ただ、うちが、それを運ぶ“流れ”を保てなくなってきた」
その言葉に、胸の中で何かがはっきりと形を取った気がした。
流れ。
流れをつくる人間。
卸という役割。
目の前の男は、今まさに、その流れの中で溺れかけている。
「……坊っちゃん」
マルクは、茶器を置き、俺をまっすぐに見た。
「お前さん、前に言ってただろう。“物の流れの話なら、少しは分かる”って」
そんなことを、酒の席でぽろっと話したことがあった。
まさか、こんな形で拾われるとは思っていなかったが。
「正直に言う。俺には、もう見えないんだ。何をどれだけ売って、どこから切り詰めりゃいいのか。このままだと、うちの商会は、そう遠くないうちに沈む」
そこで、彼は一度だけ言葉を切り、苦笑した。
「貧乏貴族様に頼る話じゃないのは分かってる。でも、藁にもすがるつもりで来た。――助けてくれないか」
背筋が、ぞくりと震えた。
これは、ただの泣き言ではない。
商売を続けてきた男が、自分の全てをかけて差し出した、最後のお願いだ。
俺は、ゆっくりと息を吸う。
前世で見てきた数字の山。
在庫表。
需要予測。
倉庫の流れ。
全部が、目の前の「山」の姿と重なっていく。
ここで、何もできないと言ったら。
きっと、ずっと後悔する。
「……分かりました」
口を開くと、自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「マルクさん。その“山”、一度見せてもらえますか」
それが、俺がこの世界で初めて口にした。
“卸”としての、一歩目の言葉だった。
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