異形のカノン
少しでも気を抜くと嘔吐しそうな異臭。
結丹は吐き気を抑えるのに必死だった。
壱弥の指示で靴を履いたまま上がり、異臭の発生源である居間へと向かった。
壱弥が扉を開ける。
狂っている。
そうとしか表現出来ない光景だった。
居間の壁から、無数の青白い手足が伸びている。
骨格や関節を無視して、青白い手足は軟体動物の触腕や足のようにユラユラと蠢いていた。
いっそ、タコかイカのような足ならまだ精神衛生上良かった。
けれど、蠢くそれらは紛れもなく人間の手足で、注視すれば男性のものなのか、それとも女性のものなのか、判別できてしまった。
いや……それ以前に結丹は見てしまった。
男性のものと思しき腕のひとつに、片羽のアゲハ蝶の刺青が刻まれていることに。
その青白い冒涜的な腕は、間違いなく沼田晴臣の腕だった。
結丹は左手で口元を押さえ、蹲りながらもなんとか嘔吐感に耐える。
居間の中央には2人の女性がいた。
肩までの長さの黒髪の、ぐったりしていて生気のない女性が横たわっている。
点滴スタンドに引っ掛けられた液剤の入ったパックから伸びる細い管が、横たわった女性の腕へと続く。
そして、点滴を受ける女性の身体を、座り込んだもうひとりの女性が抱き締めていた。
「あかり!!」
彰巳が叫ぶと、座り込んだ女性がゆっくりと顔を上げる。
横たわる女性より短めの、少しふわりとした軽い印象の髪型の女性。
彼女が、ゆっくりと口を開ける。
「お……お前……お前が、ゆ、弓戸、弓戸……アキミ……」
座り込んだ女性の腕が伸びる。
点滴を受ける横たわった女性を抱きかかえ、包むように、伸びる。
ぐるり。
ぐるり。
まるで蛇のように伸びた腕が、横たわる女性を包み、覆い隠す。
「渡サナイ……オ前、オマエ、ニハ……あかりヲ、渡サナイ……絶対ニ!!」
異形の女性……園村奈津美が河野あかりを抱き締めたまま、叫ぶ。
すると、壁から伸びる手足が一斉にこちらを向いた。
「来るぞ!!」
壱弥が叫んだと同時に、手が結丹を掴もうとするかのように伸びた。
結丹は咄嗟に避けるが、床がスナック菓子のように軽々と、その手によって粉砕された。
「彰巳っ!!」
壱弥の声に結丹が振り向くと、壱弥が彰巳を引っ張ったらしいすぐ横の壁が、青白い足に蹴破られていた。
壱弥は舌打ちをすると立ち上がる。
「《参列者》の案内を頼む、もう1人の壱弥」
[任せて、もう1人の壱弥くん]
壱弥の手に白い花と、傍らに小学生くらいの少年が現れる。
「《此は虚構の葬儀場なり。故に虚構の参列者よ、今此処に集いたまえ》」
壱弥の若干くたびれたスーツが、喪服のようなブラックスーツへと変わる。
そして園村家の居間に、亡者たちが現れた。
殺害、自殺……明らかに普通の死に方ではなさそうな亡者たちが園村家の居間に集い、各々蠢く手足にしがみつく。
「邪魔ヲ! スルナ!!」
奈津美は吠えるように叫ぶが、亡者の数はどんどん増える。
その中に、明らかに異質な少女が居た。
死の痕跡のない、ショートカットの中学生くらいの制服の少女。
「磯谷真里亜ちゃん……か?」
少女は壱弥を振り返り、頷く。
[あのお姉さんと……が、ああなってしまった原因の一端は私だもん。だから《参列》したの。私が手足を引きつけるよ。壱弥さんは私に力を送って。それから、出来るだけ早めにお姉さんを楽にしてあげて]
そう告げると真里亜はしなやかな手足を伸ばして、バレリーナのように踊る。
途端に、青白い手が、足が、真里亜を標的に定めた。
手が踊る真里亜を掴み、粉砕する。
しかし、真里亜の肉片は人の形へと再生する。
今度は足が、真里亜を踏み潰す。
しかし、また肉片となった真里亜は再生し……踊る。
「ありがとう、真里亜ちゃん」
壱弥は荒い息を吐きながら、こちらを向く。
「俺は《参列者》のコントロールで精一杯だ。園村奈津美は既に異形化している。もう殺して楽にしてやるしかない……頼む」
そう言うか言わないかのうちに、壱弥はゴホッという重い咳と共に吐血した。
白いシャツが血で赤く染まる。
「言われなくても……俺はあかりを取り戻す。《我は闇に融けし者。我は影に溶けし者。愛しき同胞よ、我を抱擁せよ》」
叫んだ彰巳の身体が足から融解してゆく……いや、自身の影に溶けてゆく。
影と一体化した彰巳は影から影へと移動し、園村奈津美の影へと移動する。
[お前を殺してでも、あかりを取り戻す]
影から裸体の彰巳が現れ、奈津美に襲いかかった……その時。
「所詮、オ前ハ、マダ、人間……」
あかりを包むように抱き締める奈津美の腕の先。
太い針のようになった5本の指先が、彰巳の肩を貫いた。
「うぐぅ……」
彰巳は影に溶け込む前の姿に戻り、肩に食い込む奈津美の指を外そうともがく。
だが、指先は更に深く食い込み、彰巳は苦痛に呻いた。
もう、迷っている暇はない。
結丹は右腕の包帯を解くとギプスシーネを外す。
剥き出しになった結丹の右腕は手首から先がなかった。
「《我が右腕よ。銃器となりて痛みを喰らえ》」
結丹がそう呟くと、手首より先のない右手の先がボコボコと盛り上がりながら形を変えてゆく。
肉を、骨を、神経を、粘土のようにぐちゃぐちゃに弄ばれる痛みに結丹は咆哮する。
やがて、結丹の右手には拳銃が現れる。
否、結丹の右手の先は完全に拳銃と癒着し、一体化していた。
「《我が痛みを弾丸に、獲物を喰らえ》」
銃声と共に放たれる弾丸。
同時に銃弾に貫かれる痛みに結丹は吠える。
結丹の右手の拳銃、その弾丸は結丹の痛みなのだ。
「あかりハ、渡サナイ! 渡サ……」
言い終わる前に、奈津美の頭部が弾けた。
「《喰らえ》《喰らえ》《喰らえぇええ!》」
胸部が、首が、奈津美の人の形を保っていた部分が弾ける。
奈津美は血と肉片と脂を撒き散らしながら、倒れた。
点滴を受け続ける、意識のないあかりの身体を包んでいた長い腕も、人間の女性のそれへと戻る。
同時に、壁から伸びていた無数の青白い手足も消滅した。
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