2章 02_SUNⅡ



 ゴン、ゴン、ゴン、とドアノッカーの音が3回鳴り響き、返事を待たずして黒衣のローブの悪魔たちが部屋にワゴンを押して入ってくる。

 ルクスは部屋の隅に座って膝を抱えたまま、その様子を黙して伺っていた。

 悪魔たちはルクスのことなど見えていないかのように、淡々とした手つきで猫足の美しい装飾が施された純白のテーブルに、運び込んだものを並べていく。

 途端に部屋に漂う香ばしい香りがルクスの腹に不快な吐き気を齎した。

 ギュルギュルと音を立てる自身の腹に手を添えて、ルクスはぐっと歯を食いしばる。

 悪魔たちは着々と作業を終えると、ルクスを振り向きもせずに部屋を出ていった。

 ワゴンのカラカラという車輪音が遠ざかっていく。

 テーブルの上にはルクスが口にしたことがないどころか、見かけたことすらないような豪華な食事が並べられていた。

 そんじょそこらの貴族だって毎日は決して食べられないような食事だ。

 加えて量も異常な程にあり、仮にルクスの意志が折れてしまったとしても食べ切れるようなものではない。

 ルクスはごくりと生唾を飲み込む。自分を叱咤するように、ギリと唇を噛み締めた。

 しかしどんなに力を込めようとも、ルクスの肌には傷一つ付かない。

 そして今は痛みすら感じなくなっていた。

 その原因はもちろん、あの悪魔である。


 長い廊下の先に終わりがないことを知って打ちひしがれたルクスが、自身が出口を求めて走り続けた時間が途方もない時間であったことを知るのに時間はかからなかった。


 窓際に飾られたクリスタルの花瓶。

 部屋を出る前までは水々しい花がルクスに向かって微笑んでいた。

 白いガーベラの花。

 この世界に似つかわしくない、慣れ親しんだ色の花だ。

 それはルクスの記憶に強く焼き付いていた。

 その花はルクスがへたり込んだ床から何とか立ち上がった時、無惨にも枯れ落ちて床に残滓を溢していたのだ。

 花瓶に満ちた水はからりと乾き切っており、そこに命が消えて久しいことがよく分かる。

 ルクスはその花の亡骸を手に取り、そっと折りたたんだ紙に包んでカーテンの下部にあるポケットにそっと忍ばせた。

 いずれ大地の埋葬するために、と。




 それからしばらくルクスは部屋に閉じこもっていた。

 もっぱら、部屋を出たところであの終わりのない廊下が続くだけで、どこへも行けはしないからだ。

 窓辺に椅子を持って行きそこで日がな一日、空を眺めて過ごした。


 この世界…たぶん、魔界と呼ばれる場所には、決して太陽は昇らない。

 空はいつも暗い雲が垂れ込んでいて、稲光が幾重にも走っている。

 時おりギャァギャァと鳥らしき何かが飛び去っていくが、ルクスにはそれが何か分からない。

 ルクスが下へ降りられないかと窓の下を覗き込んだ時、そこには廊下と同じように、先の見えない闇がずっしりと腰を下ろしていた。

とてつもなく高い場所にあるのか、はたまた魔界とはそういう場所なのか、そんなことは分からない。

 でもルクスにとってそれは、確実にルクスの光を奪うものだった。




 ここに攫われてからどれくらいの時間が経ったのか。

 体感では数週間程度だろうか。

 来る日も来る日も窓を眺め続けていたルクスは、突然椅子から腰を上げて窓を開け放った。

 床から天井までを貫く、観音開きの大きな窓だ。

 開けた途端にゴォっと部屋に風が吹き荒れる。

 金のカーテンがバタバタと激しく暴れていた。

 冷たい風がルクスの肌を鋭く撫でる。

 ブルリと震えながらもルクスは足を一歩、前へ踏み出した。

 途端に体は大空を舞う。

 冷たい風が体温を奪っていくが、そんなことはどうでもいい。

 ルクスは不死なのだ。

 傷つくことがないなら恐ろしくない高さじゃないか、と自分を奮い立たせた。

 痛みは恐ろしいが今までだって散々に苦痛を負って生きてきた。

 熱い火の前に立たされて皮膚を炙られ、塩のついたブラシで毎日のように足を擦られた。

 そんな激痛にだって耐えてきた。

 そんなことを考えつつも、本音は恐怖でいっぱいだった。

 耳元でゴォッと風を切る音がけたたましく、ルクスは風圧も相まって顔を顰める。

 廊下と同じように落下はどこまでも続くかと思われたが、案外に早くその時はやってきた。

 文字通り青い花が咲き乱れる大地が徐々に視界を埋めていく。

 ルクスは微かな喜びと、心臓を抉られるような恐怖に目を閉じた。

 ベグシャン!という破裂音と共に、ルクスの意識は失われた。




 そして目覚めるとそこは、いつもの部屋だった。

 天井には紛い物の青空が広がり、偽りの太陽が斜陽の光で照らしている。

 あまりにも一瞬すぎて痛みも感じなかった。

 自分は確かに死んだはずだった。

 それでも今ここで、いつもと変わらぬ目覚めを迎えている。


 ベッドサイドで影が動いたのを目の端で感じて、ルクスはぼんやりとした視線をそちらに向けた。

 悪魔が首を傾げてこちらを見ていた。

 何も感じていないかのようなガラスの瞳。

 太陽の輝きだけを詰め込んだような金の瞳がルクスを映す。


 「言葉が分からないのか?」


 相変わらずに美しい声だった。

 それが純粋な疑問を孕んで、そう問いかけてくる。

 一体何の話をしているのか分からない。


 「聞こえているだろう?体はもう修復されている。」


 早く問に答えろ、と言わんばかりに、悪魔は僅かに苛立ちを滲ませた声を隠さずに言葉を続けた。


 「お前の体は傷つかない。例え致命的な傷を負っても、即座に修復される。それが理解できないのか?」


 ルクスはしばらく悪魔の金の瞳をぼんやりと見ていたが、やがて静かに目を閉じた。


 この悪魔にはわからない。

 例え言葉でこの感情を、このどうしようもなく沈んだ心とみっともなく希望を探す心を説明したところで、この悪魔には理解できないのだ。


 「この私を無視するとはいい度胸だな。だが肝に銘じておけ。お前を傷付けられるのは私だけ。例えお前自身であっても、その身を傷付けることは叶わない。」


 悪魔はそう言って、音もなく去っていった。

 部屋にはまたルクス一人が残された。

 天井には偽りの晴天。

 そこに浮かぶ太陽は、斜陽の光でルクスを照らした。


 こうして僕の権利はまた一つ、悪魔に奪い去られたのだ。

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