2章 01_SUN



 はじめは、退屈なだけの日々だった。



 初めに悪魔が用意したのは、まるで王族か貴族の子息が住まうような、絢爛な一室だった。

 大仰に幽閉するなんて言って、こんなに自由を与えてどうするつもりかと、ルクスは居心地の悪い寝心地の良いベッドに腰掛ける。

 自分なんかには勿体ないくらいにフカフカの寝具に触れた時、俄かにトムとミカエラの顔が浮かんだ。きっと彼らは、あの藁しかない農具小屋の一室で、寒さに震えて眠っている。この寝具のほんの一枚でも渡せたら、昼間の労働の疲れも癒えるだろう。

 部屋には大きな窓があり、薄く光を帯びた金糸のカーテンが優雅に垂れ下がっている。

 その向こうには大広間で見たのと同じ、日の差さない暗い空が雷を携えて蠢いている。

 それでも室内は明るい。

 この建物の中は怪しい照明が光り薄暗い場所が多いが、ルクスに与えられた一室は違っていた。

 日の光ほどではないが明るい色調の照明が、部屋を温かい色で照らしている。

 まるで大聖堂を思わせる白い壁、金で縁取られた柱。青空を思わせる青色の天井には色とりどりの草花が色彩豊かに描かれていた。

 これがとても高価な物であると、【ものを知らない】ルクスですらよく分かる。

 部屋の出入り口となる扉も同じように白を基調として、金の繊細なフレームに縁取られていた。

 ルクスはドアの前に立ち、じっとりと汗ばむ掌をそろりとドアノブに這わせる。

 アンティークゴールドの持ち手が鈍い光を放っていた。

 この扉を開けてとにかく階段を一番下まで降る。


 玄関を探して、外に出て、そうしたら…。―――


 そこまで考えて、ルクスはため息を吐いた。

 例え計画通りに建物を出られたとして、ここは悪魔の住む世界だ。

 空の色からしてルクスの知る物ではない。

 ここを出てどこに向かえばいいのか。


 それに…―――


 ルクスはドアノブを掴む右手を左手で摩る。

 全く普通に見えるし、痛みだってありはしない。

 それでもこの腕はつい先程ありえない方向に折れ曲がり、ルクスに感じたことのない苦痛を与えた。

 もしこのドアノブを捻り一歩でも外へ出たら、今度は全身の骨が砕けるかも知れない。

 そしてきっとまた元通りに戻るのだ。

 ルクスはぎゅっと腕をさする手に力を込める。

 恐ろしいことだと感じた。

 人は誰もがいつか死ぬのだ。

 毎日、水汲み場で出会って挨拶してくれたロペスじいさんも、一年前に旅立ってしまった。

 悲しいけれど人生とは始まり、そして終わる物なのだとルクスは知っている。

 だからこそ、生きることが代え難い喜びとなるということも。

 ルクスの体は変わってしまった。

 見た目には何の違いも分からない。

 せいぜい清潔になってゲガが消えたくらいで、ぱっと見は普通の人間だ。

 だけどあの悪魔も見た目は【人間】なのだ。

 ルクスは一つ、大きく息を吐き出した。

 とてつもなく恐ろしいが、この場所で閉じ込められたまま過ごすなんておかしくなってしまう。

 ルクスははっと思い立ち、ベッドに整えられていた柔らかい掛け布団を一枚抱きしめた。

 花の装飾が施されたいかにも高価な物だ。

 そうして、再びとドアノブに手をかけてルクスは勢いよく扉を開いた。

 強襲するかも知れない痛みに構えてぐっと歯を食いしばったが、いつまで待っても痛みはなかった。

 ゆっくりと目を開けると、そこにはしんと静まりかえった薄暗い廊下があるだけで、蝋燭が微かに煙を吐いて揺らぐ音だけが耳に届く。

 とりあえず安堵して、ルクスは裸足のまま部屋を出た。

 廊下は左右に伸びており、いずれも長くどこまでも続いている。

 突き当たりなど存在しないかのようだ。

 暗い闇に吸い込まれてしまったみたいに、微かに蝋の赤い光が見えるだけ。

こんな風だっただろうか。

 ルクスは自身の腕が元に戻り、あの悪魔が指を鳴らした後の記憶が途切れていた。

 気がつくと豪奢な部屋のベッドに倒れていたから、この部屋に入る瞬間は見ていない。

 けれど湯汲みに連れ去られた際は、途方もなく広い建物ではあるものの果てがないと思うほどではなかったはずだ。

 それでも、正解が分からずとも、どちらかに進むしかない。

 右か左か。

 分からないならどちらでも構わないじゃないか。―――と思い直し、ルクスは左に向かって走り出した。


 燭台が延々と流れていく。

 まるで機関車の車窓のように。

 はぁはぁと荒い息を何とか繋ぎながらルクスは走る。

 ただの一度も曲がり角はやって来ない。

 同じ景色が延々と続いているだけで、一見すると進んでいるかさえ怪しかった。

 不安になって一度振り返ったが、そこにあの部屋の扉はなく、長く暗い廊下があるだけだった。

 つまり進んではいるのだ、とルクスはほんの少し笑を浮かべて前を向く。


 何時間も何時間も走ったような気がする。

 途中、息を休めて、また走る。

 何度も繰り返した。


 「…なんで?」


 廊下はひたすらに真っ直ぐ続いていた。

 まだまだ先が見えない。

 何時間経ったのかも分からないが、喉がカラカラだった。

 ルクスは疲労困憊で床に倒れ込む。

 精神的に酷く追い詰められていた。

 倒れたルクスを、あの大広間と同じ真っ赤な絨毯が受け止めた。

 果てがないのだろうか。

 そんなことありえない。

 堂々巡りとも違う。

 このまま走り続けても意味がないのかも知れない。

 抱き込んだ掛け布団をギュッと握りしめて、ルクスはうっと嗚咽する。

 戻るか、進むか。

 戻れば明るく整った牢獄が待っているだけだ。

 そんな場所に自分の人生はない。

 体はちょっと…いや、だいぶんと変になってしまったけど、ぱっと見は分からないのだから戻れば何とか生きていける。

 病気にならないのだから儲け物じゃないか。

 そう自分を慰めてみるが、戻り方が分からないという絶望はそう簡単には消えない。


 どれくらいそうしていたか分からない。

 廊下には依然としてロウの燃える音だけがあり、ルクス以外の生き物の気配は皆無だった。


 次第にルクスは恐怖の沼に沈んでいく。

 悪魔の言葉が蘇る。


 【お前は人ではない】


 永遠の命。

 傷つくこともない体。


 このまま自分は、何百という時間を過ごすことになるのか。

 この薄暗い廊下で、一人きりで。

 トムやミカエラの顔すら思い出せなくなっても、死ぬこともできずに。


 ルクスは立ち上がり歩き出す。

 涙がぼろぼろと頬を濡らしていく。

 トムとミカエラにと抱きしめた掛け布団が、ルクスの涙をはじいて赤い絨毯にシミを作っていく。


 「…全く、愚かだな。」


 俯き嗚咽しながらトボトボと歩を進めるルクスの目の前の暗闇から、悪魔の声がしてルクスは瞬時に体を凍らせた。

 悪魔は音もなく暗闇から現れた。

 呆れたような、面倒くさそうにも見える金の瞳がルクスを捉えている。

 まるで獰猛な獣に睨まれたように、ルクスは恐怖に動けない。


 「全て揃えたというのに何が不満なんだ?」


 悪魔ははぁ、とため息を吐きながら首を傾げた。

 ルクスは震える膝を胸中で叱咤しながら、カチカチとなりそうな歯をぐっと食いしばり、涙の溜まった瞳で悪魔を睨みつける。

 悪魔はそんなルクスの瞳を見て、口の端を釣り上げた。


 「この廊下は長い。どこまでも続いている。お前の命のように、な。」


 悪魔の言葉にルクスの希望は打ち捨てられた。

 まだ数回しか合間見えていないが、ルクスには確信できたことがある。

 この悪魔は嘘を吐かない。

 連れ去られてから一度たりと、嘘を吐いてはいない。

 まるでお伽話のような永遠の命も、傷つかない体も真実だ。

 だから、今回もそうなのだろう。

 だから、ルクスは怒らずにはいられなかった。

 こいつは、あえて鍵をかけなかった。

 ルクスに期待させたのだ。

 そう考えたからだ。

 燃えるような怒りがルクスの胸を焼いていた。


 「何を怒っている?私がお前の人生を奪ったという話か?確かに私はお前を幽閉したが、お前には何の苦痛も与えていない。お前を傷つけるのは簡単だが、私はお前に苦痛を与えたいわけじゃない。何が不満なんだ?」


 困ったように笑った悪魔は、やれやれと言わんばかりに指を鳴らす。

 するとルクスはいつの間にあの豪奢な部屋の中に立っていた。


 ストン、と力が抜けて床にへたり込む。

 全てが出鱈目で、なんの法則性もない。

 悪魔はもういなかった。

 けれどルクスはしばらくの間、どうしようもない怖気と形容しがたい憤りに震えていた。

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