1章 01_LUX
冬が訪れた町は身を切る寒さ。
町を行き交う行商人や、待ち人たちは慌ただしい。
もうすぐ主の誕生祭だからだ。
路地裏で風を凌ぎながら、なけなしの銀貨で硬いパンを一つ。
半分は仕事仲間のトムに分け与え、さらに半分は別の仲間のミカエラに。
あと少ししたら、ジャネックさんが僕らを迎えにやってくる。
そうしたらまた、細い煙突の中で煤まみれだ。
パンは三口で腹の中へ収まってしまった。
ぼろぼろの木椀に汲んでおいた水を飲んで腹を満たす。
骨と皮しかない体が水の冷たさにぶるりと震えた。
ボロ切れのような作業着でもないよりはマシだ。元々灰色だった作業着は、真っ黒に煤けている。
「ルクス!早くこい!」
ジャネックさんの怒声が聞こえて、ルクスは飛び上がった。
仕事の時間だ。
空腹を抱えた体を引きずりながら、長い長い午後が始まった。
狭く暗く、息をするのも苦しい。
ここの煙突はまだマシな広さだ。
それでも狭いことには変わりない。
煤まみれの狭い場所でも息をしないわけにはいかないが、あまり吸い込むと毒だ。
煙突の中は燻したような匂いが充満している。
あまり時間をかけるとジャネックさんが下で火を焚き始めるから、急がないといけない。
作業着は全て脱いでしまって身につけているのは帽子とブラシだけだ。
背中がチリチリとした痛みに侵されてルクスは顔を顰める。
大きなでっぱりを背中に感じて、均さなければと考えた。
硬い煤汚れに欠かせないスクレイパーは首から紐で下げている。
煙突の途中の曲がり角に手が触れる。
ようやく最後の方だ。―――
あと少し。―――
そう思って角に手をかけた。
手をかけて、一秒もしなかったと思う。
声がした。
大人の男の声だった。
「見つけた」
真っ暗な煙突の中。
ルクスの手からブラシが落ちる。
今では真っ黒に汚れ、擦り切れた作業帽子が頭からずれ落ちて、暖炉の底の闇へと吸い込まれて行った。
気がつくと見慣れない天井が見えた。
とても高い位置にある。
薄暗い灯りは、冷たい赤色で揺らめいていた。
まるで貴族…いや、王族の宮殿のようだ。
驚いて跳ね起きると、視界に黄金の椅子が映る。
恐る恐る、更に視線を上げるとそこに一人の青年が座していた。
驚くほどに美しい容姿をしている。
金とも銀ともつかない光を帯びた繊細な髪が肩よりも長く垂れ下がり、瞳は太陽よりも美しい金色をしていた。真っ白な肌は、自分の真っ黒な体が恥ずかしくなるほどに透き通っている。
まるで、神話に登場する神や天使のように、この世のあらゆる美しさをかき集めても彼の前には劣るほどの容姿だった。
そしてそれが、一見すると【高貴な身分の人間であると見紛うような姿は偽りである】と、ルクスに思わしめた。
「僕は…死んだのですか…?」
何も身に纏っていない体をさりげなく隠しながらも、ルクスはおずおずと問うた。
椅子にゆるりと背を預けたまま、何の感情も映さない金の瞳がルクスを見ている。
ルクスはそろりと首を動かし、あたりの様子を伺う。
真っ赤な絨毯は暗く深い色を讃え、大広間いっぱいに敷き詰められている。
両壁には大きなガラス窓があり、その向こうには鈍色の空が見えた。赤とも青ともつかない、重々しい雲間から稲光が見える。
どう考えてもここは死後の世界だ。―――
それも楽園ではない方の。―――
煙突掃除人見習いには、週に一度の礼拝の自由がある。だが、それを守る親方の方が珍しい。
ルクスも年に数回しか礼拝をしていないし、風呂すら殆ど入ることがない。
そんな自分が楽園など行けるはずもない。
でも自分はそこまで悪い事をしたのだろうか。―――
「あの…」
沈黙が辛い。
目の前の青年はこちらを見つめるまま、何も話さない。
こんな人をかけ離れたような人に見つめられると圧がすごい。
「まずは身を清めろ。お前の姿は見ていたが、流石にそれで歩き回られては困るからな。」
空気を震わせる声すら美麗で、そしてその声はとても冷たく、ルクスの背にヒヤリと怖気が走る。
彼の言葉が終わるとすぐに、召使いと思しき者たちがルクスにかけ寄った。
一様に目深くローブを纏い、その表情はないに等しい。
頭まですっぽりとローブを被っているせいで、薄暗い無表情に見えるのかもしれない。
灰色に近い肌色の手が異様だ。
その手がルクスの脇腹を捉え、別の手は手足を拘束した。
とてつもない力だ。
とても人間とは思えない。
抵抗すれば殺される…いや、もう死後の世界か?しかし、死んだにしては生々しい感覚だ。まるで生きているような。
半ば引きずられるように広間を出て、ルクスは浴室に連れ込まれた。
見たこともないような豪華な風呂で、嗅いだこともないような良い香りの石鹸でくまなく磨かれる。
そうして真っ白な布を身に纏った時には、ルクス自身も忘れていた自分の容姿が蘇っていた。
白銀と言っても差し支えないくらい色素の薄い金の髪、翡翠と灰簾石を掛け合わせた色の瞳は充血することもなく、瞼の爛れも消えている。
風呂で洗われた時、痛みがない事を不思議に思ったが、傷という傷が消えていた。
ああ、やっぱり。僕は死んだのかもしれない。―――
今から僕はきっと、地獄のデーモンに食われるのだ。―――
今頃、僕がいなくなった事に親方…ジャネックさんが気づいて怒り狂っているだろう。トムやミカエラは心配してくれているかもしれない。
再び大広間へと戻され、黄金の椅子に座る青年の前に連れ出される。
居た堪れない気持ちになるからせめて何か言ってほしい。
そう思って願うような気持ちで青年を見ると、青年はようやく椅子から立ち上がりこちらに歩み寄ってきた。
想像通りのスラリとした体躯は、およそ185センチくらいだろうか。
ジャネックさんがちょうどそれくらいだから多分そうだ。
長い絹のような髪がサラサラと揺らめいている。
漆黒のコート…マントだろうか?をはためかせて、静かにこちらに歩み寄る。
黒いパンツにブーツ、まるで想像した地獄のデーモンとは違う出立ちだ。
ツノも生えていない。
整いすぎた容姿を除けば、見た目は人間と変わらない。
これはこれで、ちまちまと食われそうで恐ろしいが、あからさまなデーモンではないからか、思ったほど恐怖はなかった。
「ルクス。」
「え…何で僕の…」
「お前はもう人ではない。」
「…は…?」
涼やかな声で突拍子もないことを言われて、思わず間抜けた声が出る。
「あの…それは、死んだということ…でしょうか?」
青年は、くつくつと喉を震わせた。
そして少しだけ口端を吊り上げて笑いながら否定する。
「いや、人ではないが死んではいない。」
混乱した頭を抱えそうになる。
生まれて物心ついてすぐ、ジャネックさんの元に売られたルクスにとって、学問とは無縁の存在だったが、それでもあり得ないことを言われているのは理解できる。
「すみません…よく、意味が…。」
「ああ、そうだろうな。お前たちの世界ではあり得ない事だろう。そうだな…わかりやすく言えば、お前は私の手で悪魔へと変わったということだ。」
何も分かりやすくはない。
いや、言葉は端的で実に分かりやすいのだが、意味を理解する事を脳が拒んでいる。
困惑を隠さないルクスに、青年は再びくつくつと喉を震わせて笑う。
「私は何でも思いのままにすることができる。お前のような土塊に、私に等しい永遠の命を与えることも出来る。お前の体は人のそれを超えて、傷もすぐに癒える。」
嬉しいだろう?と言わんばかりに、青年は誇らしげな笑みを浮かべた。
齢20前後の美しい見た目に反して、その瞳は悪戯を楽しむトムのような瞳の色を讃えている。
死なない?―――
傷が癒える?―――
永遠に?―――
意味が分からない。
「僕…戻れるんですよね…?ここ、どこですか?」
じわり、背中を冷たい汗が伝う。
僕の態度が予想に反したのか、青年は訝しげにこちらを見た。
「あの煙突の中にか?そんなに戻りたくなるような場所なのか?あそこは。」
「それは…でも、戻してください!」
「…お前は、戻さない。」
急に冷たい色に変わった瞳と、寒気を覚える圧を感じる声色で、青年は冷たく言い放った。
「戻さない…?」
「私に手に入らないものはない。お前はここに居れば、衣・食・住…それ以上にお前たち土塊が好む全てのものを得られる。私の【モノ】でさえあれば、な。」
そういって薄ら笑いを浮かべる青年からは、体の芯まで凍らせるような【何か】があった。
その【何か】の正体は分からないが、ルクスはその威圧に息を呑む。
地の底から這い上がるような冷たい怖気。
この青年は間違いなくデーモン…悪魔だ。
ルクスは幽霊や怪物なんて見たこともないし、正直に言えば、信じるとか信じないとか、考えたこともなかった。
それでも、ルクスの中の内なる声が警鐘を鳴らす。
目の前の青年は人ではない…―――それも、一階の悪魔ではなく、とても強い悪魔。
「えいえん…に?」
「そうだ。嬉しいだろう?」
ゾッとするほどに美しい微笑みを浮かべて、青年が誇ったように告げる。
確かに、僕の人生は幸福とは言い難いものかもしれない。
親に捨てられ、孤児院に売られ、煙突掃除人の中でも環境は劣悪な方だ。
それでも、後輩のトムや幼いミカエラと夜毎ひっそりと話す時間や、時々依頼人からかけられる感謝の言葉、ジャネックさんが機嫌の良い時にもらえた温かいミルク、 ほんの少しの喜びもなかったわけではない。
それに、ルクスはいずれ独り立ちして、自由に生きていきたいと考えている。
見習いだってなんだって、煙突掃除人に比べたら楽なモンだとさえ思っている。
だから、今目の前で勝ち誇る悪魔が許せなかった。
ルクスのささやかな夢を奪った、目の前の悪魔が。
「…して…」
「なんだ?」
「返して!元の世界に!」
ルクスは悪魔を突き飛ばすように手を突き出した。
その瞬間、バキンと嫌な音を立てて自分の腕がこちらに向かって折れ曲がるのが見えた。
想像を絶する痛みが襲い、ルクスは真紅の床をのたうった。
「お前は確かに永遠の命と傷が癒える体だが、その力は私のものだ。私に争えば制裁が加えられるのは当たり前だろう?」
悪魔は呆れたように笑う。
涙目で床に転がり、ルクスは脂汗を額に浮かべた。
しかし、驚くべき事に、すぐに痛みが癒えていき、変形した腕が元に戻っていく。
「元には戻るが、痛みは感じただろう?解ったら私に逆らわぬことだ。」
…とは言え、と悪魔は続ける。
「お前のその目は気に入らないな。反抗的な目だ。そんな目が出来なくなるまで、お前を閉じ込めておこう。」
悪魔は薄らと暗い笑みを張り付けて、床に転がるルクスに言い放つ。
そして、パチンと指を鳴らした。
こうして、僕の孤独な786年間が始まった。―――
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