感じない君と感じやすい僕の恋愛プロセス

黄昏一刻

第1話 認知(Recognition)

 私立青雲高校の入学式の朝、椎名澄(しいなすみ:男性15歳)は校門をくぐった瞬間から、胸の奥にざらついた感覚を覚えていた。


 ――また今日から、感情の中で過ごすことになるのか。


 澄は、生まれつき高い感情認識能力 (High Emotional Intelligence)を持っていた。

 読心術レベルで、他人の感情が、心がわかる。

 

 澄の初めての記憶は「母が不機嫌になるので夜泣きを止めよう」だった。

 親の手助けが無ければ生きていけない、乳幼児期における親の機嫌は、生命の維持に直結する大問題だ。

 全ての時間を、親の機嫌を取る事に費やした乳幼児期の努力は、澄が幼稚園に通い始める頃には、結実していた。

 

 幼稚園児になった澄は、高い感情認識能力によって得られる情報を基にした自身の行動の最適化を、日常的に行っていた。

 高い共感力と理解力で親を傷つけずに接し、親から信頼されるよう行動できた澄は、「手の掛からない子」だった。


 しかし、幼稚園児になった澄は、新たな課題に直面した。

 

 同級生である。

 

 両親は、基本的に澄に好意を持っている。その為、両親の機嫌を損なわない、という課題は、乳幼児の澄でもクリアできた。

 しかし、同級生という、澄に対して必ずしも好意をもっていない(場合によっては悪意をもっている)、多数の存在達は、澄に悪意への対応、という新たな課題を突きつけた。


 幼稚園時代の澄は、一度ガキ大将達の標的とされた園児が、容易に以前の位置へ戻れない現実を見た。

 そして、澄は一つの結論にたどり着いた。

 他者に自分への悪意を発生させないこと、それを避けるための行動を、日々の基準に置いた。

 具体的には、容姿に気を遣い、他者に不快感を与えない事。他者に侮られないように、自身の能力を磨く事に注力した。

 その甲斐があって、澄は小学校高学年まで、平穏な日々を手に入れる事に成功した。


 しかし、小学校高学年になると、新しい課題が発生した。

 

 恋愛である。


 高い共感力と理解力で分け隔てなく優しく他者に接し、容姿が整っていて、スポーツも勉強も人並み以上にできる。

 

 モテない訳がなかった。


 健全な発育を遂げ、思春期に入っていた澄は、異性との恋愛という新たなステージでの交流に、積極的に取り組んだ。

 恋の楽しさを知り、性の悦びに目覚めた澄は、高い感情認識能力を最大限に駆使し、パートナーとなった女の子を満たすことに、全力を尽くしたのだ。


 しかし、澄が経験した四度の恋は、悉く破綻した。


 澄によって全てを満たされた女の子達は、皮肉な事に全員浮気したのだ。

 年齢的に、澄との関係が初めての経験であった彼女達は、恋愛というステージにおいて、澄を他の男と比較する事ができなかった。

 結果として、全てを満たされた女の子達は、澄が与えてくれない刺激(不快感を与えかねない強引(熱烈)なアプローチや、単なる粗暴な振る舞い、不器用で滑稽でも懸命な行為など)に、流されてしまったのだった。


 四回の浮気の過程で発生した、パートナーの女の子達の嘘や打算、(澄と仲の良い友人であった)浮気相手の男の子達の、澄への身勝手な言い訳や誹謗中傷は、高い感情認識能力を持つ澄に、深刻な傷を残した。

 

 更に、別離の後に発生した、パートナーの女の子達の澄への理不尽な執着と、結局振られた浮気相手の男の子達の逆恨みの追い討ちは、澄に他者と親密になる事を疎ませるのに十分だった。


 かくして、性別を問わず他者と親密になる事に疲れた、誰からも好かれる文武両道の15歳の少年、椎名澄は、高校生活を陰鬱な気持ちで開始したのだった。



 


 私立青雲高校の入学式が始まってから、久遠透子(くおんとうこ:女性15歳)は、多分、ずっと落ち着かないのだった。


 落ち着かない、という表現が正しいのかも分からない。自分は今、脈拍が早くなり、呼吸が浅くなっている。

 それをどう説明すればいいか、分からなかった。


 透子は、生まれつき感情失語症(Emotional Aphasia)だった。


 感情が無いわけではなかった。ただ、自分の感情を認識したり、言葉で表現したりすることが難しかった。

 また、他人の感情を理解することも、致命的なレベルで、できなかった。


「喜怒哀楽」という言葉を読めば、多くの人は、それぞれに対応する表情を自然に思い浮かべるのだろう。

 しかし、透子にはそれができないのだ。

 

 透子は、自分が(多分)落ち着かないのは、周囲からの視線が原因である事は、理解していた。


 透子は美しかったのだ。


 その美しさは、自分から求めたものではなく、生まれつき備わっていた。


 十五歳になった透子の顔立ちは、幼さの名残と、これから大人へ向かう段階の儚い美しさが同居していた。額から頬へ続く線は整っていて、肌は薄い光を帯びたような白さをしている。


 目は細すぎず大きすぎず、均整の取れた二重と長いまつ毛が影を落とし、淡い茶の虹彩は、見た者の心をつかむようだった。

 鼻筋は癖がなく、顔全体の調子を整えている。唇は薄めで、健康的な赤みが自然に浮かんでいた。


 体つきもまた、人目を引いた。

 背筋はすっきりと伸びていて、肩から腰へかけての線は、そのまま腰の細さを示していた。

 下半身には適度な厚みがあり、足は長く、動きに無駄がない。鍛えている訳ではないが、だらしなさもなかった。


 透子自身は、自分の容姿に特別な興味を持っていなかった。

 鏡を長く見る習慣もなく、母親から必要だと言われたから、最低限女性として整えるだけだった。

 だからこそ、飾り立てる意図もなく、過度な強調もないまま、生来の美しさがそのまま周囲の視線を集めていた。

 

 男子生徒だけでなく、女子の視線も同じように刺さってくる。視線にも種類がある。好奇心、興味、羨望、期待。

 透子は、それらを区別する言葉を知らない。


 人が集まる場所に来ると、新しい場所に来ると、様々な人間から様々な感情がいっぺんに押し寄せる。


 ――どうすればいいのか分からない。


 自分がどう見られているか、どうふるまえばいいか、判断する軸がない。ただ、波のように押し寄せる視線や声に、戸惑い続けていただけだった。


 そして今日もまた、同じ状況が続いていた。

 壇上の話が続く中、自分がどんな顔をして立っているのかさえ分からない。

 ただ、見られているという事実だけが残り、その視線の意味がわからず不安が胸に積もっていく。

 いや、「不安」だという事も、透子には判らなかった。

 透子に判るのは、自分は今、脈拍が早くなり、呼吸が浅くなっている、という事だけだった。

 次第に早くなって行く鼓動と、浅くなり役に立たなくなって来た呼吸に、なす術もなく立ちすくんでいた。

 

 



 式が始まる前から、澄は疲れていた。

 人と会えば、会話より先に感情がわかってしまう。声の抑揚、視線の揺れ、姿勢や仕草。


 体育館へ向かう生徒たちの中で、緊張している者、期待に胸を弾ませている者、少し無理に明るく振る舞っている者。それぞれの感情が入り混じっている。

 反射的に、頭の中で仕分けを始めてしまい、澄は早くも疲労を覚えていた。


 体育館に入ると、その疲労はさらに増した。天井の高さに声が反響し、人の密度が上がるほど、感情の層が濃くなっていく。

 自分がその渦の中で、踏ん張って立っているような気分になった。


 式辞が始まり、壇上の言葉を聞きながら、澄は周囲の気配から自分を切り離すように、意識を遠ざける。

 上辺だけ整えた笑顔、緊張した喉の動き、やる気に満ちた声。そうした細かいものが、勝手に分別され、感情の名札がつけられて流れ込んでくる。


 ――なぜ、こんなに疲れるのか。


 理由はもう理解している。読み取れるものが多すぎるからだ。必要以上に理解してしまうからだ。


 ふと、視線を巡らせたときだった。


 周囲で荒れ狂っている感情の渦の中に、ぽっかりと凪いでいる場所があった。


 列の中央より少し奥側。誰かの私語にも、隣の動作にも反応していないひとりの少女が立っていた。

 周囲の気配とは関係なく、ただ立っていた。

 その場所だけ静かで、澄の感覚にほとんど負荷を与えなかった。


 ――こんな人、初めて見る。


 無表情に見えるが、それだけでは説明できない。不自然に情報がない。感情が判らなかい。


 澄は自分でも理由が分からないまま、その一点に目を留め続けていた。



 


 経験上、このままだと倒れる、と透子は判断した。教師に気分が悪いと告げる為、周囲に視線を巡らせる。

 

 そんなとき、ひとつだけ、変わった視線に気がついた。

 列の間から、同級生らしき少年がこちらを見ている。


 澄の視線だった。


 強さがない。不快感もない。ただ、自分に向けられているだけの視線。


 不思議と、不安が薄れた。


 なぜだろう。

 自分を見ているのに、見ていない。

 視線に圧が無い。


 透子は、何故か澄の視線に安心していた。


 気がつくと、鼓動と呼吸は落ち着いていた。



 


 この時の澄は、透子の感情を読もうとしていた。

 無意識の習慣として身についた、他者の心の動きを言葉に置き換え、分類し、それに応じて行動を調整する――その流れが働かないことに、驚きを覚えた。

 視線を向けても、何も掴めない。平坦で空白のように感じられる透子。

 

 それなのに、澄は何故か安堵を覚えていた。


 透子のほうも、澄の視線に安心を覚えていた。

 

 この時の澄は、透子から届く情報を拾おうとすることだけに意識を向けていて、透子に対してのすべてが受動的だった。

 そのため、澄の目には、透子が日常的に向けられる圧や期待が含まれていなかった。

 ただ観察するだけの視線が、透子には負担にならなかったのだ。


 “ただ見ている”というだけの視線。


 その単純さが、透子にとって分かりやすく、緊張せずに済んだ。


 体育館で、二人はまだ言葉を交わしていない。

 それでも、お互いの存在は、周囲のどの生徒よりも強く意識に刻まれていた。


 二人がお互いを”認知”した。

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