哲倫ゼミのアルキメデス

吉田タツヤ

1章:アルキメデス

第1話

「アイを二乗するとマイナスになる」


 濃紺のジャケットに身を包んだ磐田がペンを走らせながらつぶやく。


 また始まった……と譲はため息をつく。別に乗らなくてもいいのに由香が言葉を返す。


「虚数の話ですか?」


 確か高校数学でそんな言葉が出てきた。iであらわされる二乗するとマイナスになる数字だ。定義ぐらいは覚えているが文系の譲にとっては大学に入って以来無縁の存在だ。


「ああ、このアイが実際には存在しないというところがまた深いと思わないか?」


「考えたこともなかったです」


由香の反応に気をよくして磐田がさらに言葉を続ける。


「目に見えない、実在もしないものを仮定することで、現実を説明するのにずいぶんと都合がいい。これは数学の話だけでなく、人間という存在を考える上でも大切なことかもしれない」


 磐田と由香の会話を聞き流しながら、そんなことないと心の中で舌打ちする。


 もともと譲が入りたかったゼミではない。むしろ譲にとってはこの磐田ゼミが哲倫ゼミの中でも最も避けたいゼミだった。二回生に時に授業を受けたことがあったが、この磐田徹という准教授とはそりが合わない。


 譲の通う関西教育大学の社会教育コースでは一、二回生の間は一般教養と社会科に関わる専門教養の授業を全般的に受ける。しかし、三回生になると専門教養のうちさらに細かく分野を選びいずれかのゼミに所属しなければならない。


 日本史や世界史、あるいは法学などのゼミが学生には人気があったが、譲は何となく興味があったのと卒論の判定が緩く、研究の自由度も高いという理由から哲学・倫理学ゼミを選んだ。


 そもそも近しい部分があるとは言え、哲学と倫理学を一つにまとめてしまうこともどうかと思うが、それもゼミ間のパワーバランスによるものだろう。


哲倫ゼミには磐田ゼミ以外に松本教授の松本ゼミ、倉内准教授の倉内ゼミがある。今年度は五人の三回生が哲倫ゼミに希望を出した。教授の希望も一応出せたが結果的に松本ゼミが一人、倉内ゼミと磐田ゼミに二人ずつという割り振りがされた。


『哲倫ゼミのアルキメデス』これが磐田徹に周囲がつけたあだ名だ。他の学部の学生からも譲が磐田ゼミだと伝えると「ああ、あのアルキメデスの!」という反応が返ってくることがある。


 譲から言わせると「何がアルキメデスだ!」である。実際のアルキメデスは様々な発明や定理で人々の役にたったかもしれないが、こちらのアルキメデスは全くだ。磐田の研究は数学の定理から人生の真理を導き出すという何とも怪しげなものだった。カントについて学ぶ松本ゼミやデスエデュケーションの倉内ゼミと比べると人気がないのも仕方がない。


 磐田は学生に何かを教えるというよりは自分の研究に没頭しているタイプだ。学生の研究テーマについて、とやかく口出しすることもなく、基本的に自由度が高い。その点は譲にとってもありがたかったが、少しは指導らしいこともしてほしい。ゼミとは名ばかりのゼミ室にそれぞれが集まり好きなことをしているというのが磐田ゼミの実態だった。


 磐田ゼミに四回生はいない。譲たちの一つ上の学年もいたが三回生の途中で退学してしまった。原因は自由すぎる磐田ゼミの方針のもと、遊び惚けてそのままドロップアウトしたと噂されるが真相は定かではない。


 三回生は譲以外にもう一人。譲のように選考もれではなく、自ら磐田ゼミを希望した川本由香はかなりの変わり者だと言えるだろう。ゼミが一緒になるまではあまり話したことはなかったが、明るい性格の由香は沈黙が支配しがちの磐田ゼミの潤滑油となっている。ただ磐田の独り言にもいちいち反応するので、その後のやりとりがめんどうくさい。


 先日のゼミでのできごとも狂気じみていた。譲がゼミ室に入ると作業机の上に大量の計算ドリルが置かれていた。小学生が宿題で行うようなものだ。磐田がその計算ドリルを次々と一心不乱に解いている。譲もどういう意味があるのか気にはなったが、変にからんでややこしくなるのも嫌なので、本を出して読書を始めた。


 そこに由香が遅れて入ってきた。入ってくるなり目の前の計算ドリルを見て、由香は「何これ? 計算ドリル?」と一冊持ち上げ、中身をパラパラとめくる。問題の内容から小学校三、四年生ぐらいの計算だ。


 由香がパラパラと中身を覗いていたドリルを磐田は視線を手元に残したままひったくるように取り上げる。磐田は無言のまま筆算で書かれた二けたの割り算の問題をすごいスピードで解いていく。


「磐田先生、何をしているんですか?」


 こらえきれず由香が尋ねる。相変わらず磐田の視線は動かず、ペンは次々と計算を解いていくがどこかその質問を待っていたかのようにも見える。


「見てわからないのか? 割り算をしている」


「割り算?」


「ああ、それもただの割り算じゃない。余りの出る割り算だ。分数の概念を習う前にはやっていただろ」


 確かに分数で物事を考えるようになってからいつの間にか忘れていたが、小学校の計算では割り切れない割り算は商と余りの形で答えを表していた。


「でも、何で余りのある割り算をしているんですか?」


 譲が浮かべたのと同じ質問を由香が磐田にぶつける。磐田はやれやれといった感じでゆっくりと説明を始める。それがまた譲には癇に障る。


「割り切れない割り算を行いながら、人生はなぜ割り切れないことばかりなのかを考えていたんだ。人生の真理というのは意外とこういうところに隠れているのかもしれない」


 人生の真理を探究するのにわざわざ計算ドリルを行う必要はないと思うが、磐田については一事が万事この様子、「アルキメデス」のあだ名もそれを揶揄するものだ。このゼミに入って二ヶ月が経過していたが、譲は未だに磐田の性格をつかむことができていなかった。


 二乗するとマイナスになる虚数の話がまだ磐田と由香の間で続いている。二人の会話を完全にシャットアウトして譲は本を読んでいた。周りの雑音をシャットアウトして読書する能力を身につけたことがこの二カ月の一番の成長かもしれない。


 やりたいテーマはまだ何も決まっていないので、この二カ月は哲学、倫理学に関する本を手あたり次第読んでいる。譲はその中で何かテーマになりそうな物が見つかればいいと思っていたが今のところそこまで心惹かれる題材がない。


 卒論を書きだすにはまだまだ時間があるが今年中にはテーマを決めたいところだ。四回生になると二カ月に一回、哲倫ゼミが集まっての卒論の中間発表会がある。三回生も来年のためにオブザーバーとして参加することになっている。今日も午後からがちょうどその日だ。哲倫ゼミではその発表会の後、懇親会という名の合同飲み会が開かれる。


 四回生のいない磐田ゼミでもこの会のおかげで先輩や同級生とのつながりを持つことができる。譲や由香も哲倫ゼミ全体のオリエンテーションで四回生と顏を合わせたことはあるが飲み会は初めてだ。


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