第2話 繰り返し

目を覚ましたとき、美咲はすでに分かっていた。

——たぶん昨日のままだ、と。


聞こえる雨の音も、布団の香りも、すべてが昨夜と同じだった。

まるで“再生”されたように。

美咲は、枕元のスマホを見た。圏外の表示は変わらず。

画面の日付は——昨日。

夢だろうか、と一度は思った。だが、廊下に出てみると、朝の光の角度も、柱のしみの形も、昨日と同じ。

食堂では、女将が静かに朝食を並べていた。

「おはようございます。昨日より少し、鮭が焼けております。」

「……昨日?」

「冗談でございます。」

女将は微笑む。その笑みの形まで昨日と変わらない。

他の宿泊客もいた。

昨日は見かけなかったはずなのに、誰もが「昨日からいた顔」をしている。

窓際の席で、老夫婦がご飯をよそい合っていた。妻が夫に言う。

「ねえ、あなた。昨日はもう少し元気だったのに。」

「そうか? 昨日も今日も同じだろう。」

「でも、あなた、昨日はもっと笑ってたわ。」

「……そうだったかもしれんな。」

二人の会話は、湯気に溶けて消えた。美咲は箸を止めた。

この宿では、“昨日”の話をしても誰も不思議がらない。

食後、廊下を歩いていると、子どもの笑い声がした。廊下の角を曲がると、小さな男の子が立っていた。

五歳くらい。白い浴衣の袖を引きずっている。

「ねえ、おねえちゃん。ママ見なかった?」

「ママ?」

「うん。昨日、お風呂でバイバイって言ったまんま」

美咲は言葉を失った。

その瞬間、背後から女性の声。

「ごめんなさい、この子……お邪魔してませんでしたか?」

振り向くと、やつれた顔の母親が立っていた。

その目の下には深いくまがあり、笑おうとしても唇が震えている。

「昨日もね、同じことを聞いてたんです、この子。」「……昨日も?」

「そう。あの子、昨日を探してるの。」

母親は子どもの頭を撫でた。

その手の動きが、どこか宙を撫でているように見えた。

その夜、美咲はもう一度温泉に入った。

湯気の向こうに、やはり若女将が立っていた。

「お湯、今日は少し熱いですね。」

「昨日より……?」

「そうです。昨日より、少しだけ。」

湯の中に浮かぶ月が、昨日とまったく同じ形をしていた。だが、美咲の心の奥では、何かが微かにずれていた。

彼女は、手の甲に浮かぶシワを見た。

昨日より、わずかに深くなっている気がする。

「ねえ……」と、美咲は湯気の中で口を開いた。

「ここって、本当に“昨日”に戻ってるんですか?」

若女将は、少し考えるように首を傾げた。

「戻るというより、留まっているのかもしれません。」

「留まる?」

「そう。“昨日のままが、いちばん安心できる”という方も多いのです。」

美咲は黙った。自分が“昨日”を求めてここに来たことを、思い出す。

明日が怖くて、昨日に逃げた。

けれど、もし本当に昨日が永遠に続くのだとしたら——。

その夜、部屋に戻ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。

宿の便箋に、丁寧な文字で書かれている。


『明日へ進みたい方は、午前四時に露天風呂へお越しください。澪』


雨は止んでいた。

窓の外には、霧の中で白く光る風呂場の灯が、ぼんやりと滲んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る