小さくて暖かい嘘
春山 隼也
小さくて暖かい嘘
夕方の台所には、味噌汁の匂いが淡く広がっていた。
フライパンで焼ける魚の音。
悠斗はリビングの机に向かって数学の問題集を開いていたが、
集中できず、同じところを何度も読み返していた。
「今日、遅かったね。学校、大変だった?」
エプロン姿の“母”が、いつもの調子で声をかける。
「別に。普通」
短く返すと、鉛筆の芯が折れた。
母は小さく笑って「無理しないでね」と言う。
その優しさが、今日はなぜか胸に重くのしかかった。
「……無理なんてしてないから。母さんには、俺の気持ちなんか分からないだろ」
言った瞬間、自分でも「あ、言いすぎた」と分かった。
けれど、引き返せなかった。
母は一瞬だけ手を止め……
すぐにいつもの柔らかな笑みを取り戻した。
「そうだね。分からないこともあるかもしれないね。
ごはんできたら呼ぶから、ちょっと休んでて」
その優しさは変わらなかった。
だからこそ、悠斗の後悔はひどく、言葉にできなかった。
翌朝。
母は起きてこなかった。
料理の匂いも、朝の喧騒もない。
胸の奥がざわつきはじめる。
「……母さん?」
返事がない。
「母さん、起きてる?」
もう一度呼ぶ。
部屋を開けると、布団の中で丸まった母が小さく震えていた。
「母さん!」
駆け寄り、額に触れると、熱が異常に高かった。
「ちょっと……救急車呼ぶから! 待って!」
母は薄く目を開け、「大丈夫……」と強がった。
その声の弱さに、悠斗は胸が締め付けられた。
数十分後、病院の白い蛍光灯の下。
受付で職員に渡された書類を見て、悠斗の目が止まった。
“続柄:姉”
頭が真っ白になった。
手が震える。
……姉?
どういう……こと?
昨日の言葉が、急速に意味を変えながら胸に突き刺さる。
処置室から出てきた“母”、いや――今の自分には、どう見ても“彼女”だった。
悠斗はベッドのそばに座り、眠る彼女を見つめた。
胸の奥が痛かった。
「なんで……なんで、言ってくれなかったんだよ」
呟いた声は震えていた。
しばらくして、彼女はゆっくり目を開けた。
「あ……起きてたんだね」
弱い声だった。
悠斗は、決定的な一言を飲み込めずにいた。
嘘の理由を問い詰めるわけにもいかず、どうしていいか分からなかった。
けれど、言葉を探すうちに――
自然に口が動いた。
「……姉ちゃん」
母の目が大きく開いた。
驚きがそのまま表情に出た。
「ゆ、悠斗……知って……」
声は震え、涙がにじんだ。
その瞬間、悠斗は確信した。
彼女はずっと、自分を守るために嘘をつき続けてきたのだと。
悠斗は、彼女の手にそっと触れた。
「……言えなかったんだよな。俺に寂しい思いをさせないように……って」
彼女の指が、震えながら悠斗の手を握り返した。
「ごめんね……。でも、あなたが“母さん”って呼んでくれるのが嬉しくて……」
「……ありがとう」
涙がこぼれそうになった。
「全部、してくれてたの……気づけなくて、ごめん」
彼女は泣きそうな顔で笑った。
「こちらこそ……ありがとう。気づいてくれて……」
白い病室に、静かな温度だけが流れていく。
二人の間にあった嘘も、秘密も、痛みも
そのひとつひとつが、ゆっくりと溶けていくようだった。
小さくて暖かい嘘 春山 隼也 @kyomu_hy10
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます