神経論争 Sympathy vs Parasophy

藤寝子

第1話 交副論


 男がいた。


 男は働いた。


 男は家事をした。


 男は祖父母の介護をした。


 男の妻は居なくなった。


 男に両親はいなかった。


 男は家に帰ってきた。


 男は疲れ果てた。


 男はソファに深く座った。



 男にはやることがあった。

 


 祖父母の食事を準備し、オムツを取り替え、薬を用意し、夜中に起きる準備をしておかなければならなかった。

 


 男は一言、呟いた。

 


「……疲れた。」


 

 その瞬間、心臓は静かに、しかし確かに脈を打った。


 


 ──心の、奥の、さらに深くの、一番底の奥。



 

 赤黒い鼓動がゆっくりと波打つ場所で、二つの影が向かい合っていた。静かに睨み合いながら。



 黒衣の者が先に口を開いた。



 彼は交感神経シンパス

 


 研ぎ澄まされた刃のような口調で語り出す。声は低く、男性のよう。

 そして、腰には剣を携えている。


「聞いたろ。“疲れた”だ。な?疲れ果ててる。

 言ったところで、動かなきゃならん。やらなければならない義務がある。責任がある。あの男は、止まれない。」

 


 白衣の影が静かに首を振る。

 


 副交感神経パラス


 端正な顔立ちで、声色は高くまるで女性のよう。白いローブをまとい、杖を手に持つ。


「違います。止まらなければ、壊れてしまいます。

 休むことは、義務の放棄ではありません。この場合の義務とは、まず“生き残ること”でしょう。貴方は間違っています。」


シンパスは鼻で笑う。


「甘ぇよ。ほんとにお前は甘すぎる。糖分のようだ。疲労は道具だ。痛みは合図だ。まだいけると告げる信号だ。」


「いいえ。違います。それはただの悲鳴ですよ。」

 



 二人の間で赤黒い床が波打つ。

 心臓がどん、と重く鳴った。その一拍は、その男の現実での呼吸と繋がっていた。


 


 シンパスが一歩踏み出す。


「孤独への恐怖か?いいや、これは燃料だ。

 頼れないと悟れば、人は強くなる。逃げ道が無い者ほど、立ち上がる力を持つ。」


 パラスは目を閉じた。


「その力は確かに強い。でも……長くは持たない。孤独は火ではありません。刃です。握れば握るほど、本人を切り刻む鋭利な刃。」


「それでも握らなきゃ、生きていけねぇだろ!副交感神経パラス!」


「生きるために握りしめ、生きるために傷つき、

 気がついた時には……血が止まらなくなっている。貴方が一番よくわかっているはずです。」

 



 男の心臓がぎゅ、と締め付けられた。男は現実でソファにもたれかかり、胸を押さえた。


 


 そのとき、深層の天井。男の意識の上層から、何かが落ちてきた。


「…………これは!?」

 シンパスは後ずさる。


 灰色の破片。


 ……悲しみ、怒り、罪悪感、責任、諦め。すべてが混ざり合った欠片。



 やがて、それは“人の形”へ収束する。

 


 赤黒い脈を帯びた影。

 男自身の心臓の影。

 


 影は、目のない顔で二人を見た。

 


「……うるさい。どっちも……うるさい。」


 シンパスが眉を吊り上げる。


「影が……話しただと?」


 影は震える声で続けた。

 


「働けって言われる。休めって言われる。周りからも、お前たちからも。

 両方正しくて、両方無理で……。俺は……もう、何を選べばいいのか分からない……。」

 


 パラスは静かに手を伸ばした。


「あなたは、ただ……限界なのですよ。」


 影はその手を振り払い、跪いた。


「うるさい!!限界だって……誰にも言えないんだ……。」



 赤黒い世界に、静寂が波打つ。



 再び、どくん!と波を打ち、深層が揺れた。深い深い闇の奥から、第三の存在が歩み出る。


 黒でも白でもない。灰色の長衣をまとった静かな存在。

 


 迷走神経ネーヴァ

 


交感神経シンパス副交感神経パラス、……争いはここまでだ。」

 


 シンパスが剣を抜き、構えた。


「ネーヴァてめぇ、何しに来た!邪魔をするな!

 パラスの力を弱め、この男に生きる伊吹を、圧倒的なまでの能動を与える所に。お前に用はない!」


「ふっ。……調整だ。」

 ネーヴァはにやけ、淡々と言い放つ。


「交感も、副交感も。どちらかが強すぎれば、主は倒れる。今の主は、すでに“傾きすぎている”。」


 パラスが問う。


「それは……私に偏っていると?」


「いいや。」

 ネーヴァは首を横に振った。


「主は責任に偏っている。そして義務、孤独、罪悪感。その重さが、主の神経すべてを圧迫している。」


 男の影が苦しげに胸を抱えた。


「じゃあ……どうすれば……?」


 ネーヴァは影の肩に手を置く。


「まずは、泣け。泣くんだ。主よ。」


 影は両肩を掴み、膝を付いた。


「泣いたところで、何も変わらない……。現実は変わらない。」


「違う。涙は、ここへ届く。」

 ネーヴァは男の頭の上に手を乗せた。




 現実で、男の目から涙がひとつ落ちた。



 


 その一滴は静かに頬を滑り、床に触れた瞬間、

深層世界へ落ちてきた。


 巨大な波のように落下してくる涙。深層世界は地震のように揺れ始めた。赤黒い床が裂ける。


 シンパスは踏ん張った。


「こりゃ……やべぇぞ!」


 パラスは影を抱き寄せる。


「あなたが泣いたからこそ、届いたのです。

 本当の声が。」


 ネーヴァが呟く。


「ここからだ。私たちの戦いは“勝ち負け”ではない。

 主を生かすための再調整。主を死なせはしない。」


 影は震える声で言った。


「……助けてくれ。俺は……もう、どっちにも……走れない……。」


 シンパスは剣を降ろした。


 パラスも杖を下ろした。


 三者が影を囲む。


 その瞬間、心臓の音が少しだけ柔らかくなった。


 どん……どん……と、ゆっくり。


  


 そして、深層世界がゆっくり閉じる。

 



 男は、静かに目を閉じた。泣いたことに気がつかないまま。


 ほんの少しだけ深い呼吸をして、ほんの少しだけ軽くなった胸で、もう一度立ち上がるために。


 男は短い休息を受け入れた。


 心臓の底では、三者の声がかすかに響いた。


「……明日も、支えるぞ。」

 シンパスは拳を突き出した。

 

「ええ。揺れながらでも、生きていけます。」

 パラスは目を閉じた。

 

「バランスを取るのが、私たちの役目だ。」

 迷走神経ネーヴァ交感神経シンパス副交感神経パラスの手を取った。


 男の心臓は今日も動いている。


 生きるために。


 疲れながらも、それでも進むために。


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