140円のおばけ
河村 恵
140円で買った呪い(あるいは器)
日が傾き、高志の影がアスファルトに長く伸びる頃だった。
いつもの帰り道、通い慣れたはずの路地の片隅に、見覚えのない自動販売機が立っていた。
それはあまりにも古びていた。
色あせたペイントは剥げ落ち、何より異様だったのは、商品の陳列ケースが完全に空っぽだということだ。しかし、中央に並ぶボタンのうち、なぜか一つだけ、「140円」の小さなランプが、はっきりと点滅していた。
「なんだ、これ」
高志は立ち止まった。空の自販機が売るものなどあるはずがない。
好奇心と、少しの不気味さに駆られ、高志は財布から百円玉と十円玉四枚を取り出し、投入口に滑り込ませた。
「今どき、140円なんて」
チャリン、チャリン、と乾いた音が響き、ランプは点滅から点灯へと変わった。
高志はためらいながら、140円のボタンを人差し指で押した。
ガコンッ、という鈍い駆動音。そして、静寂。
案の定、何も出てこなかった。
「やっぱりな」
高志は苦笑いし、仕方なく返却レバーを引いたが、コインは戻ってこない。
140円をドブに捨てたかと肩をすくめ、一応、取り出し口に手を入れてさぐってみた。指先が、底の冷たい金属に触れたその瞬間――
ゾワゾワ、と。
それは、全身の皮膚が一枚めくれていくような、内臓が持ち上げられるような、言葉にできない変な感覚だった。
まるで、高志の右腕が、自販機の闇の中で、何らかの無形の液体に静かに浸されているような、奇妙で不快な感触。
慌てて腕を引き抜くと、腕には何も異常はない。冷たい汗が背中を伝った。
「なんだ今の……」
高志はもう一度自販機を見たが、ランプは消え、廃棄業者を待つ古びた自販機となっていた。もう二度と関わりたくない、そう思い、彼は早足にその場を離れた。
家に着き、鞄を床に放り投げた高志は、自販機で感じたあの不快な感覚を振り払おうと、すぐにシャワーを浴びた。
だが、右腕には、あの時の感覚が微かに残っている。
鳥肌が立っているわけではないのに、肌の下で何かが蠢いているような、そんな感覚。
リビングのソファに腰を下ろし、スマートフォンを手に取ったその時、部屋の隅、さっきまで誰もいなかった空間に気配がした。
空気がもやつき、そして、そこに”それ”は現れた。
高さは高志と同じくらいだろうか。
形は人のようだが、輪郭は常に揺らめき、黒い影と半透明の白が混ざり合っている。目も鼻もないのっぺりとした顔は、どこか悲しげに感じた。
高志は声も出せず、ただ息を飲んだ。
”それ”は、ゆっくりと、しかし確実に、高志に向かって漂ってきた。
恐怖で体が動かない。
逃げようとする意志だけが、空回りしている。
”それ”は、高志から1メートルほど離れたところで止まり、その揺らめく体から、ざわめきのような声を発した。
「やっと見つけた」
声は低く、そしてどこか懐かしい響きがあった。
高志は絞り出すように尋ねた。
「な、何だ、あんたは……」
「私は器を探していたのだ。長きにわたり、肉を持つことなく、この世をさまよっていた」
”それ”は、高志の右腕をじっと見つめている。先ほど、自動販売機の取り出し口に入れた、その右腕を。
「あの自販機は、私が外界と接触するための、小さな窓だった。140円は、その対価だ。そして、おまえは……」
”それ”の揺らめく体が、高志の右腕に吸い寄せられるようにわずかに傾いだ。
「おまえの体こそが、私の探し求めた、最も純粋な『器』だ」
高志の右腕が、再びあの時と同じように、ゾワリと粟立つ。
腕の皮膚の下で、何かが確かに浸透し、馴染んでいくような感覚がした。
だが、それはもう不快な感覚ではない。むしろ、何かが欠けていた場所に、ぴたりとはまったような、おぞましいほどの完成の感触だった。
”それ”の輪郭が、少しずつ薄れていく。その代わりに、高志の右腕から、そして全身から、熱のような、力がみなぎるような感覚が湧き上がってきた。
「ありがとう、高志……。これからは、二人で一つだ……」
声は途切れ、お化けの姿は完全に消えた。
高志は、自分の右腕を握りしめた。そこには、何の異常もない。
ただ、先ほどまでの恐怖とは別の、形容しがたい充足感が残っていた。そして、彼の心臓の奥底で、誰かの声が、確かに響き始めた。
『さあ、これからだ』
高志は、自分のものなのか、それとも誰かのものなのか分からない、その声に導かれるように、静かに立ち上がった。
140円のおばけ 河村 恵 @megumi-kawamura
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