結婚なんてしたくなかった sideシルヴァン
結婚なんて、したくなかった。
生まれた時から、両親が治める領地は、決して裕福とは言えなかった。
ベルノワール王国の東の端にあるこの地は、昼夜の寒暖差も激しいし、作物の育ちも悪い。代々辺境伯として土地を守りながら、細々とワインを作って糊口をしのいできた家柄だ。
しかし、俺は生まれた家を、この地を、そしてこの地にしがみついて力強く育つ葡萄という樹木を、心から愛していた。
俺の母は、元々ワインが好きな人だったらしい。
貴族の出ではなく、街で育った女で、葡萄酒の話になると止まらなくなる、と古い使用人たちは笑いながら話してくれた。
父がワイン造りに本気で関わるようになったのは、そんな母と結婚してからだ。
先々代までは、葡萄もワインも領民任せだったと聞く。だが父は、母に勧められるままに畑へ足を運び、自分の手で樹を見て、樽を覗き込むようになった。この領地で、自ら畑に出て醸造に口を出した最初の領主が父だ。
俺が生まれて間もなく、もともと身体の弱かった母はあっけなく死んだ。
それからの父は、ますますワイン造りにのめり込んでいった。母の愛した酒で、王都でも通用する高級ワインを作るのだと意気込んでいたが、結局、王都で名を残すような評価を得られないまま逝ってしまった。
だから、俺は「両親の愛情」を知らない。
メイド長のマルグリットが母親代わり、クロードの父である先代の執事が父親代わりのようなものだった。だが、やはり本当の親子ではない。
それでも俺は寂しくなかった。葡萄の木があったからだ。
寂しい時も、苦しい時も、葡萄の木はいつも自分を受け止めてくれた。
夕陽が射す丘の上から眺める葡萄畑は、百の言葉を尽くされるよりも俺の心を慰めた。
そして、いつしか俺は葡萄の育成にのめり込んでいった。
自分の使命はこの地を、領民を、そして葡萄の木々を守ることだと思っていた。だから、結婚とか、世継ぎとか、考えたこともなかった。
しかし、父は俺の結婚を望んでいたらしい。
そのことを知ったのは、ちょうど少し前。25の誕生日を迎えて少し経った頃だった。王都で宰相を務めるというボーモン公爵家から、早馬で手紙が届いたのだ。
曰く、5年くらい前に、父からいい縁談があれば紹介して欲しいと言われていたとのこと、そして、自分の娘が故あって王都を離れる必要が出てきたこと。
少し癖のある娘ではあるが、良かったら妻として迎え入れて欲しい。もちろん、娘を預ける以上、婚約の暁には援助を約束しよう、等々。
そして、手紙には、承諾してもらえるかを、急ぎ返信が欲しい旨で閉じられていた。
……金銭的援助。喉から手が出るほど欲しい言葉だった。
昨年の冷害で、領民の生活は限界だった。俺一人が自由を捨て、王都の我儘な娘の機嫌を取るだけで、皆が食っていけるなら安いものだ。
手紙の内容を確認したクロードは、俺を止めた。
セリエ・ボーモンといえば傍若無人かつ我儘な令嬢として、この地にまで噂が漏れ聞こえていた。今回の事情とやらだって、おそらく自業自得のロクでもないものに違いない。
それに、王都育ちの我儘娘がこの痩せた土地に耐えられるとは思えない。
そう考えたクロードは、この婚姻に反対したのだ。
しかし、俺はクロードの制止を振り切り、覚悟を決めて、ペンを執った。
もとより誰とも結婚するつもりもなかったのだ。
だとしたら愛のない伴侶が屋敷内に一人増えたところで、どうということもない。
程なくして王都からやってきたのは、噂通りの華やかさを備えた、いかにも貴族といった風貌の女だった。
到着したその日、畑仕事を切り上げて屋敷に戻ると、玄関ホールには、すでに彼女が到着していた。
泥だらけの俺の手を見た彼女は、一瞬だけ口元を歪めたように見えた。
やはり…と思った。辺境伯の地位を継承したとは言え、所詮俺は田舎者に過ぎない。
初めからわかっていたことだ。都会育ちのお嬢様がこの地に馴染める訳もない。
諦めを胸に、俺はその日の晩餐に向かった。
テーブルには、彼女とできるだけ離れて座れるよう、クロードには依頼しておいた。端と端で座れたお陰で、会話をする必要から解放された。
元々社交が苦手、女性も苦手。突然妻と言われても会話が成立する訳がない。
だったら話さない方がマシだと考えたのだ。
そうして晩餐は始まった。
料理長のギュスターブが作る食事は今日も美味しい。しかし、セリエ嬢はどう思うだろう。裏庭で取れた野草やキノコ、親鳥のレバーを使ったパテ、煮込まないと固くて食べられないような筋っぽい牛肉。
我がヴィーニュ家に、食材にかけるお金などないのだ。
テーブルの対岸をそっと見やると、無言で料理を口に運ぶセリエの姿が見えた。
きっとこんな田舎料理は口に合わないことだろう。全ての料理をなんとか完食しようと無理をしているのか、勢いよく食事を口に運ぶ彼女が見てとれた。とても目が合わせられない。
しかし、これがこの地の暮らしなのだ。不満があっても受け入れてもらう他ない。
異変が起きたのは、三皿目の牛肉の煮込みが運ばれてきた時だった。
この料理はギュスターブの得意料理で、牛肉のスネ肉……といえば聞こえはいいが、実際はほとんどスジに近い部分。それを何度も茹でこぼし、この地で作る赤ワインで三時間以上煮込んだ、我が家の定番料理である。
その料理が運ばれた直後、おそらく彼女が煮込みをひと口食べてワインを飲んだタイミングだと思う。
ちなみに彼女が飲んでいたのは、王都からわざわざ彼女のために取り寄せた、ボルデール産の高級白ワインだった。クロードは貴族令嬢なんて金さえ掛かってれば味なんて解らないと言っていたが、真偽のほどはさておいて、この地で作る渋い赤ワインよりは彼女の口に合うのではないかと、そんな風に思って取り寄せたのだ。
そんな直後のことだった。
黙々と食べていた彼女が、ふと動きを止めたのだ。
「……舐めてるの?」
不意に、聞き間違いかと思うような低い声が、食堂に響いた。
驚いて顔を上げると、彼女は氷のような笑顔でクロードを睨みつけていた。
「ブフ・ブルギニオンに、生ぬるい甘口の白ワイン? ……喧嘩を売っているのかしら、クロード?」
俺は耳を疑った。
彼女は怒っていた。それも、「この肉料理に合わない」という理由で。
呆気に取られていると、彼女は言った。
「わたくしにも旦那様と同じものをいただけるかしら」
なんと、セリエ嬢は俺が飲んでいる赤ワインを飲みたいと言う。
ひと口呑むやいなや、渋そうに顔をしかめる。
やはり彼女の口には合わなかったようだ。
だが、すぐにメイドの娘に頼んで水差しを持ってこさせていた。
一体何をする気なんだ。
俺は食事に集中するフリをしながらも、次第に彼女から目が離せなくなっていった。
そして、あの瞬間。
後から聞いたところによると、デキャンタージュと言うらしい。
彼女がボトルを高く掲げた瞬間、薄暗い食堂の空気が明らかに変わった。
赤い液体が光を孕んで緩やかに空を落ち、華やかな香りが広がっていく。
ラズベリーや赤スグリといったベリーを煮詰めたような香り。そしてその香りの奥に、俺が毎日泥だらけになって育てた葡萄の姿が見えたような気がした。
彼女はまるで手品のようにワインを移し替え、別の飲み物へと昇華させる「魔法」をかけたのだ。
それだけではない。
肉料理を食べ、ワインを口に含んだ彼女は、蕩けるような笑顔を見せた。
本当に本当に、心の底から幸せそうに微笑んだのだ。
この土地の食べ物を、そして酒を、こんな表情で食べる女性がいる。
心底驚いた。
そして、俺は自らの思い込みを恥じた。
本人とろくに話もせず、噂を鵜呑みにして我が儘でお高く止まった令嬢に違いないという決めつけ。
それだけではない。そもそもこの領地に、そこから生まれるワインをはじめとした農産物に、価値がないと決めつけていたのは、もしかしたら自分自身なのではないか。
ひょっとして、ひょっとすると。
彼女はこの地を、そして俺を、変えてくれる鍵となるのではないか。
出会ったその日に、そんな思いを抱いてしまうのも、あるいは決めつけや思い込みの類かもしれない。
そもそも、一時の気の迷いかもしれない。きっとそうだ。
だが。
それでも。
彼女は人目を気にすることなく、肉を頬張り、ワインを飲んで、頬を上気させている。
そんな姿を見て、思わず期待を抱いてしまう自分を、俺は否定できないのだった。
──結婚なんて、したくなかったはずなのに。
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