第六章:最初の波紋と、復讐者の胎動

 建国記念祭の夜会から、数日が過ぎた。

 王都は、完全に「海鮮御膳」の熱狂に浮かされていた。

 エリザベートが滞在する安宿には、夜明け前から王侯貴族の使者が列をなし、マルタン商会には、予約を求める商人たちが殺到。供給が全く追いつかないその希少性も相まって、「海鮮御膳を食したか否か」が、今や、王都の社交界における最新の身分証明書(ステータス・シンボル)と化していた。


「聞いたかい?オルデンブルク侯爵が、あまりの美味さに、リヒトハーフェン嬢を『海の女神の寵児』とまで評したそうだ」

「まあ!わたくし、イザベラ様のお茶会に、幸運にもお招きいただけたのよ。あの方、近頃ますますお美しくなられたのだけれど、その秘密は、あの『御膳』にあると、もっぱらの噂ですわ」

「彼女は、もはやただの辺境伯令嬢ではない。『海鮮男爵』――いや、『海鮮の女男爵(シーフード・バロネス)』と呼ぶべきだろうな」


 熱狂は、エリザベート本人のあずかり知らぬところで、伝説となり、神話となり、彼女の名声を、日に日に高めていった。

 しかし、その眩い光が届かぬ、王都の薄暗い裏通り。

 古い酒場の、澱んだ空気の中で、一人の男が、静かに、しかし、燃えるような憎悪を込めて、その熱狂を語っていた。


「…見たか、聞いたか。あの女狐、エリザベート・フォン・リヒトハーフェンの今の評判を」

 男の名は、アルフレッド。その顔は、過酷な人生を物語るように痩せこけ、しかし、その瞳だけが、剃刀のような鋭い光を宿していた。

 彼の前には、同じように、現体制や貴族社会に不満を抱く、数人の仲間たちが座っている。

「ああ、知ってるぜ。南の田舎から出てきた小娘が、珍しい魚料理で、王都の連中を骨抜きにしてるって話だろ」

 仲間の一人が、吐き捨てるように言った。

「だが、俺は知っている」

 アルフレッドの声は、静かだが、不思議な説得力を持って、酒場の喧騒を貫いた。

「俺は、あの女の正体を知っている。俺は、あの王立学園で、彼女と同じ空気を吸っていた。彼女は、聖女などではない。自分の成功のためなら、平気で他人を、無実の人間を、地獄の底に突き落とす、正真正銘の『悪役令嬢』だ」


 アルフレッドは、語り始めた。数年前、自分が、いかにしてエリザベートの嫉妬心から、無実の罪を着せられ、未来も、家族も、全てを奪われたのかを。

「いいか、忘れるな。あの女が、今、どれだけ美しい言葉を並べ、領民のためなどと嘯(うそぶ)いていても、その本質は変わらない。我々のような平民は、彼女の成功のための、踏み台でしかないのだ」

 その言葉は、虐げられてきた者たちの心に、深く、そして甘く染み渡っていく。

「俺は、復讐したいのではない。ただ、真実を、白日の下に晒したいだけだ。あの女が、一体、何の上に立って、その栄光を手にしているのかをな…」

 アルフレッドは、静かに立ち上がった。その瞳には、もはや個人的な憎悪ではなく、一つの社会正義を成さんとする、狂信者の光が宿っていた。

 彼の復讐は、クラウディアのような、ビジネスの戦いではない。エリザベートという人間の「信用」そのものを、過去の罪で以って、根こそぎ破壊する、静かな戦争だった。


 その頃、リヒトハーフェン領。

 老執事のセバスチャンは、王都にいる古い友人から届いた、一通の手紙を握りしめ、青ざめていた。

 そこには、アルフレッドという名の男が、エリザベートの過去を悪し様に語り、不穏な動きを見せていることが、詳細に記されていた。

 アルフレッド。その名前に、セバスチャンの脳裏で、数年前、そして、またその翌年も、繰り返し届けられては、その都度、辺境伯様に取り次ぐこともできずに、書庫の奥へと仕舞い込むしかなかった、あの悲痛な陳情書の山が蘇る。一枚は、先日、お嬢様ご自身が見つけ、その手で握りつぶされたと聞く。だが、その前にも、いくつもの声があったのだ。彼が、自らの無力さ故に、握りつぶしてきた、声が。


(…なんということだ。お嬢様が、ようやく、過去を乗り越え、輝かしい未来へと羽ばたこうとなさっている、この時に…!)


 彼の胸を、後悔と、そして過剰なまでの父性愛が締め付けた。

 これは、自分が、そして辺境伯様が、お嬢様を正しく諌めなかったが故の、過去の負債だ。この穢れを、今のお嬢様の輝かしい経歴に、決して触れさせてはならない。


(この件は、私が、処理せねば…)


 セバスチャンは、決意した。エリザベートに、この件を知らせてはならない。彼女の心を、これ以上、過去の罪で曇らせてはならない。

 彼は、書斎の金庫から、自らの蓄えである金貨を数枚取り出すと、最も信頼の置ける部下を、密かに呼び寄せた。

「…王都へ行け。このアルフレッドという男を探し出し、金で黙らせろ。二度と、お嬢様の名を口にできぬよう、穏便に、しかし、確実にな」

「しかし、セバスチャン様、それは…」

「命令だ。これは、お嬢様を守るための、我々の務めだ」


 それは、主君を想う、忠誠心から出た行動だった。

 しかし、その「良かれと思って」の行動が、静かに燃え始めていた復讐の炎に、油を注ぐことになるということを、この忠実な老執事は、まだ知る由もなかった。

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