第三章:王都の情報網

 王都の安宿の一室は、旅の荷解きもそこそこに、エリザベートの臨時の作戦司令室と化していた。窓の外から聞こえる喧騒だけが、ここが巨大な都市の只中であることを告げている。

 エリザベートは、テーブルに広げた白紙の羊皮紙に、思考を整理するための図を描き始めていた。その背後で、レオンハルトが、意を決したように口を開いた。


「エリザベート様」

「…今はリーザよ、レオンハルト。その呼び方は、この部屋の中だけにして」

「は…失礼いたしました、リーザ殿。…単刀直入にお伺いします。あの峠道で、一体何が起きたのですか?あなた様は、一瞬で、馬車から、あの…ありえない場所へと…」

 その声は、詰問というよりは、理解不能な現象を前にした、子供のような戸惑いに満ちていた。

 エリザベートは、ペンを置くと、ゆっくりと彼に向き直った。

「レオンハルト。あなたは、私が正気に見える?」

「…以前のあなた様よりは、遥かに」

 その率直すぎる答えに、エリザベートは思わず噴き出しそうになるのを堪えた。

「そう。なら、信じなさい。私には、あなたたちの知らない切り札がある、と。そして、そのカードは、ここぞという時まで、決して見せてはならないものだと。それで今は十分よ」

 有無を言わせぬ、しかし、不思議と相手を安心させる響き。レオンハルトは、まだ納得しきれない顔をしながらも、それ以上食い下がることはできなかった。

「…承知、いたしました。それで、私への最初の命令は?」

「話が早くて助かるわ。これ」

 エリザベートは、一枚のリストを彼に手渡した。「マルタン商会と、王立学園の生徒会室。まずは、この二か所に、私からの面会の約束を取り付けて。もちろん、リーザという偽名でね」


 マルタン商会は、王都の商業地区の片隅で、細々と営まれている小さな店だった。香辛料や、織物、地方の珍品などが、所狭しと並べられている。

「…これは、リヒトハーフェンのお嬢様!一体、どうなさいました、そのお姿は!」

 店の奥から出てきた主人のマルタンは、お忍び姿のエリザベートを見て目を丸くした。


「静かに、マルタン。今は、ただのリーザよ」

 人払いをさせた薄暗い帳場の奥で、エリザベートは単刀直入に切り出した。

「私は、故郷の産品を、この王都で売りたいの。そのための、市場調査にご協力いただきたい」

「…なるほど。しかし、それは大きなご商売になりますな。なぜ、私どものような小さな店に?」

「あなただけが、私を見捨てなかったからよ」

 その言葉に、マルタンの目が揺れた。かつて、他の大店が、悪評高いエリザベートとの取引を敬遠する中、彼だけが、彼女の無理な注文にも、誠実に応じ続けてくれていたのだ。

「…ありがたいお言葉です。ですが、お嬢様。そのような重要な調査、相応の費用がかかりますぞ」

 値踏みするようなマルタンの視線に、エリザベートは静かに頷いた。

「ええ。今回の市場調査に使える予算は、金貨百枚。これが、今の私が動かせる全ての資金よ」

 その金額に、マルタンは息をのむ。しかし、エリザベートは袋を渡す代わりに、一枚の羊皮紙を取り出し、彼の前に広げた。


「これは、業務委託契約書よ」

「ぎょ、業務委託…?」

「まず、着手金として金貨十枚を前金で。これで、あなたの当面の拘束時間と、初期費用を賄って」

 エリザベートの指が、羊皮紙の一条項を指し示す。

「次に、中間報酬。私が指定する『新興貴族の主要家リスト』『彼らの主な関心事』『最近一年間の贅沢品の購入履歴』。これらの情報を、質の高いレポートとして提出いただくごとに、それぞれ金貨二十枚を」

「なんと…!」

「そして、全ての調査が完了し、その情報に基づいて、私が最初の事業計画を策定できた暁には、成功報酬として残りの金貨三十枚をお支払いするわ。もちろん、あなたの情報が特に有益だったと判断した場合は、追加のボーナスも考えましょう」

 マルタンは、目の前の少女を改めて見た。これは、世間知らずの令嬢ではない。自分よりも遥かに老獪で、優れた商売人(ビジネスパーソン)だ。彼は、背筋を伸ばすと、深々と頭を下げた。

「…承知いたしました。このマルタン、お嬢様の『最初の事業』、いえ、最初のビジネスパートナーとして、全力でお応えさせていただきます」


 王立学園の応接室は、気まずい沈黙に満ちていた。

 公爵令嬢イザベラは、腕を組み、氷のような視線で、正面に座るエリザベートを見据えていた。

「…何の用かしら、エリザベート。放校された腹いせに、昔の話を蒸し返しに来たのなら、お門違いよ」

「いいえ、イザベラ様。私は、あなた様に、ビジネスのお話をしに参りましたの」

「ビジネスですって?あなたと、私が?」

 イザベラは、心底馬鹿にしたように、鼻で笑った。

 エリザベートは、その侮蔑を甘んじて受け、深く頭を下げた。

「その前に、まず、謝罪をさせてください。学園時代の、私の数々の無礼な振る舞い…あなたの正義感を、何度も踏みにじってしまいました。本当に、申し訳ございませんでした」


 その、あまりにも真摯な謝罪に、イザベラの表情が、わずかに、揺らいだ。

「…頭を上げなさい。それで、本題は?」

「私は、この王都で、新しい事業を始めようとしています。ですが、私には、王都の上流階級の情報が、あまりにも不足している。そこで、あなた様のお力をお借りしたいのです」

「私が、あなたに協力するメリットは、何かしら?」

「私が成功した暁には、その利益の1割を、あなた様が支援なさっている孤児院へ、寄付することをお約束します。また、私の事業は、旧来の貴族社会の価値観を、根底から揺さぶるものになるでしょう。…正義感の強いあなた様なら、興味を持っていただけるかと」

 イザベラは、しばらくの間、エリザベートの目をじっと見つめていた。その瞳の奥にあるのが、単なる金儲けの野心ではなく、もっと別の、何か、燃えるような覚悟であることを見極めようとするかのように。

 やがて、彼女は、小さく息を吐いた。

「…面白いわ。そこまで言うなら、少しだけ、あなたの道楽に付き合ってあげてもよろしくてよ。ただし」

 イザベラの瞳が、再び鋭い光を宿す。

「私の信頼を裏切ったら…その時は、私が、あなたを社会的に抹殺します。よろしいわね?」

「ええ。もちろんですわ、イザベラ様」


 その夜、宿に戻ったエリザベートを、レオンハルトが待っていた。

「…おかえりなさいませ、リーザ殿」

「ええ、ただいま。あなたには、一日中、留守番をさせてしまったわね」

「いえ…。それよりも、交渉は…」

「ええ、うまくいったわ。マルタン商会と、イザベラ様。二人とも、私たちの仲間になってくれる」

 エリザベートが、こともなげにそう言うと、レオンハルトは、ゴクリと息をのんだ。

 たった一日で、あの抜け目のない商人と、王都で最も気難しいと言われる公爵令嬢を、手玉に取ってみせた。この主君は、一体、どれほどの傑物なのだ。

 彼は、ゆっくりと、エリザベートの前に進み出ると、深く、そして、心の底からの敬意を込めて、頭を下げた。


「…エリザベート様。私は、あなた様を、とんでもなく見誤っておりました。このレオンハルト、今日この日より、あなた様に、我が身も、魂も、全て捧げることを誓います」

 その、あまりにも真剣な忠誠の誓いに、エリザベートは、一瞬、目を丸くしたが、すぐに、楽しそうに微笑んだ。


「大げさね、レオンハルト。魂は、あなた自身のものよ」

 彼女は、窓の外、宝石のように煌めく王都の夜景を見つめた。


「ただし、あなたのその優秀な頭脳は、これから馬車馬のように使わせてもらうわ。覚悟しておきなさい」

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