悪役令嬢転生MBA~趣味は事業再生、特技は市場分析ですの~

銀 護力(しろがね もりよし)

【前編】序章:悪役令嬢と、亡霊の誕生

 馬車を揺らす周期的で無機質な振動が、エリザベート・フォン・リヒトハーフェンの苛立ちを静かに削り取っていた。敷石の僅かな凹凸すら拾う、この揺れ。父が新調したという魔導式の緩衝器(サスペンション)とやらは、この程度かと、内心で悪態をつく。


「…アンナ」

「は、はい!お嬢様!」

 対面の席で、針のように背筋を伸ばして座っていた侍女が、弾かれたように顔を上げた。

 エリザベートは、銀の皿に残った焼き菓子のかけらを、金のフォークで弄びながら、温度のない声で言った。

「この菓子、風味が飛んでいるわ。一体、いつ焼かせたものなの?」

「も、申し訳ございません!今朝、王都を発つ直前に、屋敷の者に取りに行かせた、最高級品でございますが…」

「言い訳はいいのよ」

 エリザベートは、フォークを皿に投げ捨てた。カシャン、と神経質な音が、狭い車内に響く。

「あなたの管理不行き届きのせいで、私の気分がどれほど害されたことか。ねえ、わたくし、王都の寄宿学校から、こんな辺鄙な田舎まで、何日もかけて帰ってきているのよ?その道中くらい、完璧なものでなくては、割に合わないじゃない」

 理不尽な叱責。侍女のアンナは、顔を青くして、ただ「申し訳ございません」と繰り返すことしかできなかった。その怯えた姿が、エリザベートの歪んだ自尊心を、ほんの少しだけ満たした。

 彼女は、窓の外へと視線を移す。どこまでも続く、代わり映えのしない緑の風景。退屈だ。何もかもが、退屈で、気に食わない。


 ――その、瞬間まで。


「きゃっ!」

 ゴッ、と。腹の底から突き上げるような、凄まじい衝撃。車輪が、深い轍に嵌まったのだ。エリザベートの身体は宙に浮き、無防備に、向かいの壁へと叩きつけられた。

 強かに打ち付けた側頭部に、星が散る。侍女の悲鳴が、遠くなる。

 そして、その衝撃が引き金だった。


 エリザベートの頭の中で、何かがガラスのように砕け散る。

 視界が真っ白に染まり、耳鳴りが全ての音を塗りつぶした。知らないはずの景色、嗅いだことのない匂い、浴びたことのない光が、奔流となって意識を飲み込んでいく。


 ――無機質な、白い天井。ピッ、ピッ、と、自分の意思とは無関係に時を刻む、電子音。鼻腔を刺す、消毒液の匂い。腕に繋がれた、冷たいチューブの感触。

 ああ、そうだ。私は――。


 ガラス張りの会議室。無機質なオフィスチェア。モニターが放つ乾いた光。上司の怒声。同僚の嘲笑。ヤケ酒で呷った安物の蒸留酒の、喉が焼けるような味。

 徹夜明けで、エナードリンクと、冷え切ったコンビニのサンドイッチで胃を満たし、ただ、ひたすらに、数字と格闘し続けた日々。

 誰にも認められず、誰にも愛されず、心をすり減らし、身体を壊し、そして、誰にも看取られることなく、独り、病院のベッドの上で、息を引き取った。

 三十四年という、あまりにも色褪せた、長谷川梓という女の、無念に満ちた人生の記憶だった。


「……はぁっ、はぁっ……」

 浅い呼吸を繰り返しながら、エリザベートは、ゆっくりと目を開いた。

 目の前では、侍女のアンナが、涙目で彼女の顔を覗き込んでいる。「お嬢様、お気を確かに!」

 自分の名前は、エリザベート・フォン・リヒトハーフェン。十六歳。

 自分の名前は、長谷川梓。三十四歳で、死亡。

 二つの人生が、十六歳の少女の器の中で激しく衝突し、混ざり合い、そして――一つになる。


 彼女は、ゆっくりと、自分の手を見つめた。

 シミ一つない、柔らかで、血色の良い指先。苦労を知らない、貴族の娘の手だ。

 そして、視線を上げる。

 床には、先ほど自分が投げ捨てた、焼き菓子の残骸が哀れに転がっている。その側で、アンナが、今にも泣き出しそうに、震えていた。

 先ほどの、自分の、声が。言葉が。態度が。

 長谷川梓の、三十四年間培ってきた倫理観と、良識というフィルターを通して、脳内で再生される。

 その、あまりの、醜悪さに。幼稚さに。残酷さに。

 エリザベートの全身から、さあっと、血の気が引いていった。


(――私、は。なんて、ことを…)


 後悔と、自己嫌悪の津波が、彼女の意識を飲み込もうとする。

 これが、私。これが、エリザベート・フォン・リヒトハーフェン。

 記憶が戻る前の、本物の、私。


 馬車が、リヒトハーフェン邸の壮麗な門をくぐる。

 ゆっくりと扉が開かれ、心配そうな顔をした老執事が頭を下げた。

 馬車から降り立ったエリザベートの瞳には、もはや、以前の傲慢な光も、ただ泣きじゃくるだけの弱さもなかった。

 そこに宿るのは、二つの人生の重みだった。

 無駄に生きてしまった、長谷川梓の、三十四年間。

 無駄に、そして、無邪気な悪意と共に生きてしまった、エリザベートの、十六年間。


(どちらも、失敗した人生…)


 だが、と彼女は思う。

 目の前に広がるのは、寂れた、しかし、確かな可能性を秘めた故郷の風景。

 自分を心配してくれる、家族と、家臣たち。

 そして、自分に与えられた、二度目の、人生。


(――やり直せる)


 長谷川梓として、成し遂げられなかった、本当の仕事。

 そして、エリザベートとして、償わなければならない、過去の罪。

 その両方を、この手で。


 彼女は、アンナの方へ向き直ると、ぎこちなく、しかし、はっきりと、こう言った。

「…ごめんなさい、アンナ。そして、ありがとう」

 その、あまりにも意外な言葉に、アンナは、ただ、目を丸くするばかりだった。


 エリザベート・フォン・リヒトハーフェンは、この日、死んだ。

 そして、この日。

 彼女は、本当の意味で、生まれたのだ。

 二つの人生の負債を抱え、それでも、前を向く、一人の人間として。

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