第20話 最終話

ある天気のいい日の午後、私がウルフと道を歩いていると、向こうから、見た事のある黒塗りの馬車が近づいて来た。

窓から顔を出したのは、予想通り侯爵だった。


馬車が停まり、侯爵が降りて来た。

「こんにちは、ご令嬢」

「こんにちは、侯爵様」

御者は、彼を置いてそのまま屋敷の方へと走って行った。


いつもは、知らない人には怖がって近づかないウルフが、珍しく自分から彼の足元にすり寄って行った。

「おお、いい犬だな。よしよし」

侯爵が、そのふさふさした首を撫でると、ウルフは嬉しそうに尻尾を振った。

「…あの、今日はどういったご用件でいらしたんですか?」


「これからの生活について、話し合おうと思ったんでな」

そう言うと、侯爵は、家とは逆の方向に歩き出した。

私は、その横に並んでゆっくりと歩いた。

後ろから、ウルフがのそのそとついて来る。


「…きみは、結婚して家族と離れるのは不安ではないのか?」

「それは…不安ですけど」

そもそも結婚とは、そういうものではないだろうか。

相手の家に入って、子供を産んで、夫とともに末永く暮らす。

私は、それ以外の結婚生活が、想像できなかった。


侯爵は、何か他の方法を、考えているのだろうか。

「俺達が正式に結婚するまで、まだ間がある。そこで、結婚前の下見を兼ねて、レイヴンクロフトに、何度か滞在してみる、というのはどうだろうか?」

それは、悪くない提案に思えた。

確かに、私達はまだ会ったばかりで、お互いの事をほとんど知らない、といっても良かったからだ。


「もちろん、マギーを付添い人として付ける。きみが一人で不安なら、お姉さんや友達を連れてきてもいい」

侯爵は、本気で私に、レイヴンクロフトに来て欲しいようだ。

もちろん、私に断る理由は無かった。

「分かりました。伺います」

侯爵は、私の返事を聞いて、ほっとした顔を見せた。


「…そうか。ではこれからよろしく頼む、ご令嬢」

「あっ、それです」

「…何だ?」

「その、ご令嬢って言い方、やめませんか?」

私達は、婚約したのだから、もっと親しい呼び方をするべきなのではないか。


侯爵は、少しの間考え込んでいた。

「…う~ん、ご令嬢…アレクシア…長いな。…アレク、でいいか?」

婚約者の名前が、多少長いからって、そんな簡単に省略してもいいのだろうか。

「…はい、侯爵様」


侯爵は眉をひそめた。

「…なんだ、俺には名前で呼ばせておいて、自分は爵位で呼ぶのか?」

「す、すみません…」

彼の口元が緩んでいるから、怒っている訳ではなさそうである。


「…ええと、レ、レ…レイ…」

これだけ言うのに、すごく時間がかかってしまった。

私の顔は赤くなり、背中には変な汗をかいてしまっている。


侯爵は、自分の名前が呼ばれた途端、嬉しそうに、にっこりと笑った。

その素敵な笑顔に、私の心臓がびっくりして、ひっくり返りそうになった。

「…いいな。その言い方、気に入った」

「…そ、そうですか…」

私はドキドキする心臓を、なだめるのに忙しかった。


侯爵と結婚したら、あの素敵な笑顔が、毎日見られるようになるのか。

しかし、そうなったら、私の心臓がおばあちゃんになるまで、もつだろうか。

私は、急に不安になって来た。


侯爵は、私に向かって手を差し出した。

私は、ごく自然にその手を取っていた。

手をつないだ私達は、家へと向かって歩き始めた。













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