第9話

何と、彼は王宮で迷子になってしまったそうだ。

「…なにせ広すぎて、案内の者を探すのも一苦労だ。一人でうろうろしていたら、

図書館の前を通りかかった。そこで、きみと出会った、という訳だ」

「…そうだったんですか」

竜騎士姿の侯爵が、広い王宮内を困惑した様子で歩き回っている。

そんな場面を想像して、私は思わず、ぷっと吹き出してしまった。


侯爵は、じろり、と私を睨んだ。

「…そんなにおかしいか?」

その言い方が、何だか子供が拗ねているみたいに聞こえて、私はとうとう堪え切れずに笑い出してしまった。

隣にいる侯爵の肩も、かすかに震えている。


「…あっ…す、すみません。それで、演習には間に合ったんですか?」

「…ああ、何とかな」

そして、顔見せの部屋に来るまでに、また迷ったのかもしれない。

だから、あんなにすごい音を立てて、一生懸命走って来たのだろう。


世間で言われているような、不吉な噂の主とは思えないくらい、侯爵は人間味のある人であった。

その噂も、どこまでが本当なのかは、誰も知らないのだ。

もしかしたら、全部が嘘だという可能性もある。


とりあえず、侯爵は思いやりのある、感じのいい人である。

今の時点では、それで十分だった。


侯爵が、船の前を指差した。

「もうすぐ島が見えてくるぞ」

待ち切れなくなった私は、船首に向かって走り出した。

「…あっ、こら、待て。急に走ると危ないぞ」

侯爵が、後ろから追いかけてくる気配を感じた。


船の一番前まで行くと、既にスカイレン島がその姿を現し始めていた。

随分と大きな島だな、というのが第一印象であった。

私は勝手に、無人島のようなものを想像していたのだ。

侯爵は、それを聞くと、くすりと笑った。


「仮にも五公の一人が治めている土地だぞ?そんなに小さい島な訳がないだろう」

「…そ、そうですよね」

私の無知ぶりが、ここでも発揮されてしまった。

―こんな何も知らない田舎娘を、妻にしたくはないな。

侯爵に、そう思われていたらどうしよう。


私は、背中に冷や汗が流れるのを感じた。

しかし、ここまで来たからには、スカイレン島を観光しなければもったいない。

後の事は、その時になったら考えよう。


船は、スカイレン島に近づくと、ゆっくりと速度を落とし始めた。

港に着くと、渡し板が下ろされ、私達は陸に足を付けた。

港には、以前も見た事のある、黒塗りの馬車が待っていた。


馬車の窓から、スカイレン島の自然に溢れた風景が見える。

私は、今まで見たことの無い鳥や、植物を見るたびに「侯爵、あれは何ですか?」と質問を連発した。

侯爵は、私のどんなつまらない質問にも、親切に答えてくれた。

マギーさんが、そんな私達を微笑みながら見守っている。


「ほら、見えて来たぞ。あれがレイヴンクロフト城だ」

侯爵が、窓の外を指差した。


レイヴンクロフト城は、海に面した崖の上に建っていた。

「初代レイヴンクロフト公爵が、防衛の為に、あそこに城を建てたんだ」

侯爵が、そう説明してくれた。


城に行く途中に、大きな町があった。

馬車は町の中を、ゆっくりと走って行く。

町の人々が、馬車の中の侯爵に気が付き、笑顔になった。


「お帰りなさいませ、若様」

「ご一緒のお嬢様は、婚約者の方かしら?」

「まあ、可愛らしい方ねえ」

私の事は、この国の人達に、既に知れ渡っているようだ。


侯爵は、彼らに手を上げて答えながら、ゆっくりと馬車を進ませた。

おそらく、婚約者の姿を、町の人達に見せておきたいのだろう。

私も、緊張で引きつった笑顔を作りながら、彼らに手を振った。


町の端まで来ると、馬車は大きな長い石の橋を渡り始めた。

既に知らせが届いているらしく、城門の前には、槍を持った兵士達がずらりと並んでいた。

触れ係が、大きな声で告げた。

「ブラックウィンド侯爵のお帰り~っ!」


馬車を降りると、一人の男性が近づいてきて、侯爵の前に片膝をついた。

「お帰りなさいませ、若」

「今帰ったぞ、アルフレッド」


アルフレッド、と呼ばれた男性は、三十代後半くらい。

黒っぽい髪と瞳、これといって特徴の無い顔に大きな眼鏡を掛けている。

しかし、眼鏡の奥の油断のない目つきと、隙の無い物腰が、彼が只者ではない事を示していた。

―そう感じたのは、私の気のせいだろうか。

ロマンス小説どころか、時代小説にまで、影響を受けているのかもしれない。


こういう場面では、主の最も有能な部下が登場するのが、時代小説のお約束である。

「留守中変わりはなかったか?」

「はい、何事もございません。…それで、こちらの方が…」

「ああ、俺の婚約者の、アレクシア嬢だ」


「お初にお目にかかります。わたくし、ブラックウィンド侯爵の側近の一人で、アルフレッドと申します」

アルフレッドさんは、私に頭を下げた。

「初めまして、スターリング伯爵の娘のアレクシアと申します。よろしくお願いします」

私は、ぺこりと頭を下げた。


アルフレッドさんは、私の態度に少し驚いた顔を見せた。

普通の貴族の令嬢は、婚約者の家臣に、頭を下げたりはしないのだろうか。


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