第4話

「ご令嬢、とにかく、そこから降りなさい」

低くて、思いがけない程優しい声。

私は、ほっと胸を撫で下ろした。

てっきり、王宮の図書館を汚した罪で、問答無用で斬り捨てられる、と思ったからだ。


「…は、はい」

私は返事をして、そろそろと、床に足を付けようとした。

その時、棚にのっていた足が、つるりと滑った。

「…きゃっ!」

私はそのまま床に落下…しなかった。


その前に、私の体を素早く受け止めた人がいたからだ。

「…大丈夫か?」

「…ははは…はい」

何だかくしゃみのような返事になってしまった。


彼は、漆黒の鎧を身に纏っていた。

鎧の尖った部分が、腕と背中に刺さって痛い。

私がしかめ面をしている事に、気が付いたらしく、騎士様は急いで私を下ろしてくれた。


「すまん、痛かったか?」

「…いえ、あの、助けて頂いて、ありがとうございますっ」

私は、ぺこりと頭を下げた。


騎士様は、その後、書棚の本を取ってくれた。

「ほら、この本だろ」

「あ、そうです。どうもありがとうございます」

私は、また頭を下げた。


「しかし、書棚によじ登ってまで、この本が読みたかったのか?」

「はい。エリザベス先生の小説は、私の心の支えですから」

ロマンス小説家の、エリザベス・スチュワートは、国内外で知られたベストセラー作家で、私の憧れの女性だった。

辛い時、彼女の本に、何度励まされたか分からない。


「ロマンス小説なんて、中身は全部同じだろう?」

騎士様の小馬鹿にしたような言い方に、私はカチンときてしまった。

「そんな事はありません。ヒロインと相手が、結ばれるまでの間に起こる様々な出来事が、物語を盛り上げるんですよ。…数ある障害を潜り抜けた先に、待ち受けるハッピーエンド…それがロマンス小説の醍醐味なんです」

「…ほ、ほ~。そうなのか…」


騎士様は、私の熱弁に、完全に圧倒されてしまったようだった。

「…じゃ、じゃあ、俺はこれで…」

この変な娘から、一刻も早く遠ざかりたい、と彼が思っているのは明らかだった。

「あ、あの…本当にありがとうございました」


私が彼の背中に声を掛けると、騎士様は、軽く手を上げて答えてくれた。

兜をかぶったままだったので、顔はよく見えなかったが、切れ長の黒い瞳が印象的だった。

王国でも名だたる勇士である、竜騎士様に助けてもらってしまった。


これは後で、お姉様達に自慢しなくては。

私は、そう思いながら、椅子に座って本を読み始めた。


もう二度と会う事もないだろう。そう思っていた人が、今目の前に立っていた。

彼も私の顔を見て、驚いたようだった。

「…きみは…さっきのご令嬢?」

驚きのあまり、固まってしまった私達を見て、レイヴンクロフト公爵夫人が、確信したかのように呟いた。

「…やっぱり。これは、運命なのよ」


「何だ、二人とも、もう知り合いになっていたのか?」

レイヴンクロフト公爵が、笑顔で言った。

「いや、さっき会ったばかりで…」

ブラックウィンド侯爵は、困惑した様子で返事をした。


彼はドラゴンの兜を脱いで、自分の隣に置いていた。

ブラックウィンド侯爵は、母親似である。

黒い髪と切れ長の黒い瞳。背が高く、がっしりした体格は、父親譲りだろうか。

彼はそんなに口数が多い人ではないらしく、父親の言葉に、黙って頷いている事が多かった。


時々口を開くと、あの低い声が、耳に心地よく響く。

私は、彼が話すたびに、うっとりと聞き惚れてしまった。

「…では、この話は、このまま進めてもよろしいですね?」

レイヴンクロフト公爵が、お父様に再確認してきた。


お父様は、ちらりと私の顔を見た。

私は、強く頷いた。

「…はい。身分違いの身でございますが、よろしくお願い致します」

私達父娘は、深く頭を下げた。


「いえいえ、こちらが無理を言ったのですから。こちらこそ、よろしくお願いしますね」

公爵は、大貴族だとは思えないくらい、気さくで感じのいい人だった。

隣にいる公爵夫人は、会見が始まって以来、ずっと私から目を離そうとはしなかった。

きっと、未来の嫁が、どんな令嬢なのか、気になっているのだろう。


この方が、私の義理の母親になるのだ。

私は、公爵夫人に向かって、緊張で引きつった笑顔を作った。

すると、彼女は、にっこりと笑い返してきた。

東洋系特有の表情が少ない顔が、突然花が咲いたように艶やかに変化した。

そのあまりの変わりぶりに、私はびっくりして、ぽかんと口を開けてしまった。


隣のお父様も、同じように、ぽかんと口を開けている。

「…リン、きみは自分の魅力を自覚しなさいと、いつも言っているじゃないか。見なさい。伯爵とご令嬢が、びっくりしておられる」

レイヴンクロフト公爵の、さりげない惚気に、公爵夫人は艶然と笑った。


「あら、ごめんなさい。こちらのお嬢様が、あまりに可愛らしかったので、つい…」

そして彼女は、私に向かって話しかけてきた。

「アレクシアさん、うちの息子をよろしくお願いしますね」

絶世の美女に話しかけられて、私は完全に舞い上がってしまった。

「…は、はいっ。こちらこそ、よろしくお願いしますっ」


スターリング伯爵家の父娘が、舞い上がったまま、両家の顔合わせは終了した。

私とブラックウィンド侯爵は、結局一言も言葉を交わさずに終わってしまった。


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