羅生門転生 ~コンプライアンスが死んだ夜、俺は悪を「経営」することにした~

@melon99

第1話:『コンプライアンスの死骸』

雨音が、鼓膜を執拗に叩いていた。


下人――いや、かつて佐藤健二と呼ばれていた男は、羅生門の下で膝を抱えていた。 空腹はもはや「減った」という感覚を超え、内臓が自身を消化しようとする鈍い痛みへと変わっていた。


(ありえない……)


彼は、ふらつく意識の中で反芻する。 数日前まで、彼は東京の空調の効いたオフィスにいた。残業代の未払いに憤り、コンビニ弁当の上げ底に舌打ちをし、満員電車のマナー違反に眉をひそめていた。それが「苦痛」のすべてだった。


だが、今はどうだ。 ここは平安京。死体が路傍の石ころのように転がり、犬が人の腕を咥えて走る世界。 労働基準法はない。社会保障もない。ここにあるのは、「食うか、食われるか」という、動物的な生存競争だけだ。


「盗人になるよりほかに、仕方がない」


ふと、口をついて出た言葉に、佐藤の理性が激しく抵抗した。 『馬鹿を言うな。窃盗罪だ。刑法235条、10年以下の懲役または50万円以下の罰金。社会的信用の失墜。懲戒解雇。親が泣くぞ』


脳内の「現代の佐藤」が、必死にコンプライアンスを説く。 しかし、現実の「平安の佐藤」の胃袋は、その倫理を嘲笑うように痙攣した。


(倫理で腹は膨れない。正義で雨は凌げない)


彼は立ち上がった。ニキビの膿んだ頬が引きつる。 この数日、彼はまだ「人間」であろうとした。落ちている物を拾わず、人に乞うときも頭を下げた。だが、その結果がこの餓死寸前の体だ。 善人が死に、悪党が肥え太る。この世界では、現代の道徳こそが「死に至る病」なのだ。


彼は意を決し、門の梯子に手をかけた。 上から漏れる火の光。人の気配。 誰かがいる。もし貴族や武士なら殺されるかもしれない。だが、もし自分と同じような弱者なら――。


(……いや、弱者ならどうするつもりだ? 奪うのか? お前が?)


梯子を登る一段ごとに、現代の良心が悲鳴を上げる。 上がりきった彼の目に飛び込んできたのは、腐乱死体の山と、その中で蠢く一人の老婆だった。松明の光の中、老婆は死体の髪を、一本一本、引き抜いていた。


生理的な嫌悪感が背筋を走る。 だが、それ以上に佐藤の中で爆発したのは、現代的な「義憤」だった。


(死体損壊……! なんて冒涜的な)


恐怖は消え失せた。彼は梯子を駆け上がり、老婆の胸ぐらを掴んでねじ伏せた。 「何をしている! 言え!」 太刀に手をかけ、警察官のような口調で詰問する。老婆はカラスのような声で喘ぎ、震えながら答えた。この髪を抜いて、鬘(かずら)を作ろうとしていたのだと。


佐藤は冷ややかにそれを見下ろした。貧困ゆえの犯罪。情状酌量の余地はあるかもしれない。だが、死者の尊厳を踏みにじる行為は許されない。 「許せぬ悪だ」 彼はそう断じた。自分が「正義」の側に立ったことに、微かな陶酔すら覚えた。


しかし、老婆は言葉を続けた。


「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼ悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいの事をされてもいい人間ばかりだぞよ」


老婆は、この女がかつて蛇の干物を魚と偽って売っていたこと、そうしなければ飢え死にしていたことを語った。そして、こう告げた。


「今のわしがしている事も、やはりしなければ、飢え死にする体(てい)なのだから、仕方がない事じゃろうて」


その言葉は、鋭利な刃物となって佐藤の胸に突き刺さった。


『仕方がない』 『しなければ、飢え死にする』


それは、さっき門の下で、彼自身が口にした言葉ではなかったか。 老婆の論理は、現代の法律論を超越していた。それは「緊急避難」の極致。生存という絶対的命題の前では、あらゆる倫理が無効化されるという、この世界の真理だった。


佐藤の手から力が抜けた。 彼の脳内で、現代の良心がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。 自分がこの老婆を裁く権利などない。なぜなら、自分もまた、今から「それ」になろうとしているのだから。


(ああ、そうか。ここは地獄だ。地獄で仏の顔を気にする奴は、一番最初に死ぬ)


佐藤の瞳から、理性的な光が消えた。代わりに宿ったのは、暗く、冷たい、計算高い光だった。 ニキビの痛みが、不思議と消えている。


彼は老婆を見下ろした。もはや「可哀想な老人」にも「許せぬ犯罪者」にも見えなかった。 ただの「資源」に見えた。


「きっと、そうか」 佐藤は低い声で言った。 「じゃあ、俺が剥ぎ取ろうと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にする体なのだ」


衝動的ではなかった。 彼は極めて冷静に、論理的に、そして事務的に、老婆の着物に手をかけた。 これは強盗ではない。生存のための「業務」だ。 彼は泣きたくなるような自己嫌悪を、鉄の意志でねじ伏せ、老婆を死体の山へと蹴り倒した。


檜皮色の着物を抱え、彼は闇夜へと駆け出した。 雨はまだ止まない。 だが、彼の心の中の迷いは消えていた。彼は佐藤健二という人間を、あの楼上に置き去りにしてきたのだ。


下人の行方は、誰も知らない。 ただ一つ確かなのは、闇の中に消えたその後ろ姿が、もはや現代人のそれではなく、飢えた獣のそれであったということだけだ。

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