第三話:満たされない剣士と、嫉妬の残像

王女アウロラの私室を出た後の廊下は、大理石の床が冷たく、雄一の足音だけが空虚に響いた。


数分前まで、雄一は人類の希望の象徴である王女と対話していたはずだ。だが、彼の五感に残っているのは、清らかな香油の匂いではなく、前の勇者が残した「希望の残滓」という、あまりにも残酷な真実の重圧だけだった。完璧な笑顔、優雅な仕草、讃美歌のような言葉。すべてが、この呪われた世界を機能させるための、精巧な偽物だった。この世界は、まるで巨大な墓地の上に立てられた、ハリボテの劇場であり、その舞台裏では、日本のじめじめとした怨嗟が、常に煮えたぎっている。


雄一の右手首の血のような色の痣が、不規則なリズムでじんじんと熱を放っている。それは、ゴブリンから吸収した怨嗟の泥が体内に定着し、彼の精神を内側から焼き続ける、呪いの源泉だった。廊下に立つ衛兵たちの整然とした立ち姿さえ、雄一には滑稽なほど異質に見えた。彼らもまた、鑑定すれば何らかの「未練」と「怨嗟値」を抱えた、感情の器に過ぎないのだろう。そう考えると、雄一は息が詰まりそうになり、壁に寄りかかって呼吸を整えるしかなかった。


「雄一様、お疲れ様です!私、剣士のエリーゼ・アルトワが、今夜の夕食にご一緒させていただきます!」


暗い通路に、明るく弾んだ、能天気ともいえる声が響いた。


雄一は廊下で振り返る。そこにいたのは、騎士団の訓練場でよく見かける、若く快活な美少女剣士、エリーゼだった。長く編み込まれたブロンドの髪、引き締まった身体は健康的な小麦色に輝き、努力を誇るかのような笑顔は、何一つ陰りを知らないように見えた。


まさになろう系ファンタジーの「頼れる仲間」の典型だ。


そのあまりにも眩しい輝きが、雄一にはかえって恐怖を催させた。彼女の輝きは、この世界を覆い隠すための、より強力な「呪いの隠蔽」ではないのか。もし彼女の鑑定結果が王女と同じく、誰かの美しい感情の残滓だったとしても、それは「前の勇者」が絶望の末に生み出した最後の幻影に過ぎないのだ。


雄一は、胃の奥から込み上げてくる吐き気を堪えながら、必死で考えを巡らせる。


(ダメだ、鑑定するな。これ以上、真実を知るのは、俺の精神が持たない。この眩しい笑顔を、偽物だと認めたくない。もし彼女が、俺が元の世界で苦しんだような、陰湿な憎悪の塊だったら……)


彼の頭の中では警鐘が鳴り響いていた。しかし、一度開けてしまったパンドラの箱は、蓋を閉じさせてくれない。この世界の真実に辿り着き、呪いの輪廻を断ち切るためには、この呪われた鑑定スキルに頼るしかなかった。彼は、誰かを信じるという希望と、裏切られるという予感を、天秤にかけるしかなかった。


「雄一様?どうかされましたか?少し、顔色がお悪いようですが……昨日のゴブリン討伐でお疲れでは?」


エリーゼが心配そうに、しかし親しげに一歩近づいてくる。その一歩が、雄一には遠い距離に感じられた。


「いや、大丈夫だ。少し、この世界の空気に慣れていないだけだ」


雄一は乾いた笑顔を作る。心臓が体内で不規則に、しかし激しく脈打っている。このまま会話を続けて、彼女の何気ない一言で鑑定の真実が弾け飛び、彼の精神が完全に崩壊してしまうのではないかという恐怖があった。


しかし、もう引き返せない。


雄一は、王女に悟られないよう、そして何よりエリーゼに悟られないように、右手に集中する。皮膚の奥がドクドクと脈打ち、痣から呪いの波動が脳へ流れ込む。


――『魂の鑑定ソウル・イグザミナ』発動。


彼の視界に、エリーゼのステータス・ウィンドウが展開する。


【人物:エリーゼ・アルトワ】 年齢:18 ジョブ:一級剣士 HP:B MP:C スキル:剣術(A)、努力(S)、不屈(A+) ……


王女アウロラの時のS++という神域の数値ではないが、「努力」と「不屈」というスキルが光る。彼女が懸命な訓練を積み重ね、血の滲むような日々を送ってきたことが想像できる。雄一は、せめてこの努力だけは、彼女自身の真摯な感情であってほしいと、心の底から強く願った。


そして、運命の最下段。


王女アウロラの時は「不活性」だった怨嗟値が、今回は明確な数字と共に浮かび上がった。ゴブリンの時のような禍々しい「呪詛浸食」ではないが、別の種類の、陰湿で粘着質な文字列が、雄一の魂を静かに侵食する。


怨嗟値えんさち:3,500(嫉妬の残り香)


未練:『隣のクラスのあの子みたいに、完璧な私になりたかったのに。』


雄一の胸中に広がった、一瞬の安堵は、冷たい霧となって瞬時に霧散した。「嫉妬」。それは、ゴブリンの時の「SNS炎上」と同様に、またしても異世界とは無縁の、現代日本の学校生活を連想させる、あまりに生々しい言葉だった。


エリーゼが持つ「努力」や「不屈」のスキルは、彼女自身の真摯な頑張りから生まれたものではなかった。元の世界における**誰か一人の激しい「嫉妬」**を核として、この世界で具現化されたものだったのだ。彼女の剣術の鋭さ、訓練への情熱、その全てが、「完璧な誰か」に対する満たされない嫉妬の残滓、怨嗟を昇華させた結果だった。


雄一の脳裏に、鑑定結果から流れ込む情報が鮮明な映像となって再生される。それは、日本のどこかの教室。窓際の席で、成績優秀、容姿端麗、誰からも好かれる少女を、教室の隅で陰から、指の爪が食い込むほど強く握りしめた拳で見つめている、もう一人の少女の姿だった。


彼女は生きているのではない。


誰かの、満たされなかった欲望、達成できなかった理想、そしてそれら全てを嘲笑う対象への嫉妬という感情を代行する器として、エリーゼという美貌の剣士は、完璧に機能しているのだ。


「雄一様?本当にどうかなさいました?私の顔に、何か付いていますか?」


エリーゼは、本物の少女のように不安げな顔をする。雄一は、彼女の瞳の奥に、嫉妬に歪んだ、日本の制服を着た少女の残像が、一瞬、炎のように揺らめくのを見た気がした。その少女の姿は、雄一が元の世界で見た、いつもクラスの中心にいた、手の届かない「優等生」の姿にも似ていた。


雄一は、喉の奥から血液を吐き出すかのような痛みを伴う乾いた声で、必死に言葉を絞り出した。


「い、いや。大丈夫だ。君は、とても……」


雄一は言葉に詰まった。何と言えばいい?「君の存在は、誰かの満たされなかった嫉妬のカスだ」とでも言うのか?


「君は、とても……努力家だと思っただけだよ」


雄一がそう口にすると、エリーゼは一瞬の間を置いて、顔を輝かせた。その輝きは、王女の希望の輝きとはまた違う、血が通った人間らしい、生の喜びに見えた。


「ありがとうございます!努力だけが、私には取り柄ですから!そう言っていただけると、本当に嬉しいです!」


彼女は心から喜んでいるように見える。だが、雄一にはわかってしまった。彼女の喜びは、彼女自身の魂から湧き出たものではない。核となった「嫉妬」が、「完璧な誰か」に近づき、「努力家」として認められたとシステムが認識した時に、自動的に発生する、プログラムされた快感なのだと。彼女の感情は、嫉妬という名の呪いに縛られた、偽りの反応に過ぎない。


王女アウロラが「前の勇者の希望」というポジティブな感情の残滓ならば、この剣士エリーゼは、「誰かの激しい嫉妬」というネガティブな感情の残滓だった。どちらも、本物の人間ではない。


雄一が今いるこの王都の人間は、全員が全員、日本の社会で発生した何らかの強い感情を核として作られた、張りぼてでしかない。まるで、人間の感情の澱おりを美しく装飾した、悪趣味なテーマパークだ。この王城全体が、彼の逃避先ではなく、日本の陰湿な闇を凝縮した巨大なアパートの一室のように感じられた。


彼は、自分がこの世界で、チート能力でレベルを上げ、魔物を倒すという行為が、**日本の負の感情を回収し、この偽物の世界を維持し続ける「清掃員」**の役割を担っていることに気づき、深い吐き気を覚えた。


誰を信じられる?誰と心から笑いあえる?


この世界に存在する全ての輝きが、誰かの絶望の上に成り立っているという精神的な重圧が、雄一を深く、深く、呪いの泥濘へと引きずり込んでいくのだった。


エリーゼは、雄一の顔色の悪さを見て、夕食はまた今度にと提案し、名残惜しそうに去っていった。その去っていく後ろ姿もまた、誰かの嫉妬を具現化した、哀れな残像に過ぎない。


自室に戻った雄一は、そのままベッドに倒れ込んだ。天井を見つめる。彼は、このシステムを維持すれば、元の世界で無数の人間の不幸が生産され続けることを知っている。しかし、破壊すれば、この偽りの世界にいるアウロラやエリーゼさえ、怨嗟の泥へと戻ってしまうだろう。


その夜、雄一は夢を見た。夢の中で、彼は日本の廃墟となった学校の校舎をさまよっていた。湿気とカビの匂いが充満し、床にはSNSの誹謗中傷の文字が血痕のように滲んでいる。廊下の隅には、誰にも見られず泣いている、制服姿の少女の残像がいた。そして、その少女の顔は、なぜか、エリーゼの、心底喜んでいるはずの、あの笑顔をしていた。


その笑顔は、幸福ではなく、満たされない欲望の泥をそのまま貼り付けたような、酷薄な、呪いの笑顔だった。雄一は、この悪夢の輪廻から逃れる唯一の方法は、あの忌まわしいチート能力の根源を破壊し、この世界と自分自身を、全て怨嗟の核へと還元させるしかないと、絶望的な決意を固めるのだった。


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