ピアノ弾きの私に、救世主の使命は重すぎる

蒼月クロノ

序章 プロローグ

リゼティア合衆国グランタクト州にある有数の大都市・七ツ星市


夕陽が差し込む音楽教室に、ピアノの音が鳴り響いていた。

情熱的な旋律が空気を震わせ、やがてひとつの音で止まる。


ピアノの前に座っている少女・英エレナ(はなぶさ・えれな)は、小さく息をついた。


大きくぱっちりとした目に、長い薄紅の髪を高めのポニーテールにまとめ、黒いパーカーにジーンズを着た少女の頬には、うっすらと汗が光っている。


「……またダメだった。先生みたいに弾けない……コンクールが近いのに」


ぽつりと漏らした言葉が、静かな部屋に落ちた。

鍵盤の上で止まった手が、悔しそうに震える。


「そんなことはないさ。君らしい、とてもいい演奏だったよ」


不意に背後から声がした。


振り向くと、ドアのところに立っていたのはピアノ講師の八神風賀(やがみ・ふうが)27歳。


黒い長髪に切れ長の目。スーツのネクタイをゆるめ、片手にコーヒーを持ちながら微笑んでいる。


「先生……また慰めですか?上手く弾けてなかったことくらい……分かってますから」


「ははっ、慰めに聞こえたか?」


風賀はコーヒーを一口すすってから、ゆっくり言葉を続けた。


「いいかエレナ、完璧な演奏を求めるなら、AIにでも弾かせればいい。今の時代、どこも機械の音楽で溢れ返っている。それなのに、人々は我々の演奏を聴くために、わざわざコンサート会場まで足を運ぶ。なぜだと思う?」


エレナは少し考えて、首をかしげた。


答えが出ないまま、先生を見つめる。


「生きてる音を聴きたいからだよ」


風賀の声は落ち着いていて、それでいてどこか温かかった。


「正解なんてない。音楽は、人の数だけ感じ方がある。だからこそ、君の音にも価値がある」


「……そんなの……ずるいです。そんなこと言われたら、反論できないじゃないですか」


「ふふ、確かにそうだな」


風賀は苦笑したあと、ふと真顔になる。


「……でも、焦ってるんだろう?今回のコンクールで賞を取りたい……だが何故だ?なぜそんなに入賞にこだわる?富や名声が欲しいのか?」


風賀が核心に迫った。


「そうですねぇ……ピアノをずっと弾いていたいからだと思います!わたし、何だかんだ言ってもピアノが大好きですから。賞を取れれば将来への道も開けるのかなって!」


エレナは、少し考えて歯切れ良く回答したあと数秒間ほど沈黙すると、俯きながらさらに声を絞り出した。


「それに…コンクールの演奏…先生に見てもらえるの……最後かもしれないから……」


「……ふふ、実に君らしい回答だな」


風賀はうなずくと、部屋の照明をつけた。

淡い光に照らされ、部屋の隅に掛けられた薄手の真紅のドレスが浮かび上がる。


胸元と背中は大胆に開き、まるでインナーを合わせることを前提にしたようなデザインだ。スカートは前が短く、横から後ろにかけては膝丈ほどまで流れるアシンメトリー。


全体として、まだ中学生のエレナには少し背伸びした、大人びたエレガントさをまとっていた。


「来週の発表会、これを着て演奏しなさい」


「え……これ、私に?」


「似合うと思ったんだ。少し派手だったか?」


「派手すぎますよっ!」


突然のサプライズに、エレナの顔から思わず笑みがこぼれる。


「今回のコンクールで賞を取れるかは分からない。だが君の才能は、誰よりも私が認めている」


風賀は穏やかに言った。


「これは、その未来への前祝いだ。いつか“最高のピアニスト”になる日を信じて」


「……先生、本当にこの国……リゼティアを離れてしまうんですね」


その言葉に、風賀は静かに頷いた。


「……最近、妖魔どもの活動が活発になってきていてな。国外でも被害が増えている。向こうのリザイヤ支部から応援要請が来たんだ」


「リザイヤ……?」


エレナが首を傾げる。


「リゼティアが大昔に設立した、対妖魔組織のことだよ。表向きは非公開だが、国内外に支部がある。……私もそこに所属している能力者の一人なんだ」


「リザイヤの事は、流石にわたしでも知ってますよ…!それよりも、先生が……能力者だったなんて……」


驚くエレナに、風賀は少しだけいたずらっぽく笑った。


「癒しの系統だから派手さはないけどな。まあ、怪我くらいは治せる」


「……ずるいです。そんなの、もっと早く教えてください」


「無駄な心配は掛けたくなかったんだ。レッスンの方にも集中出来なくなるだろ?」


エレナは寂しそうに視線を落とす。

風賀は、やさしく続けた。


「来年からは君も高校生だ。年度始めに国が実施する遺伝子検査でもし君に能力者の素質が認められた場合、リザイヤでの活動も許可される……その時は、同じ立場で会えるかもしれないな」


「そんな意地悪言わないでください。……帰ってきてください、先生。わたし、ずっと待ってますから」


風賀は穏やかに笑い、軽く頷いた。


「ああ、任務が終わったら、必ず戻る。……それまでに、一流と呼ばれるピアニストになっておけ」


「わたし、いつか先生を越えてみせます!」


「いい心意気だ」


風賀は微笑む。


「だが忘れるな。完璧を目指すんじゃない。自分らしく階段を登っていけ」


完璧より、自分らしく。

その言葉が、彼女の胸に深く刻まれた。


この教えが、のちに彼女の運命を大きく変えることになるが、

この時のエレナには、まだ知る由もなかった。


――後日談――


エレナはコンクールで見事銅賞に輝き、

風賀は、教え子の快挙を見届けるとリゼティアを離れた。

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ピアノ弾きの私に、救世主の使命は重すぎる 蒼月クロノ @ChronoAotsuki

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