第2話 女の敵!!

 イライザとメイナードは確かに、幼少期を共に過ごした幼馴染同士だ。

 とはいえ、不思議な関係だった。

 

 イライザが寄宿学校に入る直前だから、九歳や十歳くらいの頃。

 その頃、まだ父と母は生きていた。父は豪商だったが身を慎んでおり、母は穏やかで寛容な貴婦人。目一杯愛されて育った……と思う。

 兄はまだ大学にいて、滅多に家に帰ってくることはなかった。

 幸せな日々だった、と思う。


 ところが、隣家から子供の激しい泣き声が聞こえてくるのが気になっていた。


 もう耐えきれなくなったのがある春の日。

 柔らかな陽の光がアシュレイ家のタウンハウスのささやかな庭を照らしていて、イライザは日向ぼっこをしながら庭のベンチで本を読もうとしていた。

 本を開くと、「わあああ!」と空間を裂くような泣き声が聞こえた。


 騒音だ。まったくもって騒音。


 イライザは頬を膨らませる。

 騒音だと隣の家に苦情を言えないのは、隣が上流階級も上流階級のエクセウィック侯爵エヴェリット家のタウンハウスだからだ。

 でも、その日イライザは虫の居所が悪かったのか、本を乱暴に閉じて立ち上がり、ずんずんと庭の奥へと向かった。

 

 庭の奥には物置がある。おてんばだったイライザは物置からはしごを出すと家の塀にはしごを掛けて登った。はしごを引き上げてエヴェリット家の塀に掛け、降りていく。


 エヴェリット家の庭は、息を呑むほど美しかった。

 どこもかしこも左右対称。まるでおとぎ話の王宮の庭に迷い込んだかのよう。

 庭の美しさに感動するのもそこそこに、泣き声の元を辿ってずんずんと庭を進んでいく。憲兵に捕まっても仕方のない所業だ。


 しばらく歩くと美しい薔薇園があった。泣き声のもとはここだった。

 深紅や薄ピンク、白の薔薇を掻き分けていくと、小さな男の子がうずくまっていた。


 癖っ毛の黒髪に白い肌。ほっそりとした体つき。一見女の子かと思った。 


「こんにちは」


 イライザは男の子の隣に座り込んだ。


「毎日泣いているのはあなた?」


 男の子はびくっとしてイライザのほうを振り向いた。彼はその紫の瞳からぼろぼろと涙を流している。

 心がひび割れているかのような少年の表情に、「うるさいので泣くのやめてください」とはいえなくなる。


「どうしたの? 何で泣いてるの?」


 気づけばイライザは、男の子に聞いていた。

 男の子は周囲を見回すと、うつむいてイライザに答えた。


「『総督』が……」

「『総督』?」

「母上と……仲のいい男の人……」

「そのお方が、どうしたのですか?」

「ぼくを、とつぜん、たたいてきて」

「……え? どうして?」

「へやに……はいったの、母上に、ご用、あったから……、そしたら、何も着てない……母上、と、『総督』、がいて、たたかれ……」


 男の子はしゃくりあげた。


 状況はよくわからない。男の子の涙がとまらないので、イライザはポケットに入れていたハンカチを取り出して男の子の涙を拭いた。背中も撫でてやる。

 しばらくすると、男の子は落ち着いた。紫の瞳が不思議そうにイライザを見上げる。


「誰?」


 ひっ、とイライザは顔を逸らす。


「い、イライザ……」

「ぼくはメイナード。よろしくね」


 イライザはメイナードと名乗る少年と手を繋いだ。少年の手はまだ小さい。彼女より少し年下だろう。


「ね、それ、何?」


 メイナードは目ざとくイライザの脇に抱えている本を指差す。イライザはここまで来るにあたり、本を持ってきてしまっていた。


「えっ、あっ、この本?」

「本? 何に使うの?」


 イライザは言葉をなくした。本を知らない子がいるなんて。

 本好きとしては衝撃的だった。


「読む、のよ」

「読む?」


 イライザは本を開き、「昔、あるところにお姫様がおりました──」と読み聞かせた。

 メイナードはそれを聞いて今まで寂しげだった表情を変えた。本に書かれた物語に対して、イライザ以上に興奮して喜んだ。


 それから、イライザとメイナードは日々庭の片隅で会うようになり、様々な本を二人で読んだ。おとぎ話、偉人の伝記、ファンタジー、冒険もの──。


 メイナードがエクセウィック侯爵エヴェリット家の唯一の後継ぎ、とても高貴な子供であることを知ったのはしばらく経ってからのことだったが、それでも二人は楽しく本を読み続けた。


 だが、別れは来る。

 イライザは寄宿学校に入ることになった。メイナード自身もどんな事情でかは知らないが、祖母のもとに行くことになったらしい。


 別れの日、イライザはメイナードの黒髪を撫でた。


「メイナード様。わたし、もっと本をあなたと読みたかったです。でも、メイナード様はもう悲しむことはありません。──」


 その先の言葉をすっかりと忘れたが、メイナードは頬を染めて大変大喜びをしていた。


 たぶん、「おみやげを差し上げます」とか「本をお贈りしますよ」とかだったと思うのだけれど。──すっかり忘れた。


 ❖


 縁談が持ちかけられて数日後、イライザは留守中の兄の目を盗んである場所に赴いていた。


 工業の進歩により最近開通した路線バスを使うと家から十分ほどで辿り着ける高級喫茶店だ。

 性別年齢問わず気兼ねなく入れる場所でありながら品は損なわれていない。ゆったりとした時間が流れる。

 

 妖精めいた雰囲気の、銀灰色の髪をクラウンブレイドに結った眼鏡の女が席をとっていた。手を振ると、向こうも振り返してくる。


「アンジェ、ひさしぶり」


 彼女はアンジェリカ・アップルヤード。愛称はアンジェ。イライザの寄宿学校時代からの大親友。売れない歴史小説家で「アンブローズ・A」という筆名で時折新聞社に小説を投稿している変わった女性だ。


 アンジェはイライザが席に着くと、居住まいを正してキッと見つめた。


「どうだった?」

「……難しかった……」

「恐悦至極」


 ふかぶかと頭を下げてくる。

 イライザはアンジェに原稿を渡す。


「あと、ここの、『後で書く!』って段落はどういうことなの?」

「後で書くつもりだった」

「下読みの意味がないわ……?」

「史料が全く集まらない。今回の舞台は古代。舞台となっている場所の遺跡を見に行けたらいいんだけど、お父様が許してくれない」


 アンジェの父親は高名な歴史学者だ。若かりし頃は古代遺跡の発掘に取り組んでいたらしい。娘が歴史好きになり歴史小説を書くのは必然だったと言えよう。だが、自分は遺跡に散々行っておいて、娘には冒険をさせたくないらしい。

 

「……適当に書くというのは?」


 イライザがいうと、アンジェは眉をひそめた。


「イライザはたまに歴史好きの神経を逆撫でするよね。適当は許されない。それが歴史研究。そして最新の歴史研究を緻密に反映させるのが──わたしの小説」

「ん、んん〜」


 イライザが返答にきゅうしていると、給仕が紅茶とケーキスタンドを運んできた。

 紅茶好きのアンジェは喜んでティーカップを手に取る。


 しばらくして、アンジェはその琥珀色の瞳でイライザをじっと見つめだした。


「何……?」

「イライザ、……なんだか悩んでない?」

「え?」


 アンジェは鋭い。その鋭さは神がかり的だった。


「その……」


 イライザが目をそらすと、アンジェは紅茶を一口飲んだ。


「たぶん、こうかな。お兄さんが縁談を持ってきた」


 ぎくっ。

 イライザはアンジェの鋭さにたじたじとする。


「相手の男がとても気になる。どんな男か知りたい」

「なんで分かるの」

「イライザと何年付き合っていると思ってるの。寄宿学校中はずうっとルームメイト。だから、なんかわかる」

「……」


 おや、とイライザは気づく。

 そうだ、アンジェの父は歴史学者でありながらも王家にも縁深いというシェプウォルド伯爵家の次男で下院議員でもある。一応アンジェは上流階級のお嬢様なのだ。


 しかも出戻りとして家に籠もっているイライザと違い、まだ未婚のアンジェは社交界に出入りしている。イライザの縁談相手、メイナード・エヴェリットについて現在の様子を知っている可能性が高い。


「あの……アンジェ」

「はい?」

「エクセウィック侯爵、メイナード・クリストファー・エヴェリット殿下のことについて知っている?」


 アンジェは眼鏡のブリッジをくいっとあげた。


「……あれ。知らない? 社交界の寵児として有名な人じゃない」

「……え」

「ただ……」


 かちゃり、とアンジェのティーカップがテーブルに置かれた。


「とんでもなく女好き。見境ない感じ。最低。女の敵。最悪。ド変態。下半身だけで生きてるクソ野郎」


 イライザは目をぱちくりさせた。

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