ノー・ロープ、ノー・ネーム

砂東 塩

二〇七六

「この辺りにすまい致すものでござる〜」

 不意に、場違いな声が背後から聞こえてきた。家を出て、駅に向かう途中の路地でのことだ。すぐに振り返らなかったのは、その声に聞き覚えがあり、それが拒絶感をもたらすものだったから。しかし、本能的拒絶反応を振り切って、声の主を確認する必要があった。

 背後には誰もいなかった。立ち並ぶ店の中に開店準備をする人の姿はあるが、近くに道行く人はいない。制限速度四十キロの道を明らかにスピード違反で走ってくる車が一台。

 縄手桜汰なわてろうたはホッと息を吐き、腕時計を確認した。

 二〇七六年六月六日午前七時六分。その時刻表示にゾッとした時、ドスンと鈍い音がし、続いて急ブレーキの音が路地に響いた。路端に倒れ込んだ着物姿の人影。蒼白な表情の運転手は急ハンドルでそれを避け、猛スピードで桜汰の脇を走り抜けていく。

「ひき逃げだ!」

「救急車! 110番もだ!」

 近くの花屋からふたりの店員が駆け出して来て、ひとりは電話をかけ、もうひとりは轢かれた男のそばにしゃがみ込み「聞こえますか?」と声をかける。男性とわかったのは、血に汚れた被害者の顔がこっちを向いていたからだ。そして、それは桜汰の知った顔だった。その顔に吸い寄せられるように、桜汰はフラフラと近づいていく。

「救急車すぐ来るみたいです」

「意識がない。見たことない顔だけど、このあたりの人だろうか」

 この辺りにすまい致すものではござらんだろうな――と、桜汰は半分思考のストップした頭で考えた。

『この辺りのものでござる』というのが狂言の冒頭の決まり文句であることくらいは知っている。おそらくそのバリエーションの中のひとつが、直前に聞こえた「この辺りにすまい致すものでござる」なのだろう。

 あの声は、ちょうど一年前、二〇七五年六月六日七時六分に姿を消した、桜汰の父親、縄手榊なわてさかきのものだった。

「その人、失踪した父に似ている気がします」

 呆けた声、呆けた表情で言う桜汰の姿に、花屋の店員ふたりは困惑と安堵の表情を浮かべた。「失踪」という不穏な言葉への不信感と、事態の収集を押し付ける相手が現れたことへの安堵感だろう。桜汰は素知らぬふりで立ち去るべきだったと後悔したが、逃げても追いかけてくるのが父親だったと思い出して早々に諦めた。

 勤め先の研究所には「家族が事故にあって」と連絡し、救急車に乗り込んで意識不明の着物の男と一緒に病院に行った。外傷はあまりないように見えたが、内臓損傷が激しいらしく何度も生死の境を彷徨い、日が暮れるまで手術室から出てこなかった。

 病衣に着替えさせられた男が個室に運ばれたあと、看護師が入院のための書類と汚れた着物を持ってきた。

「これ、どうします?」

 着物はビニール袋を二重にして入れられており、看護師は桜汰が「捨ててください」と言うものと完全に思い込んでいた。桜汰にもそれがわかっていたが、汚い着物に付着した血は今後必要になる。「置いといてください」と言うと、看護師はそれをさらに白いナイロン袋に入れて桜汰に渡した。

 看護師が出ていくのと入れ替わりに入ってきたのは、桜汰の妹のかえでだ。

「事故にあったの、朝だっていうじゃない。なんで夕方になってから電話してくるの?」

「電話で言っただろ。入院手続きに連帯保証人を書く欄があるんだよ」

「そういう話じゃないでしょ。いくらあんな父親でも、死に目に会えなかったら気分悪いじゃない」

「死んでないだろ。それに、父さんじゃない。俺が見ている前で突然車の前に現れて、轢かれたんだ。その時は着物を着てた。父さんが一年前にどこに行ったか、楓にはちゃんと本当のこと伝えただろ。見ろよ、これ」

 血に汚れた着物を桜汰が見せると、楓は引き攣った笑みを浮かべた。そしてベッド脇のネームプレートを指差す。

「あれ、兄さんの嘘だったんじゃないの? そこ、父さんの名前が書いてあるじゃない」 

縄手相司なわてそうじは死んでるからな」

 疲労しきっていた桜汰は、投げやりな口調で言った。楓はこぶしを震わせ、「これ以上振り回さないでよ!」と病室から駆け出していく。

 追いかける体力も、改めて説明する気力も残っていなかった。桜汰には、楓の気持ちが痛いほどわかる。彼女も縄手榊の被害者と言えば被害者だ。タイムトラベル研究者縄手榊の身内というだけで、長らく奇異の眼差しを向けられてきた。そして、桜汰にも一応研究者の肩書があり、半強制的に父親の研究を手伝わされ続けてきた。

 タイムトラベル研究はここ十数年盛り上がっており、むしろ今の時代では花形だ。父親もその花形に甘んじておいてくれたらと、桜汰は何度も思った。しかし、父親が提唱したのは一般的なタイムトラベルとは違い、身体を伴わず意識だけを遡行させるタイムリープに近い。だが、タイムリープとも異なり、縄手榊はそれを「位相転魂いそうてんこん」と名付けた。

 怪しげなネーミングが周囲の不信感を煽ったという面もあるが、発想自体は昔からあったもので、SF小説やアニメなどではよく見かける。時空を超えた意識の入れ替わりだ。タイムリープは同一人物の意識を過去に遡行させるものだが、「位相転魂」は過去の他者の意識と、現在のタイムトラベラーの意識を交換するというもの。

 この、「意識(魂)を入れ替える」という荒唐無稽な研究は、倫理的問題があると非難された。なぜなら、許諾も得られていない過去の人物の意識を、無理やり現代に生きる他人の中に押し込めるのだ。そして、桜汰の場合、何も知らず父親の身体に入れられた祖先の世話を押しつけられることになる。うんざりだった。

 縄手榊が長らくこの研究を続けてこられたのは、病弱な彼の妻、すなわち桜汰の母親の実家のおかげだった。しかし、その母親が二〇七四年末に病死した。彼女の意識の生存を望んで研究費を出していた実家は、躊躇なく資金提供をストップ。

 もともと狂人と呼ばれていた縄手榊が、輪をかけておかしくなったのは妻の死が原因だ。彼はもともと妻とともに位相転魂を行い、同じ時代に行く予定でいたのだが、一人で過去に行くと言い始めた。その転魂候補が縄手相司。

 相司は平成の時代に生きた男だ。市役所勤めで趣味が狂言だったらしいが、遺された写真を見る限り榊にそっくりだった。適合者を見つけるのが困難な、位相転魂の貴重な対象者。血液型が同じで、遺されたデータによる性格分析から、魂型(オーラタイプ)も一致すると推測された。

 榊は、「妻の位相転魂候補者がいる二〇〇五年に行くことを決心した」と宣言した。桜汰からすれば、それは決心というより現実逃避でしかなかった。その候補者は、いくら顔や性格が似ていても赤の他人。「二〇七五年に生きる意味がない」「妻も私の研究を応援していたのだから実践せねば」という父親の言葉も、桜汰には面倒事を押し付けるための言い訳にしか聞こえなかった。もちろん、いくら引き留めても父親が耳を貸すことはない。

「二〇〇五年の縄手相司は私と同じ六十五歳。前の年に妻と死別し、定年退職したばかりで、悠々自適に過ごしている。転魂するには今が最適だ。桜汰、この実験が成功したら、その成果はすべておまえのものにすればいい。世界中の注目を集めるはずだ。平成の人間の意識がこの身体に宿るのだからな」

 二〇七五年六月六日七時。位相転魂装置のコードを自らの手で体中に貼り付けていく父親を、桜汰は呆然と眺めていた。成功しようが、失敗しようが、その後始末を考えると気が重くなる。たとえ父親の思い通りに成功したとしても、世間がそれを認めるはずなどなかった。「縄手榊はとうとう本当に狂ってしまった」と笑われるのが関の山。そして、右も左もわからない平成の祖先を世話する桜汰の姿は、狂った父親を世話する哀れな息子に見えることだろう。

「桜汰、あとのことは頼む」 

 二〇七五年六月六日七時六分。縄手榊は位相転魂装置の作動スイッチを押した。その瞬間、身体が消えてコードだけがバラバラと床に落ちる。

「……失敗だ」

 桜汰がそうつぶやいたのは、沈黙した位相転魂装置を三十分ほど見つめたあと。その口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。

 本来なら、父親の身体はそのまま、意識だけが縄手相司にならねばならない。面倒だと思いつつも祖先に最初になんと声をかけるべきか、桜汰はここ数日考えていた。しかし用意していた「ここがどこかわかりますか?」という言葉をかける相手は、いっこうに現れる気配がなかった。

 桜汰は、父親が身体ごとタイムスリップしたのだろうと考えた。その身体がどこに飛ばされたのかは不明だが、桜汰自身が変わらず存在しているということは、父親は紛れもなくこの世界に存在したということ。それは、時間が経つごとに確信に変わった。

 失踪届を警察に出す前に妹の楓にありのままを伝えたが、彼女は父親のことを覚えていた。そして、タイムトラベル研究者の間に縄手榊失踪のニュースが光のごとく伝わった。そこには「金策尽きて失敗したため」という憶測まで加わっていた。

 桜汰は縄手榊の下僕という身分から解放され、さらに、会ったこともない祖先の世話をする必要もなくなり、生まれてこのかた味わったことのない解放感を得た。職に関することだけが悩みの種だったが、それもさほど時間をおかず解決された。もともとタイムトラベル研究者たちは狂った父親の言いなりになっていた桜汰に同情的で、成績優秀だったことからずいぶん惜しまれていたのだ。桜汰は知人に声をかけられ、とある研究所でタイムトラベル研究を続けることになった。

 研究所では、時空の物理的構造を歪めてカプセルごと移動させるというクロノ・トポロジー理論に基づいた研究を進め、一方、父親の研究施設を兼ねていた自宅では、残された資料を解析して密かに位相転魂の失敗の原因を探った。

 失敗の理由も、父親の行方も掴めないまま月日は流れ、一年後の同じ日の同じ時刻、桜汰の前に父親そっくりの狂言師が現れ、車に轢かれて意識不明になった。

 酸素マスクを着けた父親そっくりの男のベッド脇で、桜汰は妹が帰ったあとも何が起きたのか考え込んでいた。

 目の前にいる瀕死の男は父親ではなく、位相転魂の対象者だった縄手相司。その意識だけでなく身体ごとここにあるということは、「位相転魂」は失敗したが、その代わりに「位相転」が起きたということだ。そして、何らかのミスで時間座標と空間座標にズレが生じ、縄手相司は一年後にあの路地に現れた。

 意識だけ交換させるはずがなぜ――そう考えた時、桜汰の脳裏にはある仮説が浮かんだ。仮説というより、むしろ常識と言ったほうがいい。

「意識と身体は不可分ということか。つまり意識の空間座標を強制的に移動させれば、瞬間移動も可能……」

 桜汰は忙しなく荷物をまとめ、「また明日来ます」と看護師に告げて自宅に向かった。節約のため電気も通わない研究室で、懐中電灯の明かりを頼りに資料を読み返す。生活のためだけに研究者を続けていた桜汰の胸の奥に、初めて好奇という名の火が灯った。

 しかし、現実はそう甘くはない。

 妹とは入院費のことと、男の意識が戻らなかった場合の扱いで口論になった。いつ目覚めるかわからない祖先のことも気がかりで、ない時間を割いて毎日病院に足を運んだ。家に戻り父親の残した資料を読み返すも、わずかに掴んだロープの端を手繰り寄せることができない。

 限界を感じた桜汰は、事故から四日目にある決断をし、妹に打ち明けた。

「この男の秘密を研究所に明かそうと思う。これまでの経緯を話して、父さんの残した資料も、俺がこの一年やってきた位相転魂研究も全部見せる。それで、この過去から来た縄手相司という男も一緒に研究所に引き渡すんだ。幸い、あの時のひき逃げ犯は着物の男が突然フロントガラスの前に現れたと証言してる。血のついた着物もとってある。研究所にこの男への興味を持たせ、研究価値があると訴えれば、男を引き取るだけじゃなく、ここの入院費も肩代わりしてくれるかもしれない」

「いいんじゃない。平成の祖先なんて他人みたいなものだし、お金出してくれるなら何でもいいわ。でも、信じてくれるかな? 意識が戻らないと難しいんじゃないの?」

「医者の話では身体の損傷は順調に回復してるらしいし、祈るしかないさ」

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