3、朱鷺子と辰巳-私達の正しい距離-

 とりあえず謝らなきゃと思った。誰に向かって? んなもん私が訊きたい。



「弟に彼女が出来たの……」

「へぇ、おめでとさん」


 友人はカレーライスを頬張りながら、実に感情の籠もらない声で言った。チクショウ、これがどれほどの異常事態か分かってない奴はよぉ!


「弟に、彼女が、出来たの!」

「何強調してんの。もしかして嫉妬? ブラコンはほどほどにね」

「ちっがーう! 何で私が嫉妬なんかしなきゃなんないの! ブラコンなんてありえないし!」

「はいはい、気をつけてね、お姉ちゃん」

「だ、か、ら! 問題はそこじゃなくって、あの弟に彼女が出来たって事なの!」


 机をどんと叩いて熱弁をふるったが、友人は冷静にカレーと豆乳パックが載ったお盆を机の振動から避難させただけだった。

 私の声は結構大きかったらしく、この目の前の友人以外の周囲の人は、何事かとチラリとこちらを見て、けれどすぐに関係ないことだとそれぞれの会話に戻る。大学の休み時間、食堂で食べる昼食は、高校の時よりも無関心さが大きいように思える。知り合いの密度が低いせいだろうか。


「何が問題なの。弟くんだって年頃なんだから彼女の一人や二人……」

「私の弟はねぇ! 彼女いない暦が実年齢の男なの! 恋愛事にこれっぽっちも興味を持ってこなかった男なの! むしろ恋愛しまくりの私を馬鹿にしたような冷たい目で見てくださりやがった男なの!! そんな奴に彼女が出来たって言われても信じられるわけないでしょう!!」

「んな事言ったって、事実なんでしょう? 信じてやんなさいよ。大体人間お年頃になれば考え方も変わるものなんだし」

「そ、それはそうなんだけど、でももう一つ信じられないって言うか納得できないって言うか……!」

「何よ?」

「弟の彼女って私のサークルの先輩なの」


 此処でようやく友人は食べるのをやめて私の顔をじっと見た。


「あんたの弟って何歳よ?」

「私と同じ年。何故なら双子。そんで理工学部だから校舎違うけど同じ大学」

「…………ああ、それは、うん。信じられないって言うか納得できないって言うか……気まずいかもね」


 さっきまでとは違い、多少なりとも感情の籠もった声が返ってくる。

 けれど、違う。何か違う。

 一回吐き出してしまったら違った。私の中でこれだけ動揺している原因は、気まずいとかそういう事ではないのだ。


「……違う。違うのよ。私、謝らなきゃ」

「はぁ? 誰に?」


 私はその困惑気味な声に返す答えを知らない。

 謝らなきゃいけないことは分かっているのだが、その対象が誰なのだか分からない。

 分からないのに、なのになんだ、この罪悪感は?




 答えられなかった私を、友人は一日中変な目で見て「余計なお節介も大概にしときな」という分かってんだが分かってないんだが分からない言葉を吐いた。私は何だかむかついたからその言葉は軽く無視して、午後の授業はずっと、誰に謝らなきゃいけないのかを考えていた。そんな事してたら、あっという間に一日は過ぎていった。


「ただいまぁ」

「おかえり」


 家の玄関を開けたら、すぐに声が返ってきた。問題の弟、辰巳が出かけようとしていたのだ。


「何処行くの?」

「バイト」

「嘘。あんた土日だけじゃない」

「増やしたんだよ。最近金足りなくって」


 じゃあな、といってすれ違う辰巳の襟を引っつかんで乱暴に引き止めてしまった。聞き苦しい悲鳴が聞こえたがそれは無視する。


「何すんだよ!」

「金足りないってどういうことよ。まさかあんた、先輩に貢ぎまくってるんじゃないでしょうね」

「何でそんな事。あの人酒飲みだから普通に付き合ってても金がなくなるんだよ」


 喉をさすりながら不機嫌そうに辰巳は返してくる。その答えに納得しながらも、私はどうも腑に落ちなかった。


「ねぇ、本当に先輩と付き合ってるの?」

「付き合ってるよ」


 もう一度、じゃあな、と言って、今度こそ辰巳は出て行く。

 私は玄関に一人取り残され、ドアが慣性の法則だかバネ仕掛けだかに従って閉まるのを、ただじっと見ていた。別にドアが閉まる決定的瞬間が見たかったわけじゃない。そんなんじゃない。

 ただ、辰巳が出て行って。

 いつの間にか大きくなっていた背中。私を振り返らない。家を出て行く。私は家の中で。目の前でドアは閉まる。

 この、決定的な距離。離れてしまった二人。結ばれた二人。

 もやもやしたものが喉の奥から湧き上がる。


 ようやく分かった。私は、弟に謝りたかったのだ。




 私は小さい頃から好奇心旺盛なお子様だった。何でも考えるより試してみたがり、いつも無茶をしていた。そのバランスを取るかのように、弟は子供の時から妙に冷静で、いつも先を予測してからそつなく行動していた。私が遊びに夢中になっている時、弟が勉強などをサポートしてくれた。別に助けてくれと頼んだわけではなく、弟曰く「片割れが馬鹿だと俺が恥ずかしい」という事らしい。

 生まれた時からずっとそうだった。弟は私を支えてくれていた。だから私は、弟が私の側にいるのは当然だと思っていた。

 中学に入った頃から、私は勉強も部活もそっちのけで恋に夢中になっていた。惚気も愚痴も全部弟が聞いてくれた。何でもかんでも話していた。


 つまり私は、恋愛にまだ興味もない少年に、初恋もまだだった少年に、恋愛の汚いところも余すところなくぶちまけていたのだ。


『あんた、どんな子がタイプなの?』


 高校卒業を間近に控えたバレンタイン。それなりにチョコを貰いながらも、考えてみたら今まで一度も女の子と付き合った事がない弟に尋ねた。弟は『いい女』とだけ答えた。

 だからそれが具体的にどんな女なんだって聞きたいんだってば、と言いかけた私に、弟はさらに続けた。小さく、独り言のように。


『つーか俺、恋愛に関しては諦めてるんだよな……』


 興味がないのではなく。諦めていると。冷めた目で。乾いた声で。


 あ、ヤバイ。私のせいかも。


 私は一瞬そう思って、だけど弟はいつもなんだかんだで私に優しいから、その刹那の罪悪感に蓋をした。どうせ弟は私の側にいるんだから構わないかと、自分勝手な鍵をつけた。

 そうしてずっと、見ないふりをしてきたのだ。

 弟に彼女が出来るまで、ずっと。




「おかえり」

「……ただいま」


 玄関に座り込んで迎えた私に、辰巳は目を丸くしながら答えた。


「お前何やってんの? もう夜中なんだけど」

「馬鹿ね、大学生にとっちゃ夜中は昼間よ」


 間髪入れずに返したら、靴を脱ぎながら辰巳は笑った。


「お前それ、受け入りだろ」

「え?」

「俺も先輩から聞いた」


 昔だったら、そんな事は言わなかったのに。

 少し前の辰巳だったら、『お前それ、先輩にも言っただろ』って言っただろう。だって辰巳の中で一番近い存在は私だったから。自惚れでなく。間違いなく。

 昔だったら、二つ似たようなものが並んだら、躊躇わずに私を信じて優先していたのに。


「ねぇ、あんた今、どんな子がタイプ?」


 立ち上がらない私に合わせるかのように、辰巳も座り込む。


「いい女」


 昔と変わらない答え。だけど昔と違って私は、具体的にはどんなの? って続けた。


「具体的に? そうだな……じゃあ、先輩みたいな女」


 どうせお前、チクるつもりだったんだろ。笑いながら言って立ち上がる。私も立ち上がって、ばれたか、と心にもない言葉を言った。はじめから先輩にチクるつもりなんてない。

 階段をのぼっていくその背中。遠ざかる背中に私は声をかける。


「あのさぁ、ゴメンね」


 唐突な私の言葉に、辰巳は振り返る。だけど降りては来ない。開いてしまった距離は縮まらない。


「何が?」

「……別に」

「何だそれ」


 眉をひそめてそれだけ言うと、踵を返してまた階段をのぼり始める。私はのぼらない。距離を縮めようとは、思わない。

 ゴメンね。本当はもっと早く、これくらいの距離が開いてなきゃいけなかったのにね。

 別に意図してたわけじゃないけど、私のお喋りがあんたを恋愛から遠ざけてたんだね。他の女から遠ざけて、私のところに縛ってたんだね。

 もしかしたら私の事なんか関係なく、あの時あんたはあんたの都合で勝手に恋愛を諦めてたのかもしれないけど。


 それでも、ゴメンね。だって私、自分は彼氏を作っておいて、本当に好きな人と恋人やっておいて、それでもあんたが私を一番に見てくれるのが嬉しかった。


 もう、あんたの中で一番の存在は私じゃないんだね。ようやく、恋愛が出来たんだね。それを認めるのは嬉しいけれど、とても淋しい。


「……あー、やべ。私、結構ブラコンだったかも……」


 私はもう一度しゃがみ込んだ。滲み出た涙が悔しくって、膝小僧に顔を預けた。

 とりあえず謝らなきゃと思ったの。本当に大好きだから、本当に申し訳ないと思ってたの。全部遅すぎたんだけど。


 ゴメンね。おめでとう。ありがとう。バイバイ。

 さよなら、今までの私たち。

 こんにちは、これからの二人。新しい距離で、それでも仲良くして。


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