人喰いの島へ、君をつれて

戸成よう子

第1話 出発

 天候は薄曇り。雲間から射す陽光は、ひどくぼんやりしている。

 左手に広がる海は鉛色で、どこまでも陰鬱だ。

 右手には低い崖がそびえており、剥き出しの岩の連なりが続いている。ところどころに、この先急カーブ!だの、落石注意!だのといった看板が立てられているとおり、この辺りは泳ぐにはまったく適していない、険しい地形の海岸である。


 その海岸を目指して、一台の車がひた走っていた。


 おんぼろ、と言っていい、くすんだ白の乗用車。何もかもが冴えない風景の中にあって、その車はひどくこの場に”ふさわしい”印象を醸し出していた。車は、かなり荒い、直線的な走りで海岸に向かう一本道を辿っている。運転席には、その走り方からすると、さもありなん、と思わせるガラの悪い見た目の男が座っていた。グレーに染めたぼさぼさの髪に、やけにテカテカした安物の黒いジャケット。胸元に覗くTシャツには汚れた手を拭いたらしく手形がついている。顔立ちは若く、まあまあ整っているが、酒にでも溺れているのか目元が爛れたように垂れ下がっていた。


「泰広。今、何時だ」

 霧川弘雄は言った。陰鬱な空気から滲み出したような声だった。

「何時って、そこに時計、ついてんだろ」不満そうな声が返る。

 車中には運転手のほかに、三人の若者の姿があった。助手席に一人、後部座席に二人。

 助手席に座って、ずっと自分の指先のネイルを点検していた少女が、振り向いた。「壊れてんのよ、この時計」

 泰広と呼ばれた少年は呆れ顔で、十一時前、と時間を読み上げた。

「あちこち故障してんだよ。バッテリーが切れてんのかもしれないけど」

「ヤバいんじゃねえのか、この車」

「ヤバくたって別にいいだろ」歯を剥き出して弘雄は言う。「旅行に行くわけじゃねえんだぜ。呼ばれて、海岸へ行くだけなんだから」


 まあ、確かに。という空気が車中に流れた。

 車内の他の面々も、弘雄に負けず劣らずのガラのよくない風貌だった。一人を除いて。

 助手席の立松まどかは、ずっと呆けた顔つきで自分の爪か、窓の外を眺めている。スマホを出してSNSでも眺めよう、という気力さえ湧かないようだ。染めた長い髪は、明るい、というより抜け落ちたように色が薄く、どことなく幽霊じみた印象を強めていた。ジャケットはピンクで、こちらもやけにテカテカしているので隣にいる弘雄とお揃いなのかもしれない。

 最上泰広は、二人と比べるとややまともな社会生活を送っているように見えた。少なくとも、酒に溺れている様子はないし、表情が異様に呆けてもいない。しかし、短く刈った頭髪の下には額から頭頂にかけて走る傷痕が浮き出ていたし、手の甲に髑髏の刺青が施された左手の指には包帯が巻かれていた。他の二人とは別の意味合いで、彼もまた社会から逸脱しかけているのかもしれなかった。


「で? 何時くらいに終わるの」感情というものが欠落した声で、まどかが聞いた。

 弘雄がそちらを忌々しげに睨む。

「知るかよ。あいつに聞きやがれ」

「あいつ、って何だっけ、名前?」

「ええと、真野――」

「真野はわかってるよ。朋也の兄貴なんだからさ」言い澱む弘雄に、泰広が馬鹿にした調子で言う。

 弘雄はミラー越しに、じろりとそちらを睨みつけた。

 どんよりしていた車内の空気が、剣呑なものに変わりつつあった。


「ちょっと、やめてよ」その時、後部座席に座るもう一人―― 黒髪の少女が鋭く言い放った。「くだらないことで言い合わないで」


 弘雄はルームミラーを覗いた。薄暗い後部座席で、二つの眸がこちらを睨んでいる。

「くだらない、って何だよ」泰広が言い返したが、ややしどろもどろだった。

 少女―― 篠山冴香は、しかしそちらを一顧だにしなかった。

 腹立たしげに肩から髪を払いのけると、それきり窓に視線を移してしまう。動作が機敏なためか、小柄な体に似合わない獰猛なエネルギーが感じられた。白く小さな顔には何の表情も浮かんでいないが、目つきと仕草だけで激怒していることがありありと感じられた。


「真野彰人だよ」

 窓のほうを向いたまま、そう告げた。他の面々はそれを聞いて、毒気を抜かれたような顔をした。


 この澱んだ空気の漂う車中で、冴香だけは、他の三人とまったく違うオーラを放っていた。ひどく荒んではいるが、どこか澄み切った、健全な感情のうねりのようなものが感じられた。

 冴香はそれきり、ジーンズに包まれた足を組んで外を眺め、押し黙ってしまった。彼女の怒りの波動に当てられたためか、あるいは彼女が告げた名によってか、他の三人もそれきり黙り込んだ。


 真野彰人――


 連絡があったのは、つい昨日のことだ。名前も忘れていた相手からの突然の連絡に、弘雄は驚いた。しかし、相手はこちらの驚きなど気にも留めず、まくし立てるように用件を告げた。


 朋也の行方がわかったかもしれない――


「そんな馬鹿な」

 後部座席から泰広が尋ねた。「え、何だって?」

「いや。何考えてんだあいつ、って言ったんだ」

 まどかが、じっとりとした視線を送ってきたが、何も言わなかった。


 ――真野彰人の説明によると、こういうことだった。数日前、入院中の叔母から連絡があった。叔母は高齢で、アルツハイマーを患っており、ここしばらく具合が悪かった。アルツハイマーの進行とともに体も弱り、寿命後幾ばくかというところだったらしい。ところが、最近になって急に、その叔母が自分を取り戻した。家族の顔さえ忘れ果てていたのに、突然、何年も前のことをはっきりと思い出したらしい。蘇った記憶の中には、朋也に関するものもあった。


 彰人の弟の朋也は、約二年前に失踪している。置手紙も何もなく、犬の散歩に出かけたっきり、いなくなったのだ。飼い犬のフウもまた、忽然と姿を消した。以来、家族の捜索も虚しく、行方を知る手掛かりは一切見つかっていない。


 ところが、叔母によると、失踪の前日に朋也が訪ねてきたらしい。用件は、不知島について教えてほしい、というもの。


 叔母は最初、面食らったが、朋也があまりにも真剣な顔つきなので、話してやることにした。わけは尋ねても言いたがらなかったのだという。ただ、とにかく、どういうところなのか知りたい、とのことだった。

 彰人たちの叔父、つまり叔母の夫は、元気だった頃、不知島という離れ小島の管理を任されていた。そのことを朋也は覚えていて、話を聞きに来たらしい。叔父は既に他界していたので、代わりに叔母のもとへ来た、というわけだ。

 叔母は朋也に聞かれたことを話してやった。不知島は古い言い伝えの残る、所謂、禁足地のような扱いの場所だ。といっても、戦前から口伝のみで伝わる話なので、今ではすっかり忘れ去られている。島について詳しく知るのは、叔父のような役割の人だけだろう。叔父が亡くなった今は、管理の役目は空きポストになっている。

 叔母は、わたしも少しは知っているけど、あの人ほどじゃないねえ、と呟いていた。


 それでも、一応知っていることをすべて朋也に話した。朋也は真顔で頷きながら聞き入っていたが、なぜそんなことを知りたがるのか、という質問には最後まで答えなかった……

 そして、その翌日に、忽然と姿を消したのだ、と彰人は話を締め括った。


「その、叔母さんがした話、って?」

 弘雄は前を向いたまま、泰広の質問に答えた。「その辺は端折られたよ。知ってる奴は知ってる話なんだろう」

「俺は知らねえな」

「あたし、聞いたことある」馬鹿にした調子でまどかが言った。「大昔に、何人も人が死んだらしいよ」

 泰広が不愉快そうに聞いた。「なんで、お前が知ってるんだ?」

「いいでしょ。親が酒を飲みながら話してたんだ。うちの親、昔、漁師をやっててさ。知り合いの漁師がうちに来て、色々くっちゃべってたの」

「もっと詳しく話せよ」

 弘雄に促されると、まどかは覗き込んでいたコンパクト・ミラーから顔を上げた。


「人喰いの島、って呼ばれてるの、知ってるでしょ?」


 そのぐらいは、弘雄も聞いたことがあった。小学生の頃、オカルト好きなクラスメートの間で噂になっていたからだ。だが、そう呼ばれる理由についてはよく知らない。


「まあ、聞いたことはあるな」

 まどかは呟いた泰広を振り向きもしなかった。

「で、どんな死に方だったんだよ?」弘雄が尋ねる。

「それが、おっそろしく惨い死に方だったんだって。その頃、島には住人が何人かいたらしいんだけど、ほとんどは殺されてしまった。みんな、おなかを裂かれたり、首を捻られたりして。生き残った者は僅かだったんだけど、そいつらは口を揃えて、あいつらは喰われた、って話したらしい。それで、ついた名が”人喰いの島”」

「一体、何に喰われたってんだよ」

 泰広が怯えた声で尋ねた。まどかがせせら笑う。

「信じてんじゃねえよ、ばーか。あんなの、与太話に決まってるじゃん。大体、漁師なんて迷信深いものなんだからさ。たまに、ああいう馬鹿みてえな話をしちゃ、仲間内で怖がってるんだよ」


 まどかの下品な笑い声が、車内の張り詰めていた空気を和らげた。泰広も、笑われたことに怒るより、ほっとしている様子だ。


「冴香、よかったな。行方不明の彼氏の手がかりが掴めて」にやけ顔で、弘雄が後部座席に声をかける。

 冴香がはっとしたのが空気から伝わった。


 気まずい雰囲気になりかけた時、泰広が頓狂な声をあげた。「ほんとにあいつ、あの島へ行ったのかな?」

 わざとらしいほど明るいその声に、冴香は眉をひそめ、他の二人はしかめ面をした。

 弘雄が、しょうがないな、という様子で、「だとしたら、冴香が知らないのはおかしいだろ。なあ?」

 冴香は腕組みをして、そっぽを向いている。

「喧嘩でもしてたんじゃないの」まどかが、どうでもよさそうに言う。

「あー、そういうこと。お前ら、揉めてたの?」

 再び、下卑た笑い声があがる。冴香が顔を紅潮させた。

「うるさいわね。人のことに首を突っ込まないで。それより――」鋭い目で三人を見回す。「あんたたちこそ、本当に何も知らないの? ホントは、何か知ってて、隠してるんじゃないの?」


 ぎょっとしたような空気が流れた。咄嗟に言い返そうとした弘雄が、思い直したように口をつぐむ。まどかは忌々しそうに窓の外を睨んでいる。泰広は前を向いたまま、きょろきょろと視線を動かしていた。


「どうなのよ」

「おい、やめろよ」落ち着きを取り戻した弘雄が、言った。「俺たちが何か知ってるわけねえだろ。あいつは、犬の散歩の途中でいなくなったんだぜ」


 冴香は力みかけていた肩の力を抜いた。

「お前こそ、本当に何も知らないのか。一応彼女なんだから、悩み事でもあったのなら聞いてるはずだろ」

 痛いところを指摘されたのか、冴香は一瞬、大きく目を瞠った。

「何だよ。ほんとに何も知らないらしいな」

 そう呟くと、まどかが肘で脇腹をつついてきた。「よしなよ。空気が悪くなるだけじゃん」

 そうだな、と同意した時、前方に海岸が現れた。


「そろそろ、約束の場所だぜ」

 その言葉どおり、しばらく行くと、防波堤の傍に佇む人影が見えてきた。赤いウインド・パーカーを着ているらしいその影は、風にフードを弄られながらこちらをじっと見つめている。少し猫背だが、長身で、肩幅が広い。どちらかというと小柄な朋也とは、正反対だ。しかし、細面の顔や、やや癖毛の髪型は、どこか弟を思い起こさせた。

 路肩に車を止めると、弘雄は窓を開けた。「おい、来てやったぜ」

 感謝しろ、と言いたげな口調にも、相手は表情を変えなかった。

「車を停めてこい。すぐそこの埠頭で待ってる」そう告げると、返事も待たずに歩き出した。

 弘雄はぽかんとして、その後ろ姿を見送った。

 ドアの開く音に我に返ると、冴香がさっさと後部ドアを開けたところだった。まどかも、のろのろと助手席のドアに手をかけている。

 くそっ。弘雄は心の中で毒づいた。俺を運転手扱いしやがって。そして、腹立たしげに前を向くと、アクセルを踏み込んだ。


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