elf:1000

世葉

魔王死す

”ヒース……こちら、リンネ。鼠は兎に追われて、巣に戻りました。

今夜の晩餐は、どちらに致しましょう──?”


 風になびく木の葉に紛れ、微かな震えとともに念話が届けられた。

 それを受け取るヒースと呼ばれた女性は、天を貫く高樹の上から、黒煙に包まれた大地を見下ろしている。


”ああ、確認した。巣穴の鼠を一匹ずつ、確実に仕留めなさい”

 念話を返すと、彼女は視線を遠くへ移した。その視線が地上に近づくほどに、静寂を掻き乱す不快な異音が混ざり込んでくる。


 その高樹の根元では、人間の軍勢と魔王軍が激突し、鋼鉄の音と咆哮が入り乱れていた。

 森は踏み荒らされ、火矢が突き刺さった木々の皮が、ぱちぱちと悲鳴のような音を立てている。

 倒れ伏した兵士たちの血が土へ染み込み、古い精霊たちへの祈りの場は、見る影もなく穢されていた。


 ヒースは唇を噛みしめた。念話には載せなかった歯ぎしりの音だけが、彼女の胸の決意を代弁する。


 これが千年に渡る『人魔戦争』の現実だった──

 人間も魔族も、同じ土地を奪い合い、同じように森を焼く。どちらが勝っても、この光景は変わらない。


 意を決した彼女の長い耳が、ぴんと張り詰める。

 風とひとつになったかのように、彼女は高樹の梢から滑るように身を翻した。枝から枝へと軽やかに、その動きには長い年月を森と共に生きてきた者だけが知る記憶が宿っている。

 細い枝がきしむたび、腰に下げた細身の剣と弓がわずかに触れ合い、短いリズムを刻む。それは森に仇なす者たちを数える点呼となって、陰の中に溶けていった──。


 この森での戦いは、すでに大勢が決していた。

 数で勝る人間の軍勢が魔族の軍を押し返し、生き残った魔族たちは戦線を崩して、我先にと四散していく。

 人間たちの追撃から逃れるように、獣族の魔物は、土を弾き飛ばす勢いで、森のさらに奥へと逃げ去り、有翼の魔物は、乱れた羽音を響かせながら、空の彼方へと消えていった。


 人間たちの馬では、とても獣魔を追うことは出来なかった。彼らの弓や魔法では、空に飛び去った魔物には、もはや届かなかった。

 逃げ去る魔族たちに追撃の刃を届かせる術は、人間たちには残っていなかった。

 やがて、人間たちは追撃を早々に諦めた。そして、勝利が確定した戦場で、敵が逃げ去ったことに満足した。

 その安堵と昂揚が、戦場に残る緊張の糸を緩めていく。


 ──だが、その油断こそ、彼女たちは待っていた。


 人間も魔族も殺し合い、疲弊しきったこの瞬間を──。

 勝利の美酒に歓喜し、敗北の中に落胆するこの時を──。

 誰の目にも届かぬ森の陰で、静かに、揺るがぬ意思を燃やしながら──。


 その最初の犠牲者は、有翼の魔族だった。

 空を裂くように逃走していた一匹が、突如として体勢を乱し、もつれるように落下した。

 近くにいた仲間たちは、戦闘で傷を負い限界に達したのだろうと、半ば諦めの視線を向けただけで、そこに異変を感じ取らなかった。


 だが、ふとまた別の魔族が同じように墜ちたのを目撃して、ようやく「これが攻撃だ」と気づく。

 しかし、空を飛ぶ彼らの周囲には敵影はない。地上からの攻撃が届く高さでもない。何の気配も感じさせないその攻撃が、何処から来ているのか全く分からなかった。


 それこそが、彼らの慢心だった。


 一人の目の利く魔族が、その瞬間を確かに捉えたのだ。

 地上から、音ひとつ立てずに伸びてくる細い影を──、高速で飛翔する飛来物が、仲間の翼を貫いた決定的な瞬間を──。

 それは、決して起こり得ないはずの光景だった。

 人間がどれほどの力をもって弓矢を放ったところで、この距離を届かせるなど、まして射抜くことなど、どうあっても不可能なはずだった。


 次の瞬間、その目の利く魔族自身も、不可避の一撃に撃ち抜かれた。

 視界が暗転していく中、彼は辛うじてその正体を理解した。


 それは、確かに弓矢だった。だが、ただの矢ではない。風そのものを刃のように束ねた、精霊魔法が込められた魔法矢だった。

 決して、強力な魔法ではない。ただ、音も無く風を裂き、距離を無視するためだけに研ぎ澄まされた形状が、この不可能な長距離射撃を可能にしていた。


”──こちら、シレネ。跳び鼠を落としました。もう跳べません”

 仕事を終えた弓兵長が念話を跳ばす。それは、彼女たちが飛ばした弓矢のように、最小限の伝言だった。


 同刻──森へ逃げ込んだ獣魔兵たちもまた、彼女たちの餌食となっていた。


 獣族の血を引く魔族にとって、森の中など庭を歩くのと変わらない。その鋭敏な聴覚と嗅覚さえあれば、人間なら戻ることすら困難となる大森林でも、音と匂いが彼らの道標となり迷うことはない。

 だからこそ、彼らは森を逃走先として選んだ──そのはずだった。


 だが、世の中には上には上というものがある。


 散開して森を駆け抜けていた獣魔兵が、いつの間にか一人、また一人と姿を消していった。分散したことで互いの気配が遠のき、仲間の消失に誰も気づかなかった。

 異変が起きていることを知ったのは、仲間を逃がすため殿しんがりを務めていた獣魔の隊長だった。彼は仲間の痕跡を追ううちに、ある地点を境に足跡が唐突に途切れているのを発見したのだ。


 本来あるべきものが無い──残されていたのはその事実だけで、痕跡を消すために何かを用いた跡も、何かが起こったことを示す気配も、仲間の匂いも、何一つ残っていなかった。

 まるで、森そのものが、跡形もなく彼らを飲み込んでしまったかのように──。


「──隊、長ォ……」 その時だった。森の奥から、かすれた呻き声が確かに聞こえた。

 獣魔隊長の鋭敏な耳は、その声の発生源を瞬時に割り出した。幾人もの人間を血祭りにあげてきた鍛え上げられた四肢は、考えるより早く地を蹴っていた。

 枝葉を断ち切り、土を蹴り、瞬く間に森の深部へ飛び込む。やがて、倒木の陰に倒れ伏す仲間の姿が見え、獣魔は息を呑んだ。


「おい……どうした……」 問いかけた瞬間、違和感が走った。

 仲間の体には匂いが無かった。傷を負ったのなら、鮮明な血の匂いに染まるはず、なのにそれすらなかった。


 つまり──これは……。背筋を氷が走った。


 その刹那、獣魔の足元で地面が沈む。足元の土はほどけ、絡めとるように伸びた蔦が両脚を縛りつけた。獣魔の怪力をもってすれば、植物の蔦など千切れないわけがない。だがこれには、精霊の力が宿っていた。

 触手のように伸びる蔦に引きずられ、獣魔の体は横倒しになった。

 それでも、獣魔は必死に藻掻く。しかし、動けば動くほど蔦は絡まり、ついには動かせるのは眼球だけとなった。


 そして、その視界の端で、彼は確かにそれを見た。木々の闇から、一切の音も匂いもなく動き出す影たちを。

 その影は、彼に近寄ると、耳元でただ一言こう囁いた。 「──貴様には、聞きたい事がある」



 戦場となった森の外れ。”鼠狩り”を終えた彼女たちは、静寂に包まれた林間に張られた天幕に集っていた。その”晩餐”には、食事は出ていなかったが、まだ血の匂いが残り、差し込む月明かりがそれを僅かに薄めていた。

 中央の席では、ヒースを筆頭に、各部隊長の七人が一堂に向かい合っている。そして、蝋の灯が皆の顔を照らす中、ヒースはゆっくりと口を開いた。


「──皆さんのおかげで、我らに被害は無く、今回の作戦は完遂されました。心より感謝いたします」

 深々と首を垂れる仕草は、その場を取り仕切るものとして、似つかわしくなかった。


「そりゃ結構なことだがよ。今回はオレらの出番がほとんど無くて、ちと拍子抜けだぜ、ヒースちゃん」

 そんな彼女をからかう様に、七人の中でも体格の良い女性が、冗談めかして口を挟んだ。


「ドリアス。作戦会議中に余計な発言は慎みなさい」 即座に鋭い声が飛ぶ。

 声を上げたのは、細身の体に冷静な瞳を宿す、いかにも規律に厳しそうな女性だった。


「っんだよ、プルサチラは相変わらず堅ぇな。勝った時ぐらい騒がなくてどーすんだよ」

 ドリアスは、渋い顔をして不満げにそう漏らした。


 二人の間に生まれた火花に、各部隊長たちはそれぞれの表情をみせる。

 面白くもなさそうに見ないふりをする者、くすりと微笑んで見守る者、気まずそうに視線を逸らす者──だが、誰もが知っていた。

 こんな他愛もない言い合いすら、できるようになったのは、ほんの最近のことであることを。


「──ひとつ、報告があります」

 そんな二人に割って入るように、眼鏡の女性が手を挙げた。

「この作戦において、斥候隊長のカシオペが、我々が求めていた情報を持ち帰りました。皆さん、その働きに感謝を」

 場を引き締める声音で、彼女は皆を見渡す。


 皆の注目を集める中で、当のカシオペはふっと微笑み、優雅に首を振った。

「アルメリア、お礼は不要よ。大した労はかかりませんでした。あの鼠は殊の外、仲間思いでしたので……」


 そんな謙遜とは裏腹に、その報告は一同を湧き立たせた。

 沈黙していた者が息を呑み、別の者が椅子の背から身を乗り出す。その戦果は、七人にとって最上の美酒佳肴びしゅかこうに等しかった。


 特に、ドリアスは今すぐにでも跳びつかんばかりに、卓を思い切り叩いて立ち上がった。

「──! ってことは、いよいよ。やるんだな!」


 その荒々しい声に、ヒースはまっすぐ視線を返す。そして、その迷いのない瞳で言い切った。

「──ええ。我々は、兼ねてより準備してきた計画……『魔王討伐作戦』を実行に移します」

 その宣言は、銀色の月明かりさえ呑み込み、森の闇に深く響いた。


 ヒースの宣言を皮切りに、作戦会議は夜を徹して続けられた。

 使い古された地図が広げられ、参謀であるアルメリアが静かに指を走らせながら基本計画を説明する。それを受けて各隊長たちが次々と意見を交わし、計画の精度を高めていった。


 魔王城の見取り、戦力の配置は──?

 側近である四魔将の所在は──?

 撤退路の確保は──?


 これまで積み上げてきた情報を照らし合わせ、その疑問に解を出す。そして、その答えを元に、新たな疑問が生まれては、また議論が重ねられた。

 『魔王討伐』という、絶対に誤りがあってはならない難題に、全員が持てる力のすべてで挑んだ。


 やがて──夜が白み始める頃、ようやく計画は完成した。

 朝日の眩しい光が天幕を透かして差し込む中、ヒースは立ち上がり、皆を見渡した。


「決行は三日後。千年戦争を終わらせるため──終わりの始まりのため──私たちは、まず魔王を討つ」

 

 誰もが無言で頷いた。迷いも恐れも微塵もない。ただ、千年の戦いに幕を引く者たちの覚悟だけがあった。

 ヒースの指令を受け、隊長たちは一人、また一人と席を立ち、自らの部隊へと戻っていく。

 足音が遠ざかり、静寂が戻った天幕に残されたのは、副官リンネ、参謀アルメリア、そしてヒースの三人だけだった。


 作戦に向けた残務整理を進めながら、ふとアルメリアが手を止め呟く。

「──この戦いで、どれほどの兵が犠牲になるのでしょうね……」


 リンネは一瞬だけ、刺すような痛みの表情を浮かべた。だがすぐに、振り払うように顔を上げ、毅然と諭した。

「アルメリア……、誰もが同じ想いです。ですから、参謀である貴女が、二度とそれを口にしてはいけない」


「……ごめんなさい」 アルメリアは、その哀れみを懺悔した。


 そんな二人のやり取りを、ヒースは何も言わず、ただ見守っていた。

 だが、その静かな佇まいとは裏腹に、彼女の胸の奥には、決して消えることのない復讐の煉獄が渦巻いていた。


 ──魔王だけでは足りはしない。魔族など、一匹残らず地上から消し去ってやりたい

 ──できることなら、あの森を焼いた人間たちも、あの場で全員殺してやりたかった

 ──千年のあいだ、我らの森を蹂躙し続けた報いを、同じ痛みで返してやりたい


 心の底で燃えるその黒い感情は、彼女の血であり、彼女の生きる理由そのものだった。

 だが──それが叶わぬことも、ヒースは誰より理解していた。


 ヒースが率いるエルフの軍は、千年の時をかけ鍛え上げた千人の兵『千の葉トゥーセンフリュド』と呼ばれる精鋭中の精鋭大隊。

 しかし、人間と魔族の軍は、双方ともに総軍数十万にものぼる。まともにやり合えばどうなるかは、火を見るよりも明らかだった。

 いかにエルフの兵が、千年かけて完成させたつわもの揃いだとしても、その圧倒的な兵力差を覆す術など、あるわけがなかった。


 だから──彼女は待っていた、時が満ちるのを。

 千年という、人の尺度では計り知れない途方もない年月をかけて、彼女たちはただひたすら準備を続けてきた。

 千年にわたり戦略を磨き上げ、千年にわたり戦術を積み重ね、理想を現実の戦場の型に仕上げていった。


 そして今──ようやく、千年の計が実を結ぶ約束の時が、訪れようとしていた。



 三日後──


”ヒース……こちら、リンネ。全軍、配置完了しました”

 魔王城を見下ろす高地。冷えた風の中で、ヒースの長い耳は高く立っていた。彼女は閉じていた瞼をゆっくりと上げると、静かに息を整える。

 そして――『千の葉』全隊員へと念話を開いた。


”──これより、魔王討伐作戦を開始する。以後、念話の使用は禁止する。これが……私からの最後の命令だ”

 短い沈黙が走る。ヒースはその刹那の静寂に、千年のすべてを押し込めた。


”敵を殺せ。お前は生きろ。そして──勝て”

 

 その言葉を引き金に、溜まっていた張りつめた気配が、堰を切ったように一気に動き出す。

 まず先陣を切ったのは、斥候隊長のカシオペだった。

 彼女が掴んだのは、獣魔たちが非常時に使う魔王城へ通じる隠し通路の情報だった。しかし、その抜け道は狭く、千人の進軍には適さない。のんびりと順次送り込もうものなら、敵に発見され、通路内で挟撃される可能性が高いと考えられた。


 そのため、まず第一潜入隊としてカシオペたち斥候と、それに続いて、ドリアス率いる剣兵たち混合部隊が突入していった。彼女たちの任務は、第一に進入路の確保、そして敵の急襲と陽動だった。

 重要な任務を帯びて、自ら死地へと飛び込むように、第一陣は闇の中へと駆けていった。


 しばらくして、魔王城から黒煙が立ち昇り、悲鳴と怒号が重なって響き始めた。

 魔王城に幾つもの影が駆け回り、乱舞する。その影たちまでもが、どこで何が起きているのか分からず、混乱してるようだった。

 そして、その混沌こそが、別の仕掛けを動かす合図となった。


 闇を裂き、城の外から、シレネの257の弓兵が一斉に火矢を放った。火矢は雨のように降り注ぎ、赤い尾を引いて城内のあらゆる場所に突き刺さる。

 内外からの同時の奇襲に、魔王城の指揮系統は混乱し、命令は交錯した。


 混乱が加速する中、だがしかし、シレネたちの狙いは、それだけではなかった。


 火矢のあと、誰もが城内に注意を向ける中、城壁の上で見張り台に立つ魔物たちは、静かに一人、また一人と倒れていった。

 射抜かれた本人も気づかない、音のない魔法矢。その正確無比な射撃は、魔物の頭蓋を無慈悲に撃ち抜いていった。

 唯一、運よく後回しにされた魔物だけがその事態に気づき、そして、慌てて陰へ逃げ込み、身を潜める。

 

 確かにそれは、正しい判断だった。だが、動くこともできなくなった。


 一匹の魔物が、その状況に耐え切れず、痺れを切らして立ち上がった。しかしその瞬間、頭を魔矢が正確に撃ち抜いた。

 たった一本の、か細い射線が通れば終わり──その認識は、魔物たちを震え上がらせ、もはや誰も城壁に立とうとはしなかった。


 混乱する戦場に、届かぬ戦況の伝達──シレネの狙いは、魔王城の目と耳を潰すこと。

 そしてその働きは、魔族に原因すら掴ませぬまま、指揮系統を完全に麻痺させていた。


 そしてその頃、第二陣として、プルサチラ率いる魔法兵が突入を開始した。

 彼女たちが目指すのは、最終目標の魔王の間──それ以外には、何があっても目もくれるなと、厳命されている。


 『千の葉』の主力である彼女たちを、いかに無傷で魔王にぶつけるか。

 それこそが、今回の作戦における要であり、同時に、何を引き換えにしても果たさなければならない至上命令だった。


 彼女たちの足音は、作戦の核心を覆い隠す輪舞曲ロンドとなり、魔王の間へと繋がる細い道を、運命を占うように駆け抜けた。


 一方、混乱が続く城内にいるドリアスたちには、危機が迫っていた。


 彼女たちが制圧した中央広場を繋ぐ回廊に、金色の尾を引く残光が走った。

 ものすごい勢いで迫り来るそれは、四魔将の一人──『金色のジレン』。その名に違わぬ輝きをまとった男は、その勢いのまま、何人もの剣兵をなぎ倒して現れた。


「何かと思えば……くそエルフどもが、何しに来た?」

 ドリアスたちの決心を嘲笑うような無関心さで、ジレンはドリアスを睨みつけた。


 ドリアスは舌打ちし、剣を構える。

(……金色のジレン、最悪の相手が来やがった。

でもな、あの理屈馬鹿プルサチラのために、ここを通す訳にはいかないんだよ)

 何も語らず、ただ、その刃の先に殺気を込める。


「ホッ! エルフごときの剣で、俺に勝てる気でいやがるのか?」

 ジレンはその殺意を、鼻で笑い飛ばした。

 四魔将の一人、獣魔将軍ジレンは、魔王軍随一の膂力を誇る猛者である。たとえドリアスがエルフきっての剣士であろうと、種としての限界までは超えられない。

 力比べでどちらが勝るか、その答えはジレンの一笑を止めうるものではなかった。


 数名の剣兵たちが、ドリアスの両脇へと流れるように展開し、援護するように陣形を整えた。

 しかし、その動きすら無駄であると言わんばかりに、ジレンからは嗤いが漏れ続ける。

「……面白ぇな。この人数で、俺を止められるとでも?」


 黄金の毛並みに覆われた巨体が、わずかに前傾し、獣の本能と殺気が奔る。

 ドリアスはその圧に一歩も退かず、逆に、わずかずつ間合いを詰めていった。

 そして、間合いと殺意が交差し、火花が散ったその刹那──


 陰に潜んだカシオペと斥候たちが、ジレンの背後から、音も無く襲い掛かった。


 確かに、それは完全に隙を突いた死角からの一撃だった──だが。

 ジレンの黄金に輝く尻尾がしなり、雷光のごとき速度で、カシオペたちを一斉に薙ぎ払った。

 斥候たちの身体が弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。カシオペも咄嗟に受け流そうとしたが、衝撃で地を転がされた。


「ハハッ! バレバレだよ。ここがお前らの大好きな森だったら、上手くいったかもなぁ!」

 肩を震わせて笑うジレンの余裕は、揺らぐどころか増すだけだった。


 その嗤いが響く中、カシオペは気取られぬようにドリアスに視線を送る。そして、ドリアスもまたそれに応えた。

 ドリアスたちは、ジレンを倒す必要はない。ただ、プルサチラが魔王を倒すまで、絶対に魔王の間に立ち入らせさえしなければ、それだけで良いのだ。

 殺意の裏に隠されたその覚悟を嘲るジレンは、彼女たちに唯一無二の付け入る隙を与えていることに、まだ気づいていなかった。


 そして──彼女たちの犠牲を乗り越えて、プルサチラたち魔法兵は、ついに魔王の間に足を踏み入れた。


 だが、玉座に悠然と腰を下ろす魔王スヴァルトは、彼女たちを前にしても、外からどれだけの騒音が漏れ聞こえようと、立ち上がる素振りさえ見せなかった。

 その深淵の黒に染まる瞳のみが、侵入者を逃さぬように捉えている。


 プルサチラたちは、魔王へ向けて杖を構えた。まだ、呪文詠唱を始めてはいなかった。──が。


 構えひとつ見せぬまま、魔王から放たれた無言の一撃が、無礼者を排除した。

 放たれた衝撃は凄まじく、防壁を展開し遅れた魔法兵の数名が、悲鳴すらあげる暇もなく宙へ弾き飛ばされた。


 プルサチラは振り返らない。

 仲間の倒れる音も、血の匂いも、切り捨てるように無視し、ただ魔王のみを冷徹に見据えていた。


 向けられたその視線に、ようやく玉座のスヴァルトはゆっくりと口角を上げ、初めて言葉を紡いだ。

「──そこのエルフ。連れて来たそのゴミ共を、片付けろ。褒美に、お前は逃がしてやる」

 静まり返った玉座の間に、魔王の声だけが重く響いた。

 それは挑発ですらなく、魔の頂点に君臨する王だけが持つ、無慈悲な威圧だった。


 プルサチラは動かない。

 間を置かず、先ほどと同じ衝撃波が彼女を襲う。しかし──その先読みされた攻撃に、彼女は自分の魔法を重ねた。


 一度見た衝撃魔法を縫うように、異なる波長の衝撃波が魔王に襲い掛かる。

 だが、魔王に到達する直前で、その体に届くことすらなく、衝撃波は破砕された。


 それを合図に、プルサチラと魔法兵たちは一斉に動き出す。陣形を作り、連携して、詠唱を開始する。

 魔王の間に魔力が満ちる。プルサチラを中心に光の紋様を床に描き出す。魔王城を揺るがすほどの魔力の奔流が、ひとつの魔法へと収束していった。


 その全てを、魔王スヴァルトは邪魔するでもなく、ただ漫然と眺めている。


 次の瞬間、プルサチラの杖から究極魔法が放たれた。

 それは、千年に渡り研鑽を重ねた叡智と技術の結晶。『千の葉』が魔王討伐の切り札として温存した、最大最高の破壊の魔法だった。


 魔王スヴァルトは、初めて玉座からわずかに身を起こし、片手をかざした。

 その手に、凄まじい轟音とともに光線が直撃する。魔王の間の空気が震え、玉座が軋む。

 その光撃は止む気配を見せず、やがて魔王の腕にもわずかな震えが走った。


 スヴァルトは低く呟いた。

 吐息ともつかぬ呪文が響いた瞬間、かざした掌から闇の波動が広がる。その闇は光にまとわりつくように浸食し、瞬く間にその全てを呑み込んだ。


 次の瞬間、魔王の間は嘘のように静まり返る。静寂が戻った玉座から、魔王の声だけが鮮明に響く。

「──中々、面白い。だが……軽い。これが、全力か?」


 彼女たちの全力は、魔王の片手にわずかな熱傷を刻んだだけだった。


 プルサチラは目を逸らさない。

 その彼女の瞳には、ひと欠片の絶望も宿っていなかった。彼女に集う部下たちもまた、それは同じだった。


 千年の叡智を片手で握り潰されようと、なおも彼女たちが諦めないのはなぜか──?

 そこには明確な答えがあった。

 その答えとは、すでにすべての駒は揃い、そして──”時が満ちたから”だった。


 プルサチラは再び杖を構える。魔王は、呆れた目でその動きを眺めていた。

 だが、次の攻撃が始まるより早く──魔王の間の空間に歪みが生じた。


 重力が一瞬だけ逆転したかのように光が曲がり、床石の紋様が波紋のように揺らいだ。

 魔王スヴァルトはその異変を察知し、わずかに眉をひそめる。

 その視線の先で、空間が割れた。広間の四隅で、まるで刃で切り裂いたかのような亀裂が走ると、裂け目は円環へと形を変えた。

 それは、転送ゲートの顕現だった。


 そして、そこから姿を現したのは、プルサチラの援軍──『千の葉』の主力、総勢400を超える魔法兵だった。



「──勝ち、ましたね」

 転送ゲートを通じて魔法兵を送り届けたアルメリアは、張りつめていた緊張を解くように、リンネへ報告した。

「ええ、そうね」

 参謀であるにもかかわらず、確定していない勝利を口にする彼女を、しかしリンネは咎めなかった。


 魔王を孤立させたこと――

 切り札の究極魔法で、魔王に傷を負わせたこと──

 魔王の間と、本陣を繋ぐ転送ゲートが開くまで、主力戦力を温存できたこと――


 勝敗を決定づける三つの条件がすべて満たされた今、『千の葉』に”勝つ”以外の選択はなかった。


 時を待たず、魔王城が大きく揺れた。闇の大地を貫く振動は、現実が理想に追いついたことを示す狼煙となった。


「行きましょうか──」 ヒースは二人へ声をかけると、ゲートの中へ身を投じる。

 魔王軍の統制は、絶対の力をもつ魔王の恐怖による支配によって保たれていた。魔王が倒れた今、その統制は必然的に瓦解する。主を失った軍勢に、報復のために命を賭す者など皆無だった。

 もはや、戦う理由は双方のどこにも残されてはいなかった。


 敵と仲間の屍を踏み越えて、ヒースは魔王の玉座から、全部隊に告げた。

”──これにて、魔王討伐作戦を終了する”


 彼女は瞼をゆっくりと閉じ、静かに息を整える。束の間、目を見開くと、新たに力強く宣言した。

”もう我々は止まらない。魔王の死が伝わる前に、次なる作戦へ移行する──”

 その刹那の静寂に、明日のすべてを押し込めた。


”これより──『勇者暗殺作戦』を開始する”

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