第4章:殺戮の方程式
証言者:元合衆国陸軍歩兵 トーマス・バウアー(88歳)
(映像:自宅のポーチでロッキングチェアに揺られる老人。穏やかな顔つきだが、その目は遠くを見ている)
「俺たちが戦場に行った時、恐怖はなかったよ。あるのは使命感だけだ。
『ウサギの国を助けなきゃいけない』。本気でそう思っていたんだから、今考えると笑っちゃうよな。
でもね、一番の理由は……復讐だよ。
俺たちはみんな、映画館であの『アンソン・ラビット』が泣いているのを見ていた。狼たちが何をしたかを知っていた。
だから、引き金を引く時はこう思ったもんさ。『これは殺しじゃない、害獣駆除だ』ってね」
(映像:戦時中のニュース映画。笑顔で手を振って出征する若者たち)
「メアリー・スー? ああ、彼女は女神だったよ。俺たちに『殺すための正当な理由』をくれたんだから」
*
統一歴一九二六年晩冬 スー・スタジオ 社長室
部屋の空気は、澱んでいた。
窓の外では、雪が降っている。平和なこの街の雪だ。
だが、メアリー・スーの視線は、机の上に置かれた「ボロボロの紙切れ」に釘付けになっていた。
それは、合衆国国防省から届いた通知書だった。
日付は『一九二五年五月二十四日』。
もう一年半も前の紙だ。
幾度も読み返し、幾度も握りしめ、そして幾度も涙を落としたせいで、紙面は黄ばみ、インクは滲み、端は擦り切れていた。
『アンソン・スー大佐。名誉の戦死』
「……遅い」
メアリーは、ガリッ、と自身の親指の爪を噛んだ。
一年半。
彼女は戦ってきた。ペンとフィルムで。
『狼の教育』は成功した。世界中の人々が、帝国の人間を「害獣」だと認識してくれるようになった。
子供たちは狼を憎み、若者たちは銃を取った。
けれど、まだ終わらない。
東の空からは、毎日のように絶望的なニュースが届く。
前線は膠着し、
帝国の魔導師たち――特に『ラインの悪魔』は、依然として空を飛び回り、嘲笑うかのように正義の軍隊を蹂躙している。
「みんな怒ってくれているのに。みんな憎んでくれているのに」
メアリーの青い瞳が、暗い熱量で揺らめいた。
「憎む」だけでは足りないのだ。
「もっと、たくさん。もっと、一度に」
彼女は引き出しから、新しいスケッチブックを取り出した。
そこに描かれているのは、ウサギではない。
空を覆い尽くす、無機質な鉄の塊だ。
「お父さんを、みんなを助けるには、もう『勇気』だけじゃ足りないの。……『力』が必要だわ。狼の巣を、地図ごと消しゴムで消してしまうような、圧倒的な力が……」
彼女は受話器を取った。
ダイヤルを回す指に、迷いはなかった。
相手は、彼女のアニメーションの熱烈な支持者であり、軍部で「空軍独立」を画策している野心家、ヘンリー・アーチャー将軍だ。
「もしもし、将軍? メアリーです。ええ、次回作のご相談をしたいの。もっと『強い力』を見せていただけませんか? 狼の群れを……一匹残らず、一瞬で星にしてあげられるような」
*
数日後 合衆国陸軍航空隊基地 第3格納庫
凍てつくような風が吹き荒れる滑走路とは対照的に、格納庫の奥はオイルの重たい匂いと、熱気が沈殿していた。
「お待ちしておりました、ミス・スー」
巨大な機体の影から現れたのは、足を引きずったパイロットだった。
アレクサンドル・デ・サーバンツキー少佐。
ロシア系亡命者であり、過激な「戦略爆撃理論」の提唱者として軍部で異端視されている男だ。
だが、今の彼は、目の前の少女を見る目に、信仰に近い畏怖を宿していた。
「光栄です。まさか、あの『奇跡の声』を生み出した創造主にお会いできるとは」
アレクサンドルは知っていた。
スー・スタジオの作品が、録音機材もないのに「狼の声」を観客に聞かせているという事実を。
技術者である彼にとって、それは恐怖であり、同時に抗いがたい魅力だった。この少女は、不可能を可能にする「何か」を持っている。
「ごきげんよう、少佐」
メアリーは、案内された最新鋭の試作機を見上げた。
しかし、すぐに興味を失ったように視線を落とした。
「……これだけ、ですか?」
そこにあったのは、既存の複葉機に毛が生えた程度の爆撃機だった。
これでは駄目だ。あのおぞましい帝国の魔導師たちには届かない。
「お気に召しませんか」
「ええ。小さいですわ。これじゃあ、巣を焼くのに何回往復すればいいのかしら」
「……その通りです」
アレクサンドルは、自嘲気味に笑った。
彼は懐から、一枚の
「軍の上層部は、私の理論を理解しない。『爆撃で戦争は終わらない』と言う。
だから予算も降りず、こんな玩具しか作れない。
だが……私の頭の中にはあるのです。
成層圏を飛び、敵の防空圏外から、都市ひとつを灰にできる『空の要塞』が」
彼は熱っぽく語った。
産業国家の戦争とは、騎士道ごっこではない。
敵の生産能力、兵站、生活基盤そのものを、数学的に破壊するプロセスである、と。
「……巣を、焼く」
メアリーの脳裏に、イメージが閃いた。
魔法という「個人の力」を、科学という「組織の量」でねじ伏せる唯一の解。
ちまちまと戦うのではなく、神の
「少佐」
メアリーは、アレクサンドルの瞳を真っ直ぐ見つめた。
彼女の瞳は、純粋な青い輝きを放っていた。
「その爆撃というのは……狼たちの巣を、全部焼いてしまうということですか?」
「その通りです」
「……そこには、子供の狼たちもいますか?」
アレクサンドルは一瞬、言葉に詰まった。
ここが、彼の理論が「悪魔の所業」として忌避される理由だ。
彼は覚悟を決めて答えた。
「……残念ながら。工場の隣には工員の家がある。爆弾は選別できません。非戦闘員の犠牲は出るでしょう。それは残酷なことですが、戦争を長引かせないための『必要悪』なのです」
アレクサンドルは、少女からの非難を覚悟して身構えた。
「非情だ」と罵られるか、「可哀想だ」と泣かれるか。
だが、返ってきたのは、そのどちらでもなかった。
「ふふっ」
メアリーは、鈴を転がすように笑ったのだ。
アレクサンドルの背筋に、冷たいものが走った。
「どうして『悪』なのですか、少佐?」
メアリーは不思議そうに、本当に理解できないという顔で彼を見つめた。
「必要悪だなんて、そんな悲しい顔をしないでください。
だって、悪い狼の子供は、大きくなったら悪い狼になるのでしょう?
だったら、今のうちに神様の元へ送ってあげるのは、ちっとも残酷じゃありませんわ」
「……な」
アレクサンドルの思考が停止した。
彼は「仕方なく殺す」と言った。だが、目の前の少女は「殺すことは救済だ」と言っている。
彼女の論理には、罪悪感が入り込む隙間が1テンスも存在しない。
完全なる善意による、完璧な虐殺の肯定。
メアリーはアレクサンドルの手を両手で包み込んだ。
その手は柔らかく、温かかったが、アレクサンドルにはまるで死神の鎌のように感じられた。
「それは『掃除』です、少佐。
お部屋が汚れていたら、綺麗にするでしょう?
世界を綺麗にするのに、躊躇いなんていりません」
彼女の瞳は、どこまでも澄んだ青色だった。
そこには一点の曇りも、迷いも、罪悪感の欠片もない。
アレクサンドルは戦慄した。
自分は数万人の人間を焼き殺す計画書を書いた。その自覚はある。だからこそ苦悩している。
だが、この少女がいれば――
彼女が国民に「それは掃除だ」と言ってくれれば、我々は誰に気兼ねすることもなく、あの爆撃を実行できる。
(私は……悪魔にマッチ箱を渡そうとしているのか?)
しかし、もう後戻りはできなかった。彼自身、自分の理論を実現させたいという
「……わかりました、ミス・スー」
アレクサンドルは、魂を売った男の顔で言った。
「君が『正義』を保証してくれるなら、私は『力』を提供しよう。空を埋め尽くす銀色の翼を」
「ええ! 素晴らしいわ!」
メアリーは恍惚とした表情で空を見上げた。
「見えましたわ、エンディングが! 空を埋め尽くす銀色の翼! 地上を浄化する紅蓮の炎! ああ、なんて慈悲深い景色なんでしょう!」
メアリーは鞄からスケッチブックを取り出すと、猛烈な勢いで何かを書き留め始めた。
彼女の口元には、無邪気で、それゆえに底知れなく邪悪な笑みが張り付いている。
「
さらさらと、紙の上で鉛筆が走る。
そこに描かれたのは、悪魔的な笑みを浮かべる幼女の狼が、圧倒的な爆撃機の影に飲み込まれようとしている図だった。
「ありがとう、アレクサンドルおじさま! 私、最高に素敵な映画を作ってみせるわ!」
彼女は弾むような足取りで走り去っていった。
まるで、新しい遊園地のチケットを手に入れた子供のように。
残されたアレクサンドルは、脂汗の滲む額を拭うことも忘れ、呆然と立ち尽くしていた。
格納庫の天井近く、鉄骨の影が、巨大な翼のように彼を覆っていた。
その影は、やがて帝国の空を覆い尽くす死の影と、寸分違わず同じ形をしていた。
*
スー・スタジオ 深夜
スタジオに戻ったメアリーは、自室に閉じこもった。
憑かれたようにコンテを描き続ける。
タイトルは決まった。
『空の勝利(Victory from the Sky)』。
主役はウサギではない。
銀色の翼を持つ、無数の爆撃機だ。
そして、
錆びた銀色の毛並みを持つ、小生意気な幼女の狼――『ターニッシュ・ウルフ』。
お父さんを殺した憎き魔法使いたちの象徴だ。
「見ていてね、お父さん」
メアリーは、机の上の死亡通知書を撫でた。
「私が、正しい戦争の終わらせ方を教えてあげる。魔法なんてインチキは、正義の炎で全部燃やしてあげるから」
ペン先が紙を削る音が、深夜のスタジオに響く。
それは、帝国の破滅へのカウントダウンを刻む音だった。
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