短編集 ゴミ箱

バーニー

第1話 With Ghost

 幼い頃から、「意地汚い」と言われ続けて生きてきた。

 祖母に貰った飴を舐めていると、ぽろりと落としてしまったから、直ぐに拾い上げて口に放り込んだ。隣のおばさんが「大根をゴキブリに齧られてしまった」と言って捨てようとしたので、貰って食べた。タンポポが食えると知った時は、道端のものを摘んだ。中学生になった時、廃部になった園芸部の庭に勝手にハツカダイコンを植えて、腹が空いたら葉を千切って食べていた。

 虫も食べられるのではないか? と思い始めたのは、仲良しだった猫が、僕に土産として蝉を持ってきた時からだ。案の定美味かった。僕が蝉をバリバリと食い、「ありがとう」と彼女の頭を撫でると、会うたびに蛙やら飛蝗やらを献上してくれるようになった。

「お願い、本当にやめて。お願いだから」

 大きな精霊蝗虫を貰って、嬉しそうに食べる僕を見て、母は泣きそうな顔をしていた。

「意地汚いわ。どうしてそうなったの」

 そんな感覚、僕には無かった。食べられるものを食べずに捨てるなんて罪深いと思ったし、そもそも、人間は石鹸も、毎日シャワーを浴びる文化も無い頃から生きている。毒を飲めば死ぬのは当たり前だ。僕は植物図鑑によって毒の無いものを見極めているし、昆虫食は海外じゃ当たり前の文化だ。ちょっと見た目が悪いからって、青鷺の如く喚かれるなんてたまらない。そう簡単に死なないものだよ、人間は。それに僕は、確かに虫や雑草、爬虫類を食べるのが好きだったが、でも一番は母の料理だった。それは、どちらかと言えば好奇心を満たすための食事だった。

 ある夏の日、例の如く友達の猫に蜥蜴を貰ったから、僕は串刺しにして庭で焼いて食べていた。そんな僕を見た母は、膝から崩れ落ちると、うぉーうぉーと泣きだしてしまった。

「まるで化け物だよ。私の子じゃない」

「そうだね、頭がおかしいのかもしれないね」

 ある深夜に聞いた、母と父の会話だ。

「産むんじゃなかったわ。あんな子」

 以来、家族は僕のことを諦めたようだった。僕が庭で胡瓜や茄子を育てたり、BB弾で撃ち落とした雀を友達の猫にやったり、羽化したばかりの蝉を捕まえて素揚げにしているのを見ても、何も言わなくなった。

 一つ上の兄は、僕の趣味を小馬鹿にしているようだった。中学生のある日、校舎裏に呼び出されたかと思うと、兄貴とその仲間が、罠にかかった鼠を差し出し「食べろ」と言う。何でも食べるわけじゃない。特に鼠は。首を横に振ると、羽交い絞めにされ、口に押し込められた。仕方なく咀嚼し飲み込むと、彼らは歓声を上げて、それを写真に収めていた。

 その写真がどうしてかポストに投げ入れられていて、父は激怒。兄貴でも、僕を虐めた奴でもなく、僕に。「一生ゲテモノを食べていろ」と、顔の形が変わるくらい殴られた。

 そのうち、母は僕の分の飯を作らなくなった。僕にはゲテモノがお似合いだと言う。だから、本当に庭の作物、捕まえた虫で飢えを凌ぐことになった。でも流石に腹は満ちないから、植物園でアルバイトを始めた。

「素直に謝れば良かったの!」

 バイト代で買ったハンバーガーを食べる僕に、母は皿を投げつけてきた。それが割れて額を裂き、一生消えない傷となった。

 そんな家族は、十年前に交通事故で死んだ。

 あっけなかったよ。即死だと。確か、報を受けたのは、大学の研究室だった。実験が残っていたから、死体に会ったのは翌日。

 家族の死に悲しみはしなかったが、自己嫌悪には陥った。家族の死を見て涙一つ流さないなんて、もしかしたら自分は狂った人間なのかもしれないと。でもちっとも湧いてこなかったのだ、彼らへの情というやつが。

 家族の死の後も、しばらくは大学近くのアパートで研究に没頭した。でも部屋は狭く、研究を進める度、論文を執筆する度、書物や生物の標本が増えていく。五年と経たずに足の踏み場が無くなった。それでも倉庫を借りながら過ごし、十年目、近くの大学に転勤となったので、相続した家に戻ることにした。

「やめておいた方が良いですよ、先生」

 交際していた女の子に忠告を受けた。

「大丈夫だよ。そのうち新しく家を買う」

「そういうわけじゃなく」

「じゃあ、どういうわけだ」

 優しい口調で尋ねたつもりだったが、恋人は喉の奥に言葉を詰まらせた。

「縁起が悪いってか。死人の家だから」

 僕は彼女が思っていることを当ててみせた。

「いわくつき。だが僕は全く気にしないよ。幽霊なんてものは基本心の持ちようだ」

 恋人は最後まで心配していて、「一緒に住みましょう」とまで提案してきたが、お断りした。悪いことなんて起きるわけがないのだ。そもそもあいつらが死んだのは車の中だ。

 そうして、あの家に戻ったわけである。

 異変が起こったのは、初日からだった。

 馬鹿みたいな話である。僕が書斎で論文を執筆していると、傍に積み上げた本が突然崩れた。最初は自分の積み方が悪かったのだと思ったが、また崩れる。本棚の本も落ちる。僕が食事を摂ろうとキッチンに立つと、今度は棚の皿が崩れて割れてしまった。

 この時はまだ、僕は自分の不手際や、物理学的な事情があるのだと思い、知り合いの研究者に聞いてみようかとも思っていた。

 確信を持ったのは、一週間後のことだった。トイレに行こうと書斎を出ると、扉が何かに引っ掛かった。見ると、ネズミと蝉、蛇に蛙。彼らが「ゲテモノ」と呼んだそれが、廊下に転がっていた。蝉と蛇はまだ生きていた。

 僕が呆然とそれを見つめていると、書斎の方で凄い音がした。振り返ると、机に積んだ本がまた倒れていた。

 恐怖は覚えなかった。感心していた。腕を組んで白い壁に凭れかかり、「なるほどなあ」と笑う。つまり、嫌がらせってわけだ。

「呆れた。まだ成仏していなかったのか」

 そう、何もない方へと言葉を投げつける。すると、タッタッタ……と軽い足音が廊下の向こうへと行ってしまった。

「まだ残っているのは、父さんか、母さんか、兄貴か。誰でもいい。僕がこの程度の嫌がらせに屈すると思ったか。気分が悪い亡霊め」

 そう精いっぱい低くした声で言ってやった。

 翌日の朝。書斎の扉を開けると、やっぱり机の本が床に落ちていた。いつもの通り拾い上げようとしたのだが、気づく。部屋に紙吹雪が舞っていることに。はっとして視線を落とすと、一冊の本がズタズタに裂けていた。表紙を見ると、最近、大枚叩いて買った権威ある先生の論文集だった。

 畜生め、と思いながら、片付けようと手を伸ばす。その時、脳裏に父の顔が浮かんだ。

「なるほど、あいつが犯人だな」

 そう決めつける。父は、僕が進学することを良く思っていなかった。「金は出さない」と告げられたし、僕が引っ越しのため一時間部屋を空けた隙に、大切にしていた蔵書も標本も全て捨てられた。「お前は生物を学ぶよりも、人の心を学んだ方が良い」だとさ。

「畜生め。だから馬鹿になるんだよ」

 あの人は暴力に訴える事が多かった。よく殴られた。今は殴る拳が無いからこうやっているのだ。くだらない。僕はズタズタになった本の、読める部分だけを熟読し、後はナイロン袋に包んで物置小屋に放り込んだ。

 それから、落とされそうな場所に本は置かなくなった。そうすると、今度は筆記具やキッチンの食器に攻撃されるようになった。その度に、僕は舌打ちをするのだった。

 一週間が経った。

 その日は執筆を進める気にならなかったから、近くの用水路に向かい、手作りの罠で泥鰌を捕まえた。計三匹。何も考えてなさそうな目が愛おしかった。それと同時に、太らせて泥鰌汁を作れば美味いのではないかと思い、早速水槽の準備を始めた。植木鉢を手に入れるべく荒れ放題の庭に出る。その時、家の前に宅配便のトラックが停まるのが見えた。

「お届け物でーす」

 僕は門扉まで向かい、サインを書いて、箱を受け取る。リビングに戻ってから開けると、入っていたのは上等な巣蜜だった。

 一か月前、研究の関係でとある養蜂場を訪れた。礼として珍しい茶葉を送ったのだが、これはそのお返しらしい。添えられていた手紙に「食パンやクラッカーと共に」とあったので、僕は早速近くのスーパーへと買いに行った。ついでに生活用品を買って戻って愕然。泥鰌を入れていたバケツがひっくり返り、リビングは水浸しだったのだ。

 泥鰌は丈夫な生き物だ。まだ生きているだろうと、床に這いつくばり探したのだが、見つからない。それだけじゃない。巣蜜も消えていた。冷蔵庫に入れた記憶など無かった。

 不思議な気持ちで、でも腹は減ったから買ってきたパンとクラッカーを貪った。

 失くしものが見つかったのは一週間後のことだ。えらく蠅が多いと思い、キッチンの棚を開けると、あった。巣蜜は無事だったが、泥鰌はぐずぐずに腐って臭気を放っていた。

「母さんかな、多分」

 母さんが僕に飯を作らなくなってから、僕は勝手に冷蔵庫を漁って、残り物を貪っていた。それが気に入らなかったのだろう、母はよく食べ物を隠した。台を使わないと手が届かない棚や、鍵が無いと開かない床下収納に。僕が台所に近づくだけでも発狂する。包丁を持って追いかけられた日もあった。最初はムキになって、隠されたそれを探していたが、段々と阿保らしくなって止めた。

「あんたのご飯、僕は好きだったのにな」

 僕は虫を食べるのも道端の草を食べるのも好きだったが、やっぱり一番は母の手料理だった。もう、味は忘れてしまったが。

 一か月が経った。

 ベッドで眠っていると、突然頬がくすぐったくなった。這うそれを摘まみ上げると、ゴキブリだった。驚きはしない。ついにうちにも出てきたか。せっかくなので捕まえておいて、蟷螂の餌にでもしようと身体を起こす。

 気配がした。目を向けると、枕元で鼠や蝉、蛇に百足と、大量の生き物が蠢いていた。これには流石の僕も、心臓とともに跳びあがる。

 タッタッタ……と、誰かが部屋の外へと逃げていく足音がした。僕は廊下に飛び出し、「兄貴!」と叫ぶ。反応は無い。姿も無い。薄暗い廊下が続いているだけだった。僕は「くそが!」と吐き捨て、寝室に戻った。

 怒鳴ると腹が空いた。枕元には散乱した生き物たち。僕は生きている蝉を掴むと、口を開けてかぶりつこうとした。が、頭が唇に触れた所で止める。なんだかあいつらの思う壺のような気がして気に入らなかったのだ。結局、逃がした。死んでいたものは庭に埋めた。

「兄貴だろうなあ、犯人は」

 思い出すのは、高校生の頃のこと。

 庭で友達の猫と遊んでいると、兄貴がにやにやとしながら出てきた。手にはエアガン。あっと思った瞬間、兄貴は引き金を引いていた。発射された弾が猫に直撃する。酷い音がした。彼女はキャンと跳び上がり、庭の外へと逃げてしまった。

 兄貴は腹を抱えて笑い「面白いだろう?」と、僕に同調を求めてきた。でも、僕は立ち尽くし、何も返すことができなかった。

 それ以来、友達の猫は僕の前に姿を現さなくなった。兄貴のせいだ。

 きっと、蝉やら蛇やらを連れてくるのは、兄貴だろう。あの人はよく生き物を弄んだ。枝で串刺しにした飛蝗を振り回したり、皮を剥いだ蛇を投げつけたり。

 僕は、兄貴が生き物を粗雑に扱うことが気に入らなかった。彼に殺された生き物は、庭に埋めたり、食べられるものは食べたりした。

 一度言った事がある、「何がしたいんだ」と。あの日、兄貴は蛙の口に爆竹をねじ込んで爆発させるのを楽しんでいた。食べるわけでも、愛でるわけでもない、他の生き物の餌にするわけでも。それをして何になるのだと。

「お前と変わらないだろ」

 兄貴は面白くなさそうな顔をして、僕に既に死んだ蛙を投げつけてきた。

 変わらない、か。確かにそうだな。僕だって小腹が空けば飛蝗を食べたし、友達の猫のために小鳥を撃ち落としたりもした。でも僕は、兄貴と一緒にはなりたくなかった。兄貴のことが大嫌いだった。どうして兄貴は、あの好奇心を、虐げることに使ったのだろうと。

 二か月が経った。

「先生のこと、両親に紹介したいんです」

 寝不足の目を研究室の天井に向けていると、恋人がそう言った。僕は「ああ、うん」と気の抜けた返事をする。彼女は嬉しそうに頷いて、ディナーの予約を入れていた。

「先生、お父さんは堅い人だからしっかりね。今日だけは、イヌビユの天ぷらが美味い季節だとか、研究室の屋根にできた蜂の巣を駆除して幼虫を食べた話はしないでくださいね」

「端からするつもりはなかったが、そこまで釘を刺さなくても。顔を合わせるだけだろう」

「そんなわけないじゃないですか。お父さんが反対したら、一緒になれないんですからね」

「一緒にだと。一緒に何をするんだ」

 脳がふやけていたのだ。連日起こるポルターガイスト。正体は母と父と兄貴だ。取るに足らない。だから何が起こっても無視をしてやる。生き物が転がっていても、淡々と片付ける。足音がしても絶対に目で追わない。その意固地な姿勢で見えない者たちと戦う日々が、逆に僕の心を鑢にかけていたのだった。

「何を言っているんです。私たち、いつか結婚するんですから。約束したじゃないですか」

 そこで初めて、僕は我に返ったわけである。そうだな、恋人の両親に会うってことは、つまりそう言うことだ。「うん」と頷いた以上は了承だ。だが、まるで罠に掛けられたような気分で、僕は叫びたくなった。

 言い出したことを無かったことにできないし、僕は彼女が嫌いじゃない。その夜は着替え、手を繋ぎながら、美味いレストランへと向かった。当然覚悟など決まっていなかった。

 僕が出会ったのは、絵にかいたような気難しい顔をした父と、お上品さをこれでもかと貼り付けた母だった。

 この食事会の間、お父さんは一言も発しなかった。目で「娘はやらない」と訴えかけてきている。絶えず流れ込まんとする陰鬱な空気を押しのけるかのように、お母さんは精一杯高くした声で僕へと質問をぶつけきた。

 お仕事は何をしているの? どんな論文を書いたの? 趣味はどんなのがあるの? 娘とは何をきっかけに出会ったの? って。

 何と答えたかはよく憶えていない。でも、それなりに上手くいっていたのだと思う。だって、少なくともお母さんは笑顔だった。あの質問が投げかけられるまでは。

「ご両親は、今はどちらに」

「ああ、家にいます」

「ご実家で暮らしてらっしゃるのね。しっかり親孝行してあげてちょうだいね」

 瞬間、袖を引っ張られた。見ると、恋人が不安そうな顔で僕を見つめている。

「あの、先生の両親って亡くなったはずじゃ」

「いや、死んでない。死んだが、しつこくしがみついているんだ。亡霊になってな」

「はあ?」

 恋人は声を裏返した後、全てを察したかのような顔をした。息を吸い込み、話題を変えようと口を開く。が、夢の世界にいるが如く、ふわふわした僕の脳は、譫言を零していた。

「毎日のように虫や爬虫類、鼠を連れてくる。今は蟋蟀の季節だな。揚げると美味いんだが、あいつらが持ってきたものは食いたくない」

 恋人が、僕の袖を引っ張った。

「今年は一度も蝉を食えなかった。羽化したものを捕まえたんだが、怖くなって止めた。あいつらに油をひっくり返されるかもと」

「先生」

 また袖を引っ張られる。

「あいつらの相手をするのも気が滅入るから、今度、泊りがけで野草狩りにでも出かけようかと思っている。ヨモギを――」

「先生!」

 恋人が叫ぶ。まるで深海から上がったかのように、はっと顔を上げた。僕の前にいたのは、狂人を見るような顔をしたお父さん。お母さんは笑っていたが、張り付いていたのは苦笑というやつだった。

 恋人は、裏切られたような、泣きそうな顔をして、僕の腕を掴んでいた。後のことはよく憶えていない。だが、お母さんに言われた「あなたはとても、ユニークな方なのね」という言葉が、野山を駆け回った後に、いつの間にか足にこびりついた血液のように、僕の頭上を巡っていた。

 帰り道、僕は恋人に謝罪した。

 恋人は苦笑を浮かべながらも、僕に身を寄せて、冷えた手を握ってきた。

「むしろ安心しました。先生らしいと」

「幻滅だろう。嫌なら離れても構わない」

 彼女は、首を横に振った。

「好きな人の前からは離れないものですよ」

 そうだろうか。でもあいつらは、大嫌いな僕に付き纏っているのだが。

「先生はそのままで構いません。いざとなれば、私の親なんて、捨てれば良いんです」

「やめなさい。家族は大切にするものだ」

 僕は自分の手を乾いた目で見つめた後、髪をかき上げ、頭皮をガリガリと掻いた。

「僕は、まともな人間になりたいんだよ」

 ふらつきながら家に帰った。

 まただ。廊下に生き物が散乱していた。蠢いているのは蟋蟀や螽斯。ゴキブリや蚯蚓もいた。なんとなく手を伸ばし、蟋蟀を摘まんだ。キリリとした黒い目と、僕の目が合う。しばらく見つめ合っていると、僕の頭の中でブツンと、何かが切れる音がした。

 瞬間、僕は腕を振るっていた。蟋蟀は吹き飛ばされ、壁に当たって落ちる。

「いい加減にしてくれ」

 泣き言が僕の口から零れ落ちた。それを砕くが如く、ダンッ! と、家全体が揺れるような勢いで、僕は床を踏みしめた。

「何なんだ! 何がしたい! 僕の本を裂いて、落として、食べ物を隠して、ゲテモノ連れてきて、お前たちは何がしたいんだ!」

 喉が割れるようだった。一息に言い切った時、世界が歪んだ。踏みしめた床が柔らかくなったようだった。僕は膝から崩れ落ち、手をついた。喉の奥に熱いものがこみ上げる。瞬間、夕食を胃酸とともに吐き出していた。

 充血した目を、何もない方へと向ける。

「オカシイ人間で、ごめんなさい」

 嫌な目を向けられたのは、別に家族だけじゃない。小学生の時、校庭のダンゴムシを食べたことをきっかけに虐められたし、中学ではロッカーでもやしを育てていたことがバレて気味悪がられた。高校の時も同じように。自分の好きなことをしていればいい。そう思って進んできたが、他人からすれば僕はまごうことなき狂人だった。そして、きっと僕には、家族の期待に応える義務があったのだろう。普通の子供でありますようにと。

「あんたたちと同じになれなくて、ごめん」

 嵐が去った後のように、静寂が訪れた。キーンと耳鳴り。空気さえも止まり、僕は床に広がった自分の吐瀉物を見つめていた。

 トテトテ……と、足音がした。顔を上げたが、誰もいない。でも、足音は目と鼻の先まで近づいていた。見えはしないけれど、想像できた。きっと、あの時と同じゴミを見るような目をしているのだ。僕を恨んでいる目だ。

 僕は処刑を待つ罪人のように、首を差し出した。そして、彼らの返事を待った。

 その時だった。

「にゃーん」

 そう聴こえた。思ってもみなかった声に、僕は顔を上げ、丸くなった目を向ける。当然、何もいない。だが、わずか三十センチ先から、また「にゃーん」と聴こえた。

「えっ、え、えっ、え……、え? ええ?」

 その声は、母の金切り声でもなく、父の野太い声でも、兄貴の小馬鹿にしたような声でもない。窓際で揺れる風鈴のような。

「ああ、なるほど」

 声の正体に気づいた僕は身を屈め、飴細工に触れるかのように、何もないところへと手を伸ばしていた。指は空を切る。だがその瞬間、「にゃーん」と鳴き声。日溜りのような、柔らかな熱が迫って来て、僕の手に触れた。

 何もない。でも確かに熱がある。これは家族の亡霊ではない。こんなに暖かいはずない。

 端から彼らはこの家に留まっていなかった。

「猫だ」

 そこにいたのは、猫の亡霊だった。見えないけどわかる。既知の温もり。途端に、焼けるように熱かった身体が、きゅうっと冷えていく。力が抜け、尻もちをついた。

 僕はこの猫の幽霊を知っていた。

 子供の頃、僕には野良猫の友達がいた。キジトラ。見たところ雌だったな。出会ったのは近くの公園で、僕が昆虫採集に興じていると、いつからか足元をうろつく様になっていた。僕が虫を食べることに興味を持ったのは彼女のおかげだ。彼女はよく、虫や爬虫類を持ってきてくれた。僕がそれを食しているのを見て、満足そうな鳴き声を上げるのだ。

 ある真冬の日に、父と喧嘩して、家を放り出されたことがある。薄着のまま地べたに座り込んでいると、彼女が子を呼ぶような鳴き声をあげて駆けてきて。僕は彼女を抱き締めたまま、凍り付くような夜を明かした。

 彼女との別れは、兄貴のエアガンによる。また会いたいとは思っていたが、進学の関係でその余裕が無かったし、家族が三人死んで、帰る余裕もなくて、考えたことなかった。薄情なことをした。でも、思い至ったとしてもきっと探すことはしなかっただろう。猫の寿命は知れている。僕は諦めていたのだ。

 はあーっと、ため息が漏れる。

「なんだ、待っていてくれたのか」

 猫は懐いた相手の気を引くために、物を落としたり、隠したりすることがある。子に狩りを教えるように、または親愛の証として、虫や爬虫類、魚などをお土産として持ってくる。四か月もの間、僕を悩ませた怪奇現象は、悪意に満ちた亡霊による嫌がらせなのではなく、野良猫の無垢さそのもの。

 最初から悪霊などいなかった。僕はずっと愛を受けていたのに、気づいてやれなかった。

 今度は両腕を広げてみる。熱が動いて、僕の胸に飛び込んで来た。僕は赤子を抱えるようにすると、壁に凭れて座った。

「ごめん、嬉しかったんだね。僕にお土産を持って来てくれたんだ。気づいてもらおうと」

 脇には、彼女が持ってきてくれたお土産の数々。僕は蟋蟀を掴んで、口の中に放り込んでいた。くしゃっと噛み潰す。味の無いエビを食っているようだ。心を込めて咀嚼する。口の中で羽と肢が散る。喉の奥に張り付く。柔らかいものを噛み潰した瞬間、香ばしくも、どこかクリーミーな味が口の中一杯に広がった。そして土の匂いが鼻を貫く。飲み込まないうちから、僕はゴキブリを掴み、口に放り込んだ。蚯蚓を摘まみ、啜った。蜘蛛も、蜥蜴だって、全部口に押し込み、バリバリと奥歯で噛みしめた。強烈な臭気が、油と水のように口の中で巡っていた。

 喉を鳴らして飲み込む。明らかに食べてはいけないものが食道を流れる感覚。鋭利な部分が引っ掛かって、胸に熱を宿す。何とか潜り抜けて胃の底に落ちた瞬間、胃粘膜が驚いて、大きくうねった。

 逆流してくる。咄嗟に口を押さえ飲み込む。でもちょっとだけ、指の隙間から漏れた。

 床に少しだけ滴る、ゴキブリの肢が混じったゲロ。僕は汚れた口と目を拭い、その手で彼女を撫でた。

「ありがとう。ごちそうさま」

 胸の中で、「にゃあ」と鳴き声がした。

 数週間後。春に備えて荒れ放題の庭を片付けることにした。すると、積み上がった枯れ草の下から、猫の白骨体が見つかった。

 僕はそれを埋葬することにした。周りを花で飾り、墓標まで立てて祈りを捧げたのだが、足元で「にゃあ」と鳴き声がした。

 思わず笑う。猫には理解できないのだろうな、祈りというものが。いや、嫌いな者の前からは去るし、好きな者とはずっと一緒にいたいと思うものだ。そんなものだ。

 足元に熱を感じながら、僕は土を耕す。外は割れるような寒さだったが、頬を絶えず汗が流れ落ち、思わず空を仰いだ。

 引っ越しはまだ考えていない。

        了

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