第二章:赤い蝶の痕跡

「これが、患者の記録だ」


 研究所の最深部。分厚い金属扉が閉じる音が、過去への道を断ち切るように響いた。

 スクリーンに、男性患者のカルテが映し出される。


「カルテ番号AB-1092。年齢31歳。職業:元研究員」


 ハルの声は平坦だった。でも、私の心臓は激しく打っていた。


「十年前、事故の現場にいた研究員の一人だ」


 息が止まる。


「量子共鳴事故ですね」


 慎重に言葉を選ぶ。それは、私が知っていると明かしてはならない言葉だった。


「ああ。君も知っているのか」


 ハルが少し驚いたように私を見た。


「あの事故は、機密性の高い出来事だったはずだが」


「基礎研修で少し耳にしました」


 咄嗟の嘘。動揺を悟られないよう、視線をスクリーンに戻す。


「彼に何が起きたのですか?」


「事故の後、彼はすべてを喪失した」


 ハルの声が沈む。


「名も、記憶も、自分が何者なのかも」


 スクリーンが切り替わる。複雑な脳波パターンの下に、患者の発言記録が並んでいた。


『あの蝶が、僕の”想い”を喰ったんだ』


「蝶……?」


 思わず呟いた。


「これは彼だけの幻覚ではない」


 ハルの声が冷たく響く。


「過去五名全員が、同じ”赤い蝶”を証言している」


 そして——


「全員が十年前の事故に関わっていた」


 心臓が跳ね上がった。研究所の温度制御は完璧なのに、突然の寒気が背筋を走る。


「なぜ私にこの調査を?」


「君は感情ノイズの抑制に優れている」


 彼の理由は完璧に論理的だった。でも私の内側では、嵐が吹き荒れていた。


 冷静なんかじゃない。兄の死を、忘れたことなんて一度もないのに。


「彼に会わせてください」


「会うのか?」


 ハルは眉を上げた。


「患者の多くは、意味のある会話が困難だ」


「それでも、直接観察する価値はあるかと」


 数秒の沈黙。やがて頷きが返ってきた。


「リカバリールーム3へ行こう」


***


 リカバリールームは、研究所の東に位置していた。消毒液の匂いが漂う白い廊下。ハルがカードキーでドアを開ける。


「ここだ」


 部屋の中は、やけに静かだった。白い病衣を着た男性が、窓の外を虚ろに見つめている。かつては研究員だったという彼は、今は影のように生気を失っていた。


「レイア、こちらは元研究員のAB-1092だ」


 ハルが紹介したが、男性は何の反応も示さなかった。


「少し話をしてみると良い。私は他の患者を確認してくる」


 ハルが部屋を出る。空気が少し軽くなった気がした。


「お話を伺えますか?」


 私は静かに近づき、彼の視界に入るよう立ち位置を調整した。反応はなかった。彼の視線は私ではなく、空中の何かを追っているようだった。


「——蝶だ」


 かすれた声が、突然空間を切り裂いた。


「赤い蝶ですか?」


「君にも……見えるのか……?」


 男の瞳に一瞬、光が戻った。


「あれが”彼”を消した。やつが、すべてを奪った……」


「“彼”とは?」


 息を止める。


「ショウ……ショウだよ。僕らの研究リーダーだった……」


 その名を聞いた瞬間——世界が止まった。兄だ。翔だ。手が震える。


「あいつは”感情”をデータにした。あの装置で……」


「装置?」


 声が裏返りそうになるのを、必死で堪える。


「量子共鳴装置さ」


 男は震える手で、虚空を掴むような仕草をした。


「感情を、記憶を、意識を……全部デジタル化できるって言ってた」


「でも、何かが……違った。共鳴が、深すぎたんだ」


 男は目を見開き、何かを思い出すように震えた。


「そして、あの蝶が現れた」


「赤く、紅く……」


 彼の手が、虚空を掴もうとした。


「飛んで、飛んで……そして、全部喰ったんだ」


 言葉が途切れる。彼は再び虚ろな表情に戻った。それ以上、彼から言葉を引き出すことはできなかった。


 頭の中で、疑問と記憶が渦を巻く。兄の死は本当に事故だったのか?それとも、“感情のデータ化”という禁断の実験の代償だったのか?ハルは知っているのだろうか。それとも、彼もまた被害者なのか。私の内側で、真実を求める声が轟き始めていた。


***


 自室に戻り、鍵のかかった引き出しを開けた。そこには、幼い頃から肌身離さず持っていたペンダント。いつ、誰からもらったのか記憶にない。蝶の形をした繊細な装飾。その中心に、赤い石が埋め込まれていた。月の光を受けて、それは血のように鮮やかに輝いていた。まるで、生きているかのように。


 私は思わず、手を引っ込めた。それは、患者の言う「赤い蝶」を思わせた。ペンダントを凝視する。赤い石が、微かに脈打っているように見えた。心臓と同じリズムで。いや——違う。これは、私の心臓じゃない。誰かの、記憶——


 窓の外には相変わらず星一つ見えなかった。しかし、心の中で決意が明るく灯り始めていた。真実への道は、まだ始まったばかりだった。そしてその先に、何が待っているのか——私はまだ知らない。

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兄を殺した国で、私は嘘をつく ラベンダー @Sui_2050

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