聞いてほしい

「悪いこと言わないから、ちょっとだけ来てよ」


 そう言って、悠太の手を引いた。

 屋上のドアを開けると、夏の風が熱を持って頬を撫でた。夕陽が眩しすぎて、目を細める。私はずっと、嘘をつくのが上手だった。

 笑顔も、優しさも、全部練習したもの。



 母に「いい子でいないと嫌われるよ」と言われ続けて、気づいたら完璧な仮面が顔に張りついていた。


 でも、あの仮面はもう重すぎて、息ができなかった。初めて悠太を見たのは図書室だった。


 いつも隅っこで本を抱えて、誰とも目を合わせない後輩。


 まるで私みたいだった。いや、私よりずっと純粋に「消えたい」と願ってるように見えた。だから声をかけた。


 試したかったんだ。

 この子なら、私の嘘を見抜かずに、ただそばにいてくれるんじゃないかって。


「悪いこと言わないから」私は何度もその言葉を使った。


 自分に言い聞かせる呪文みたいに。屋上で、私は少しずつ仮面を外していった。


 母のこと。父が出て行ったこと。薬を飲んだこと。


 全部、本当のこと。

 でも全部を話したわけじゃない。


 本当はもっと汚くて、醜くて、誰にも見せられない部分がまだ山ほどあった。悠太は黙って聞いてくれた。


 驚いたり、嫌ったり、説教したりしなかった。


 ただ、震える手で私の手を握り返してくれた。それが怖かった。


 こんなに優しくされたら、もう逃げられない。


「もし私が死にそうになったら、助けてくれる?」私は聞いた。


 本気で聞いたつもりなんて無かった。

 冗談で聞いたはずだった。

 それなのに悠太が「はい」と答えた瞬間、私は泣きそうになった。


 やっと見つけた、と思った。

 私を必要としてくれる人。


 私が壊れても、離れないって言ってくれる人。だから屋上に登った。


 飛び降りるつもりなんて、最初はなかった。

 ただ、悠太が来るか試したかった。


 来てくれたら、私にはまだ価値があるって思えるから。でも、フェンスに手をかけたとき、本気で足が震えた。

 怖い。


 死ぬのが怖い。

 でも生き続けるのも怖い。悠太が駆けつけてくれた。


 腕を掴まれたとき、私は初めて「生きたい」って思った。


 でも同時に、確信した。


 私はもう、この子を傷つけるだけだって。それから私は、少しだけ頑張った。


 笑顔を作って、学校に来て、普通のふりをした。


 でも夜になると、薬の瓶が私を呼ぶ。

「もういいよ」って。


「楽になれるよ」って。


 二度目に飲んだときは、もう迷わなかった。

 百錠以上。


 これで終われると思った。でもまた失敗した。目が覚めたとき、悠太がいた。


 毎日来てくれて、私の手を握ってくれていた。その手は温かくて、私は泣いた。


「私、死ねなかった」辛かった。

 死にたかった。

 でも、悠太の顔を見たら、もう死ねなくなった。だから逃げた。


 学校には戻らなかった。

 会うたびに、この子を壊してしまうと思ったから。最後に会ったのは、冬の駅だった。


 悠太を見つけた瞬間、胸が締めつけられた。

 やっぱりこの子だった。


 私を最後に救ってくれたのも、私が最後に救いたかったのも。私は笑った。


 本当の笑顔だったかもしれない。

 少なくとも、自分ではそう思った。


「悪いこと言わないから、最後に一つだけ聞いてくれる?」


「私のこと、忘れないでね」


 本当は逆だった。

 私が悠太を忘れたかった。


 忘れられれば、この罪悪感からも逃げられるのに。


 電車に乗ったとき、私はもう決めてた。家に帰って、クローゼットの奥からベルトを取り出した。


 首に巻いたとき、初めて落ち着いた。

 もう嘘をつかなくていい。


 最後に、悠太に手紙を渡していた。


『ありがとう。本当に、君に出会えて良かった。悪いこと言わないから、私のこと、恨まないでね。私は、幸せだったよ。最後に、君がいてくれたから』


 全部嘘だった。

 幸せなんかじゃなかった。

 最後まで救われなかった。


 ただ、悠太を巻き込むのをやめられたことだけが、せめてもの救いだった。ごめんね、悠太。


 私はやっぱり、悪い先輩だった。悪いこと言わないからって、

 君をこんなに傷つけて、ごめん。


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悪いこと言わないから ゆずリンゴ @katuhimemisawa

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