保健室の歌い手は、完璧な優等生ボカロPの「歪み」を聴き逃さない〜私たちは0.9秒の残響の中で出会う〜【高解像度音響 × 秘密の共依存百合】
lilylibrary
第1章:共犯契約
第1話 0.9秒の残響、あるいは
(白音ゆい)
世界は、いつだって解像度が高すぎる。
保健室の白い天井。蛍光灯が発する五〇ヘルツのハムノイズが、頭蓋骨の裏側を微細な紙やすりで撫でている。
養護教諭が打つキーボードの打鍵音。エンターキーだけが他のキーより三デシベル大きく、しかも八分音符ひとつ分、リズムが突っ込んでいる。
遠くの廊下から響く運動部の掛け声。それは壁に反射して、無数の位相ズレを起こした泥のような周波数の
「……うるさい」
私はオーバーサイズのパーカーのフードを深く被り、ノイズキャンセリングのヘッドホンを耳に押し当てた。
スイッチを入れる。
ふ、と世界から空気が抜ける。
逆位相の波形がぶつかり合い、ノイズが相殺される瞬間。まるで深海に沈んだような、圧力のある静寂だけが残る。
この窒息しそうな静けさだけが、私――
私は「砂の耳」を持っている。
一度聴いた音を、砂粒のようなデータとして脳内に保存し、いつでも完全な形で再生できる呪いのような聴覚。
普通の人間が「メロディ」として認知するものを、私は「波形」として見る。
彼らが「感情」と呼ぶものを、私は「
だから、教室にはいられない。
あそこは、悪意と嘲笑と、無意味な雑談のノイズフロアが高すぎて、私の
眼を閉じる。
脳内のライブラリから、昨夜聴いた曲を呼び出す。
『Plastic Angel』。投稿者は、kuroLeo。
まだ再生数も三桁に満たない、ほぼ無名のボカロP。
けれど、その曲には「痛み」があった。
綺麗に
(……聴きたい)
その
ヘッドホンの
幻聴じゃない。
これは、あの曲のサビ前のブレスだ。
私はヘッドホンをずらした。
西日が差し込む窓の外ではなく、校舎の奥。
誰もいないはずの、第二音楽室の方角から。
***
(黒瀬璃央)
第二音楽室の空気は、埃っぽくて乾燥している。
楽器にとっては最悪の環境だが、
生徒会室での「模範的な笑顔」も、教室での「気さくな優等生」の演技も、ここでは必要ない。
あるのは、MacBookの冷たいアルミの感触と、DAWソフトのグリッド線だけ。
「……違う。もっと、汚れてていい」
画面上のオートメーションカーブをマウスで乱暴に書き換える。
ボーカロイドの歌声は、人間よりも正確だ。ピッチもタイミングも、数値通りに発音してくれる。
だからこそ、気持ち悪い。
私の心はこんなに波打っているのに、出力される音は鏡面のように平滑だ。
これじゃあ、ただの「良く出来たポップス」だ。優等生の黒瀬璃央が作る、優等生のための音楽。
そんなもの、ヘドが出る。
私はトラックのミュートを解除し、マイクに向かった。
自分の声で仮歌を入れる。
完璧なピッチはいらない。正しい発声もいらない。
喉を絞め、息を混ぜ、あえて不安定に揺らす。
サビの頭。Cメジャーの主音に対し、不安定なアプローチをかける。
「ふふ、ふ……♪」
ハミング。
平均律のド真ん中から、わずかにフラットさせる。
六セント。
半音の百分の一単位の、微細なズレ。
聴く人が聴けば「音痴」と笑うかもしれない。けれど、これは計算された
心の均衡が崩れる寸前の、ギリギリの揺らぎ。
その時だった。
私の出した「六セント低い」ハミングに、別の音が重なったのは。
「……ん、ふ……♪」
三度上のハーモニー。
背筋が粟立つほどの、完璧な溶け合い方だった。
ただ音程が合っているだけじゃない。
私が意図的に作った「六セントのズレ」に対し、その声も正確に「六セント」ズレていたのだ。
純正律でも平均律でもない。私という個人的な
私は弾かれたように振り返った。
音楽室のドアが開いている。
逆光の中に、小柄な人影が立っていた。
大きすぎるパーカー。顔の半分を覆うようなフード。首にかかったゴツいヘッドホン。
幽霊かと思った。
けれど、幽霊にしては、その瞳はあまりに澄んでいて、質量のない光線のように私の喉元を射抜いていた。
白音ゆい。
クラスメイトだ。いや、名簿上は。
入学以来、教室でその声を聞いたことは一度もない。
いつも保健室にいる、透明人間。
音が止まる。
私のハミングも、彼女のハモりも消えた。
残響だけが、埃の舞う空間に漂っている。
「……誰」
私の声は、ひどく掠れていた。
優等生の仮面を被る余裕なんてなかった。
見られた。聞かれた。
一番恥ずかしい、剥き出しの部分を。
ゆいは、ゆっくりと一歩、部屋に入ってきた。逃げる様子はない。むしろ、吸い寄せられるように、私のマックブックの画面を見つめている。
「……音、外れてたよ」
ゆいの口から落ちた言葉は、予想外に淡々としていた。
嘲笑ではない。ただの
「気持ち悪い?」
私は睨みつけるように問い返した。
もしここで「音痴だね」と笑われたら、私はこの場所を捨てるしかない。二度とkuroLeoとして曲を作れなくなるかもしれない。
けれど、ゆいは首を横に振った。
「ううん。……平均律からマイナス六セント。気持ち悪いズレ方じゃなくて、泣いてるみたいなズレ方だった」
心臓が、肋骨を内側から蹴り上げた。
六セント。
私が感覚で調整したその数値を、この子は言い当てた。
それに、「泣いてるみたい」だなんて。
それは私が、ネットの向こうの顔も知らない誰か――私が唯一心を許している歌い手、“Shirane”に送ったDMの言葉そのものだった。
まさか。
偶然だ。
こんな、保健室登校の地味な子が。
「偶然だよ」
私は震える声で防御壁を張ろうとした。
けれど、ゆいはもう一歩近づいてきた。その視線は、私ではなく、波形の表示されたモニターに釘付けになっている。
「あと、そのリバーブ」
細く白い指が、画面のプラグイン設定を指差す。
「テイル、〇・九秒でバッサリ切ってる」
息が止まる。
それは数値だ。
感情論でも感覚値でもない、設定画面を見なければ分からないはずの内部パラメータ。
「普通のバラードならありえない処理。余韻がなさすぎて、不自然に聴こえるはずなのに」
ゆいが顔を上げ、フードの奥から私を見た。
その瞳の色は、私が知っているどの絵の具よりも薄く、そして鋭かった。
「……Shirane《わたし》に送ってくれたデモ音源。kuroLeoさんの曲は、いつもそこで息が詰まるように切れてる」
時間が凍結する。
世界からノイズが消える。
換気扇の音も、廊下の足音も、自分の鼓動さえも、ローパスフィルターで遮断されたように遠のいていく。
目の前にいるのは、クラスメイトの白音ゆいじゃない。
私の深夜の逃避場所。
私の歪んだ音を、「天使の歌声」で肯定してくれる、唯一の理解者。
「……Shirane?」
私の問いかけに、ゆいは答えなかった。
ただ、その薄い唇が微かに歪んだ。
笑ったのか、泣き出しそうなのか判別できない、複雑な表情。
「あの処理、好きなの」
ゆいの声が、〇・九秒の残響を残して、私の耳の奥に溶ける。
「世界から切り離されたみたいで、安心するから」
その言葉は、私たちが共有する孤独の
私はヘッドホンを机に置いた。
カチリ、という硬質な音が、二人の間の空気を決定的に変質させた。
優等生の黒瀬璃央は、もうここにはいない。
そして、保健室の白音ゆいも消えた。
ここにいるのは、音という
「……そのズレ、わざとだよ」
私が認めるように呟くと、ゆいは小さく頷いた。
「知ってる。……だから、拾ったの」
西日が傾き、教室の影が長く伸びる。
私たちの影は、床の上で一つに重なりかけていた。
それは、これから始まる長い
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