銀色の灯り
初釣行の翌週、仕事中も頭のどこかで海を考えている自分がいた。
取引先との電話を終えると、ふとPCの隅にある付箋に目が行く。
そこにはメモ程度に書いた文字。
「アジング:表層→中層→ボトム 順に探る」
「ワームの色:クリア系とグロウ系」
誰に見せるでもないメモなのに、書いてあるだけで気持ちが少し前向きになる。
帰りの電車、携帯に釣具の新商品の広告が流れると、広告の写真のロッドを無意識に目で追っていた。
(今夜、また行ってみようか)
自然とそんな考えが浮かんだ。
帰宅後、簡単に夕飯を済ませた。
冷凍餃子を焼き、白米をよそい、味噌汁を温めただけなのに、なぜか心が急いている。
釣りの準備をしながら餃子を口に放り込み、LINEニュースの通知を無視した。
冷蔵庫の中身はいつものように寂しい。
でも、もしアジが釣れたら――と思うと、それだけで冷蔵庫が宝箱に見えた。
港に着くと、風は穏やかで、波は静かに揺れていた。
常夜灯の下には前回より少ない人影。
ライトに照らされた海面が、黒に近い藍色から金色へとゆらりと溶け込むように見える。
いつもの位置(まだ二回目だが)に立ち、前回より少しだけ胸を張る。
キャストのフォームも、動画を何度か見返したおかげで少しマシになった気がした。ジグヘッドが弧を描き、着水の音が「ぽちゃん」と控えめに響く。
(沈める……10秒……)
心の中で数え、ロッドをチョンと動かす。
潮が緩やかにラインを引っ張り、指先に水の抵抗が伝わる。集中しすぎて、いつの間にか息を止めている。
何投か繰り返すうちに、夜風の音が心地よく感じられた。
(釣れなくてもいい。けど……釣れたらきっと嬉しい)
そう思った瞬間だった。
「コッ」
ほんの針の先ほどの、ちいさな刺激。
最初は気のせいかと思った。
でも手元に残る微細な違和感。
(動画で言ってた“あたり”……これか?)
半信半疑でロッドを立て、ハンドルを巻く。
すると――
「ビビビッ!」
短いが確かに、生命の振動。心臓が跳ねた。
深夜の港で、誰にも聞こえないように小さく叫んだ。
「来た……!」
慎重に巻き、ロッドを立て、抜き上げる。
ライトで照らすと、手のひらより少し小ぶりだが、確かに銀色のアジが揺れていた。体側のラインが光を返し、青と銀のグラデーションが宝石みたいに輝く。
「釣れた……釣れた!」
誰もこちらを見ていなかったが、顔が緩むのを止められない。
写真を何枚も撮った。
背景は暗く、構図はめちゃくちゃ。それでも誇らしい一枚だった。
帰り道、コンビニの袋にアジが一匹。
たったそれだけなのに胸が満ちていた。
部屋に戻ると、台所の電気がやけに明るく見えた。
魚を捌くのは動画で予習済みだ。包丁の刃が鱗に触れると「シャラッ」と音がした。慣れない手つきでワタを取り、水で洗い、身に塩を振る。
油を温めてフライにするか、シンプルに塩焼きにするか迷った。
(今日はこのサイズなら塩焼きだな)
フライパンで焼き、皮が弾ける音に耳を澄ませる。脂がじゅわりと広がり、魚の香りが部屋いっぱいに満ちた。
普段なら見向きもしない一匹が、今夜は最高のメインディッシュに見える。
皿に盛り、缶ビールを一本開ける。
一口かじると、ほどよい塩気と魚の旨みが舌に広がった。
「うま……」
ただ一言。それだけで十分だった。
部屋は相変わらず静かだ。
カウンターの向こうに誰もいない。褒めてくれる相手もいない。
でも、誰に渡す必要もない一人の時間は、案外悪くない。
テレビを消し、皿を洗い終えると、幸福感が体の隅まで行き渡るようだった。
ノートを開き、日付と釣果を書き込む。
「一匹 塩焼き 最高の晩ごはん」
まるで賞状みたいに、その一行が眩しく見えた。
(また釣りたい)
(また料理したい)
その夜は、久々に胸の中に灯りがついたまま眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます