千尋

おもいこみひと @毎週月水金更新

第1話

 私は千尋。昨日も、父親に殴られた。母親は、知らん振り。そして今日も、真っ赤な頬をさすりながら学校へ重い足を引きずる。マスク必須のご時世には感謝しなければならない。イヤホンからは、今の私からは著しく乖離した、甘ったるいラヴソングが流れている。まあ、好きなんだけど。


 イヤホンを外し、校門をくぐる。あざだらけで長袖を着るしかない私をよそに、少女たちは白い柔肌を見せびらかしていた。単純な少年たちは、色香に騙されて鼻の下を伸ばしている。


 昇降口をくぐり、自分の下駄箱を確認する。上履きが確かにそこにあって、泥だらけゴミだらけになっていないことを確認してから、履き替える。


 教室に入り、椅子に仕掛けがないことを確認して、席に着く。本当に、自分に関する陰口はよく聞こえるもので、私は背中に手を回す。


 張り紙曰く、「風紀委員長様乙(笑)」と。


「あー、千尋の奴、気づいちゃった」


 どっと、笑いがおこる。その中心には、ひときわ不気味に嗤う学級委員長の女子。しかし、気怠げな男性教師が入ってくると、その女子は何事もなかったかのように、明るく元気な挨拶をする。気持ち悪い。


 昼休み、名前だけの風紀委員長は一人、静かな体育館裏で昼食をとる。セミの合唱と、木漏れ日、そして、真っ黒な子猫。この子の名前はクロ。家からくすねてきたカツオ節で手懐けた。私には、この子だけで十分だった。まあ、私の家じゃ飼えないんだけどね。


***


 次の日、いつも通り体育館裏へ。セミは少しうるさいけど、一人になれる場所を、私はここくらいしか知らないからしょうがない。だって、他の人気のない場所は、決まって猿が交尾しているのだから。


 コンビニの菓子パンをかじっていると、クロがやって来て、いつもようにカツオ節をよこせとすり寄ってくる。私が左手でカツオ節を差し出すと、クロはあっという間に平らげてしまった。


 クロのうなり声で目を覚ます。少しうとうととしていたらしい。手元にあったはずのパンはクロの目の前。嫌な感触のする手元を見る。


 おぞましい感触が、口の中にある。


 セミの大合唱のなか、手元にあったものを投げ捨てた。そして、口に指を突っ込んで必死に嘔吐する。


 気がつくと、クロはいない。代わりに複数のセミの死骸が転がっていた。頭部がなかったり、全体が潰れていたり、胃液とパンと混ざり合っていたり。


 一体自分はどうしてしまったのか。


 しかしこのときの私にはそんなことを考える余裕もなく、ただただその場から逃げ出していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る