三つ星シェフ、ネット通販と簿記1級で異世界を経営する~現代食材と物流で経済無双してたら、女神と魔王が常連客になりました~

月神世一

第1話

三つ星シェフ、残高ゼロからのスタート

 アスファルトの匂いが消えた。

 ヘルメット越しに聞こえていた風切り音が、不自然なほどの静寂に変わる。

「……エンジン、停止」

 青田優也(あおたゆうや)は、愛車である大型バイク――1000ccのアドベンチャーモデルを惰性で走らせ、乾いた大地の上にスタンドを立てた。

 キーを回し、完全に電源を落とす。

 グローブを外してヘルメットを取ると、少しひんやりとした風が頬を撫でた。

「さて」

 優也は周囲を見渡した。

 ガードレールも、道路標識も、対向車線もない。あるのは見渡す限りの荒野と、遠くに見える見たこともない植生の森。

 そして空には、昼間だというのにうっすらと二つの月が浮かんでいる。

 典型的な、異世界転移だ。

「状況確認。怪我なし。バイクの損傷なし。ガソリン残量は半分」

 優也の声に焦りはない。

 彼は25歳にして、都内の激戦区にある三つ星フレンチレストランの副料理長(スーシェフ)を任された男だ。

 ランチタイムのピーク時に、オーダーが同時に20件入り、新人が皿を割り、さらにVIP客からアレルギーの申告漏れがあったとしても、眉一つ動かさずに厨房を回し切る。

 それに比べれば、「場所が変わった」だけのトラブルなど、まだ慌てる段階ではない。

 問題は「なぜここに来たか」ではなく、「どうやって生存するか」だ。

「ん?」

 思考を切り替えた瞬間、目の前に半透明のウィンドウがポップアップした。

【ユニークスキル:ネット通販 が解放されました】

 視界の端に浮かぶ、見慣れたアイコン。検索バー、カテゴリ一覧、カート。

 それは彼が地球で愛用していた、あの大手総合通販サイトのインターフェースそのものだった。

 優也は冷静に、空中に浮かぶ画面を指でタップする。

「……食料、水、キャンプ用品。全部買えるな。日本への配送と同じラグなしで届く仕様か」

 これなら、この荒野でも遭難することはない。水も食料も、ボタン一つで調達できる。

 優也は試しに、500mlのミネラルウォーターをカートに入れた。

 購入ボタンを押す。

『エラー:残高が不足しています』

「……は?」

 優也は画面右上の表示を凝視した。

【チャージ残高:0 Yen】

 眉間に皺が寄る。

 三つ星シェフにして、日商簿記1級を持つ彼の脳内で、瞬時に計算式が走る。

「タダ飯はない、か。当然の理屈だ」

 このスキルは「魔法」ではない。「取引」だ。

 対価を支払わなければ、商品は提供されない。

 優也は財布を取り出した。中には日本円で数万円が入っているが、このスキルのチャージ口とおぼしき黒い穴に入れても、エラー音と共に吐き出された。

 ここ(アナステシア世界)の通貨でなければ、チャージできないらしい。

「資産状況、最悪だな」

 優也はため息をついた。

 貸借対照表(バランスシート)で言えば、今の彼は『資産:ほぼゼロ』『資本:ゼロ』。

 あるのは『在庫』としてのバイクと、着ているライダースジャケット、そして自分の肉体だけだ。

 いや、もう一つあった。

 優也はジャケットのポケットを探った。

 カサリ、と音がする。

 取り出したのは、個包装された一粒の『コーヒーキャンディ』。

 ツーリングの休憩用に持っていた、残りわずかな嗜好品だ。

「……仕込み(ミザンプラス)が足りてないが、あるもので勝負するしかないか」

 その時、荒野の向こうから土煙が上がっているのが見えた。

 ガタゴトという車輪の音。馬車だ。

 武装した集団ではない。荷台に樽を積んでいる。行商人だろう。

 優也はバイクを降り、道の真ん中ではなく、相手が警戒しない程度の距離を開けて立った。

 両手を軽く広げ、敵意がないことを示す。

 馬車が止まった。御者台に座っていたのは、日に焼けた中年の男だ。

 警戒した様子で、腰の剣に手を掛けている。

「おい、あんた。見ない格好だが、何者だ? ここは魔物が出るぞ」

 言葉は通じる。自動翻訳か。

 優也は営業用の、しかし品のある笑みを浮かべた。

「旅の者です。少し道に迷ってしまいまして。水を一杯、恵んでいただけませんか?」

「水? ああ、それくらいなら構わんが……」

「もちろん、タダとは言いません。手持ちの金貨を切らしておりまして……代わりに、私の故郷の『希少な菓子』で支払わせていただきたい」

 優也は、指先でつまんだコーヒーキャンディを、まるで最高級の宝石かのように掲げた。

 黒く輝くその粒に、商人の目が釘付けになる。

「……なんだそれは。黒い宝石か?」

「『黒い琥珀』とでも呼びましょうか。疲労回復と覚醒作用、そして何より、極上の甘味と苦味の調和(マリアージュ)が楽しめます」

 商人がゴクリと喉を鳴らす。

 優也の観察眼(シェフ・アイ)が、商人の唇の乾燥と疲労の色を見逃さなかった。長旅で糖分を欲しているはずだ。

 優也は包みを開けた。

 ふわりと、焙煎されたコーヒーの香ばしさと、焦がしキャラメルの甘い香りが漂う。

 異世界には存在しない、洗練された香料の暴力。

「ど、どうだか。怪しい薬じゃ……」

「毒見をしましょう」

 優也は自分の口に一粒放り込み、見せつけるように舌の上で転がした。

 そして、もう一粒を差し出す。

 商人は恐る恐るそれを受け取り、口に入れた。

「――ッ!?」

 商人の目がカッと見開かれた。

 濃厚な砂糖の甘み。それを引き締める深い苦味。鼻腔を抜ける芳醇な香り。

 この世界において、砂糖は高級品だ。ましてや、これほど複雑で完成された味など、王侯貴族の食卓にしか並ばない。

「う、美味い……! なんだこれは! 疲れが吹き飛ぶようだ!」

「気に入っていただけて光栄です。さて、その一粒の代金ですが……」

 優也はあくまで冷静に、しかし商談の主導権を握る声色で言った。

「銀貨数枚の価値はあるかと」

 ボッタクリではない。

 原価数円の飴玉だが、この世界での「希少性」と「体験価値」を加味すれば、適正価格だ。簿記上の処理はどうあれ、相場とは需要と供給で決まる。

「だ、出す! 銀貨3枚……いや、5枚出そう! もう一粒ないか!?」

「ありがとうございます。商売成立ですね」

 チャリン、と重みのある音がした。

 優也の手のひらに、銀貨が5枚乗る。

 日本の感覚で言えば、5000円相当だ。

 商人が去った後、優也は再び『ネット通販』の画面を開いた。

 チャージボタンを押し、銀貨を投入する。

【チャージ完了:+5,000 Yen】

【現在残高:5,000 Yen】

 優也の口元が、わずかに歪んだ。

「レート固定か。……勝ったな」

 地球のネット通販なら、5000円あれば水24本入りのケースが買える。米なら10キロ買える。

 だがこの世界では、銀貨5枚でそれだけの物資は買えないだろう。

 圧倒的な物価差と、物流革命。

 優也は画面を操作し、ミネラルウォーターと、今夜の宿となるテント、そして……この世界の人間を「餌付け」するための、最強の食材(やさい)をカートに入れた。

「さて、開店準備(ミザンプラス)だ」

 荒野の真ん中で、三つ星シェフの新たなビジネスが幕を開けた。

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