もしもボックスで僕はあなたになる
想世
もしもボックスで僕はあなたになる
ドラえもんの道具で一つだけ手に入るなら何が欲しいか。
そう問われれば、僕は間違いなく「もしもボックス」と答える。
「理想の自分になれるから」。
理由はそれだけだ。きっと、これはありふれた、あまりにもベタな回答だろう。四次元ポケットから取り出される道具の中で、現実改変能力を持つこの電話ボックス型アイテムは、最も壮大で、最も「夢」を具現化する装置だからだ。
なぜ「もしもボックス」なのか。
それは、ひとえに理想の自分、なりたかった自分、なりたい自分になれるから。僕がもし、創作者としての道を歩んでいるのなら、これほど願ってもない道具はないだろう。
「もしも僕が、芥川賞作家だったら」「もしも僕が、ハリウッドで活躍する脚本家だったら」
——そんな世界を実際に体験し、その視点、その思考回路を深く理解することができる。生み出す物語のリアリティは格段に向上するに違いない。
創作者でなくとも、それは同じだ。
「もしも僕が、誰もが振り返るほどの美貌を持っていたら」「もしも僕が、大富豪の家に生まれていたら」「もしも僕が、全く違う職種を選んでいたら」。
人は常に「別の可能性」を夢想する。もしもボックスは、その夢想をただの想像で終わらせず、実際に「生活」として提供してくれる。色んな人生を経験できる。それは、一度きりの人生を生きる我々にとって、途方もない魅力だ。
しかし、僕がもしもボックスに最も大きな価値を見出すのは、自己実現の欲求を満たすという個人的な理由からだけではない。
もしもボックスが、僕個人ではなく、世界中の誰もが使える道具であったなら、世界はもっと優しく、寛容になるのではないか、と考える。
現代社会は、とかく想像力の欠如によって多くの摩擦と分断を生み出している。
「どうしてあの人は、こんなに簡単なことが理解できないのだろう」「なぜ、自分とは全く違う価値観を持っているのだろう」。
僕たちは、自分の立場、自分の経験、自分の価値観から一歩も出ることなく、他人を安易に批評し、非難しがちだ。
たとえば、電車で泣き止まない赤ちゃんを連れた親に対する冷たい視線。多くの人が通る道であるはずの子育てという経験は、経験していない人間にとってはただの騒音にすぎない。生活保護を受給する人への自己責任論。その人がどのような経緯でその状況に陥ったのか、想像力を働かせる前に、僕たちはマウントを取りたがる。
もっと些細なことでもいい。誰かと口論になったとき、ならなくても怒りが湧いたとき。「どうしてわかってくれないんだ」「自分が正しい」とそれぞれの言い分を主張しあうだけで、相手の気持ちを汲み取ろうとすることは少ない。
なぜ、こんなにも他人に優しくなれないのだろうか?
それは、人は本当に相手と同じ経験をしないと、その気持ちに心の底から気づけないからだ。どれほど頭の中で想像しても、それは所詮、自分の経験を土台にしたシミュレーションに過ぎない。想像はもちろん大切だが、真の共感、真の理解には、その人の痛みや喜びを実際に感じ、その世界で生活を営む経験が必要不可欠なのではないだろうか。
もしもボックスがあれば、どうだろう。
もしも僕が、生活保護を受給する立場だったら。
もしも僕が、満員電車の中で泣き叫ぶ我が子を抱える親だったら。
もしも僕が、戦争の続く国に生まれた子供だったら。
もしも僕が、人種や性別を理由に理不尽な差別を受けていたら。
誰でも簡単に、一時的に他人になれる。もちろん、ドラえもんの世界のように、一回設定をしたら元の世界に戻すにはまた電話をかけ直さなければならない制約はある。しかし、その短い期間でも、異なる人生を歩むことで、僕たちは自分とは全く別の視点、別の価値観を獲得できる。
もしもボックスによって、僕たちは自分の人生を生きながらにして、別の人生の記憶と感情を携えることができる。
ある人は、経済的な困窮を実際に体験し、冷たい社会の目に晒されたことで、他者に対する無償の優しさの必要性を痛感するだろう。ある人は、異文化圏での生活を体験し、自国の常識が世界の常識ではないことを知ることで、多様性への理解を深めるだろう。
そして、誰もが理想の自分になれる世界では、人々の心が満たされ、攻撃性が薄れるかもしれない。満たされた心からは、自然と他人への優しさが溢れ出す。心のゆとりは安寧をもたらす。
そして、この共感の欠如が最も顕著に現れるのが、現代のインターネット空間だ。顔も見えない、名前も知らない相手に対し、僕たちは平然と、現実世界では口にできないほどの攻撃的な言葉を投げつける。匿名の盾に守られ、相手の背景や人生を完全に放棄した「非共感」の極みだ。
もしもボックスがあれば、「もしも自分が、今叩いているこの匿名の相手だったら」という世界を瞬時に構築できる。画面の向こう側の「他人」が、生身の人間として感じる痛み、生活、そして孤独を知ったとき、キーボードを打つ指は、きっとためらいを覚えるだろう。
もちろん、この道具が世界に導入された場合のディストピア的な側面も考えられる。理想の自分に浸りすぎて元の世界に戻れなくなる人、現実逃避のツールとして悪用される可能性。倫理的な問題は山積するだろう。
だが、もしもボックスが、一時的な共感シミュレーターとして機能し、人々が定期的に自分の価値観とは真逆の人生を体験する習慣を持つようになったとしたら、人は自分の中の絶対的な正しさが、いかに脆く、環境に依存したものであるかを思い知るだろう。
僕がもしもボックスを望むのは、もはや個人的な創造欲求や自己実現のためだけではない。
その箱が持つ、共感のスイッチを押す力に、この分断された世界の未来を託したいからだ。
みんなが理想の自分になれる。そして、違う自分を歩むことで、別の価値観を肌で理解できる。
そうしたら、きっともっと優しくなれる日が来るんじゃないか。
今日も僕は、手に入らない電話ボックスの向こう側にある、優しい世界線を妄想し、思いを馳せる。
もしもボックスで僕はあなたになる 想世 @nen_m_n
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます