空気と風とその揺れ動く様

安藤もゆり

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 路上でギターを鳴らしているやつがいて、周りには客がない。うるさいなと思いつつ通り過ぎるが、街の喧騒はそのギターよりも随分と大きく、二、三歩も離れたら弦楽器の音も歌声も聞こえなくなった。

 あの道は激安スーパーへ向かうのに毎回通る道で、この時間帯に弾き語りなどやられたのではすでに冷たい半額弁当も興醒めだ。夢を追いかけるならまず人に迷惑をかけないようにしてほしいところだ。

 借りている一軒家に戻り、外壁と外壁の間に門扉のないその空間から、置かれている様々なものたちを踏み歩きつつ玄関を目指す。

 地面から開口部の半ばまで積もったものたちに遮られて閉まることを知らない玄関のドア。入口に画鋲で留められた寸法の合わないカーテンをめくって中に入る。

 電子レンジに弁当を入れてダイヤルを回す。一と二の間くらいがちょうどいい温度に仕上がるのだ。

 うず高く積まれたものたちの上を漕ぐようにして人がギリギリ通れる隙間を縫って寝室に入る。ベッドの上は人間一人が横になれるくらいの空間がある。壁には拾ってきたポスターが所狭しと貼られている。

 スマホに充電ケーブルを挿したところで電子レンジが仕上がりを伝えるベルを鳴らす。今日は贅沢にもハンバーグ入りの幕の内弁当だ。半額になっても残っているのは珍しいのだ。電気代がもったいないので、掻き込んだら寝るのだ。米粒が引っかかって噎せる。

 明かりを消して横になる。スマホを撫でるとくるくると画面が動くが、脳みそにじんわりと染みる液晶の光が動いているという認識以上のものはない。妙に可笑しくて笑うと、吸い込んだ空気にまた空咳が出た。

 今日も現実が遠くで音を立てているような感覚に静かに沈みながら眠りに落ちた。


 翌朝、習慣通りにゴミ置き場を見に行くと、ギターが置かれていた。昨日のミュージシャンまがいが弾いていたやつによく似ている。粗大ごみの日か。これは当然価値のあるものだろうからもらって帰る。他には、引き出しのないタンス(これはもはや棚か)やら鏡の割れた化粧棚やらとあったが持ち帰っても置く場所がないからそのままにしておいた。

 ギターの教則本はたまたま先月の古紙の日にゴミ置き場から持ち帰ったのがある。これで練習してみようじゃないか。

 あの下手くそよりはうまく弾けるだろう。たしかテレビコマーシャルで聞いたことのある曲だったな。


 教則本に沿って左手で弦を押さえながら右手で引っ掻く。くぐもった音は部屋の壁とうず高く積もるものたちに吸い込まれて消える。

 まあ最初はこんなものだろうという音が、しばらく続くとややもすると嫌気が差してきてギターを叩き割りそうになる。しかし、あの下手くそより下手くそなまま終わるわけには行かない。あいつは騒音を撒き散らして自己満足に浸った上、もしかするとこれをゴミとして捨てたのだ。まあ他人の空似(これはギターだが)かもしれないが。何にせよ、心から負けず嫌いが顔を出し、左手の指から指紋がなくなり、皮が剥けるまで熱中してしまった。

 時計を見ると、すでにスーパーマーケットは閉店時刻で、ルーティーンの半額弁当漁りをせずに今日が終わってしまった。ため息をつくとまた咳が出た。

 一日何も食べないくらいでは特に問題が起きるべくもないだろうが、何がしか食べたほうがいいだろう。ギターをそのへんに置いて食料置き場を見てみる。

 袋の中でひとかたまりになった飴玉、賞味期限も読み取れない何らかの食品のパウチ、藁束にも見えるおそらくニラだったもの、ゴジラの卵みたいな白菜、かびて緑色になっているパックご飯、溶けた緑色のおそらく葉物野菜だったものだろうものの残骸、好みでないので手を付けていなかったサバの缶詰。

 このサバの缶詰は食べられそうだな。その場で開け用とするが、左手の指がじんじんと痛み、指を見て血が滲んでいることに気づく。まあいいか、と適当にズボンで拭いてサバ缶を開ける。痛みの原因を見たあとならそれは無視できるのだ。

 適当に落ちていた割り箸でサバ缶を食うと、明かりを消してベッドに横になる。

 スマートフォンの明かりを子守唄に今日は寝る。どうしても気になって、あのテレビコマーシャルの歌を調べた。まさにあの下手くその歌っていたやつだ。静かに口ずさみながらまどろみに落ちた。


 それから何故か急き立てられるように毎日ギターへ向かった。上達はしている感覚がある。しかし、思うように弾けず、歯がゆさが募る。

 教則本で学べることは全部ためした。うまくいかないのは練習量がたりないせいだろう。とは思うが、いつまでも時間を掛けたくはない、という焦りがずっと背中に張り付いている。他に何をするわけでもないのに。

 そうしてくると、指板に張り付いた血なのか手垢なのか、シミが気になってくる。

 指板だけでなく、弦のサビやらボディの汚れやホールから見えるホコリなども気になる。

 気になり始めたら止まらない。すぐに掃除を始めた。

 そこらにある布切れで拭き始めたが、乾拭きだと取り切れない。水道は止められているから、どうしようか。

 庭(とも言えないくらいの猫の額だが)に出ると偶然、鍋に雨水が溜まっていてきれいに輝いていたので、それを使って水拭きした。

 手入れも教則本に書いてあったが、もともとゴミだ。あんまり気にせず自分がきれいだと思う方法できれいにしたい。

 弦を一本ずつ持ち上げては、付着した皮脂の帯を親指の腹でこそげ取る。フレットの縁に詰まった埃を、爪の先でそっと掻き出す。指板にこびりついた暗い汚れを布切れで擦る。雨水が溜まった鍋から、慎重に布に水を含ませる。湿った布で指板を横断するように拭く。割り箸で中をつつき、埃を外へ掻き出す。ボディの表面を円を描くように磨く。ペグの金属部分を親指と布で磨き上げる。仕上げに全体へ空気を吹きかける。呼気を吹くと、咳が出た。

 どうだろうか。見違えるようにきれいになった。これならチェーンのリサイクルショップでも買い叩かれないだろう。

 さて、またあの日のように半額セールに行けない事態は避けなければならない。新しいことに取り組むと周りが見えなくなるのは悪い癖だ。練習はなしにして弁当を買いに行こう。

 きれいになったギターを置こうと、あたりを見回したが、どこに置いてもまた汚れそうな塩梅だ。

 唯一ベッドだけはまあ置いても大丈夫かなと思えるくらいではあるが、これは由々しき事態だと今更になって気づく。

 このギターの価値を考えると、そこらにあるものなどまさにゴミだろうように見えてくる。今まで有用なものだろうと思って取っておいた、またゴミ置き場から拾ってきたものたちがそれはゴミ置き場に置かれるべくして置かれていたのだと気づくようになった。

 取り急ぎ、ベッドにギターを寝かせて、ギターを置くためのスペースと台を作ることにした。偶然にもピッタリのものが部屋にあって、置いてから初めてギタースタンドだと気づく。お誂え向きだ。

 とにかく寝室を片付けた。明日は燃えるゴミの日だから、燃えそうなものを片っ端から袋に詰めて、ゴミ置き場と部屋を往復した。

 すると、どうだろうか。ギターの置かれた部屋、という作品のような空間が出来あがった。

 半額弁当は買いそこねた。サバ缶を食べた。


 それからの日々というもの、取り憑かれたように毎日、片付けとギター練習に時間と体力を費やした。あの下手くその夢を夢のまま終わらせてやりたくない。バトンを貰った気分だった。

 ふと、食料置き場にあった手紙を見つける。親は仕送りに食料品をくれるが、それに手紙が入っていたのだ。まあ興味がないので封筒はそのままゴミ袋行きだが。そうだ。理由をつけて取っておいたのではいつまで経ってもきれいにならない。

 ギターの練習も、歌も、徐々にうまくなっていって、調子が上がっているのがわかる。


 ある日、全く開いていなかった窓を開けてみる。最近、めっきり涼しくなったが、その冷たい空気が部屋を撫でる感覚は悪い気分ではなかった。

 窓を開けたままギターで弾き語りをしている。あのコマーシャルソングだ。

 歌う際に、空気を吸うと咳き込むことがまま合ったのだが、最近はそれもない。窓は開けるべきなのかもしれない。

 あの下手くそよりは流石に上手く演奏できるようになったな、と自画自賛してみる。


 きれいに掃除したユニットバスで体を清め(水道代とガス代は払ったのだ)、ちゃんと洗濯をした服を着て、あの下手くそが路上パフォーマンスしていたところへギターを持っていく。

 そこに座り込んで弾くのはあのコマーシャルソングだ。もう流行遅れというか、季節に合わない夏の歌だが。

 気持ちよく歌っていて気づかなかったが、女の人が一人、立ち止まって聴いてくれていた。

 嬉しくなって、いくつか練習した曲を披露する。女は無表情だが、じっと耳を傾けてくれている。

 あの日と同じく、街の喧騒は鳴らすギターや歌よりもだいぶん騒がしいが、一人の客と自分のギターと歌だけはくっきりと彫刻されたレリーフのように美しく浮いて見えた。

 持ちネタもなくなったので、帰ろうと立ち上がると、唯一の客は口を開いた。

「チップはどちらへいれたらいいのでしょうか」

 冷たい夜の空気を一気に吸い込んだ。以前ならそんなことをすれば止まらなくなった咳も出ない。

 目頭が熱くなって空を見上げた。

 親に手紙でも書こうか、と思った。

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