かくも悠然たるレーゼン閣下の裏側
タチバナ ミノル
一章 結婚か、無理難題か①
〝優雅さの化身たれ〟。幼い頃からそう叩き込まれる貴族令嬢にも、時に髪を振り乱して走らなければならない瞬間は存在する。
命がかかった場合だ。
アーテル・レシュナンドにとっては、今がまさにそうだった。
全身が焼けそうに熱い。喉もひどく痛かった。髪を乱し、無遠慮な足音を立て駆けずっては、獣のように息を荒げる。こんなことは令嬢の人生において何度もあることではない……と言いたいところなのだが、白状するとアーテルには昨日も一昨日も汗水垂らして全力疾走した記憶があった。いや、その前の日もかも。
とにかくこのところのアーテルは持ち前の健脚を遺憾なく発揮し、結構な頻度で淑女の枠を盛大に蹴り破ってはみ出しまくっていた。
「———おのれ、イケスカナイ卿……! あの人が持ってくる話はいつだってこうなんだから……!」
息を切らしながら恨み節を漏らした瞬間、背後で非常に嫌な音がした。びびぃーっという、布が盛大に引き裂かれたような、アーテルが何よりも恐れるもの。
「ああもうっ! また破れたじゃないの……っ!!」
ここは整地などされていない森。そんなところをドレスで走れば、方々から突き出した枝に絡め取られるのは火を見るより明らかだった。恨めしいのは、それがわかっていながらもドレス以外の外出着の選択肢がない、令嬢という身分だ。
「お嬢様! ドレスは後で直してみますから止まらないでくださいっ!」
「わかっているわ!」
先導してくれている侍女パリスが叫んだように、足を止めるわけにはいかなかった。たとえ
そんなことを思いながらも、アーテルはほんの一瞬だけ視線を背後に落とす。彼女はああ言ってくれたが、これはもう駄目だろう。裾が少し破れたくらいならレースでもつけて誤魔化せるが、こうもズタズタになってしまっては小物にでも作り変えて売るしかない。アーテルは内心ため息をついた。
我が身がクラッシュするよりはドレスがクラッシュする方がまだマシだが、正直着られるものが減っていくあまりの速度に
それに物事というものはだんだんエスカレートしていくというではないか。今は破れるくらいで済んでいても、そのうち素っ裸で公道を歩く羽目になりはしないかと空恐ろしくなる。いくらアーテルの貴族令嬢生命がとっくの昔に瀕死になっていても、それはまずい。いくらなんでも裸は。これはいよいよ『乗る馬もないのに乗馬服ですって?』という
そんなことを思った瞬間、ドォーン!と地響きがして、森ごと数センチ飛び上がったかのような揺れが起こった。バランスを崩して木に激突したアーテルに、バラバラと木の葉が降りかかる。
「お嬢様!」
「っ大丈夫よ! あの男に……あのイカレ宰相に衣装代を請求するまでは死んでたまるもんですか! さもなくばドレスと一緒に化けて出てやるんだから!」
ぶつけた肩がひどく痛んだが、こうして汗まみれで走り回る羽目になった元凶への怒りを痛み止めに、アーテルはなんとか立ち上がった。
「もう少しでジョジィ様とフロッシ様と合流できますから!」
「ええ! 踏み潰される前にとっとと行きましょう!」
アーテルは頷き、再び走り出したパリスの背を追う。なんとも忌々しい、全ての発端を思い出しながら……
* * *
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