第3話

女神ルチアナの視察(冷や汗)

 上空一万メートル。雲の上に浮かぶ神界のオフィスで、警報音が鳴り響いていた。

「えっ、ちょ、何これ!? 魔力グラフが振り切れてるじゃない!」

 女神ルチアナは、ポテチの袋を放り出してモニターに張り付いた。

 地上のある一点から、計測不能なエネルギー反応が検出されている。それはかつて、神々さえも震え上がらせた「始祖」の波動によく似ていた。

「場所は……えっ、昨日転生させたカイト君の家の真下!?」

 ルチアナの顔から血の気が引いた。

 彼に与えた土地は、確かに人里離れた場所だったが、まさかそこに「アレ」が眠っていたなんて聞いていない。

「まずいわ。孵化(ふか)して暴れてるなら、大陸ごとリセットしなきゃ……。せっかく残業なしで平和だったのに!」

 ルチアナは慌てて「視察用アバター」に着替えた。

 金色の髪をお下げにし、地味な麻の服を着て、どこにでもいる村娘に変装する。

 もし最悪の事態になっていたら、即座に神の雷(ケラウノス)を落として浄化するつもりだった。

 †

 一方、地上。

 俺、カイトは充実した朝を迎えていた。

「おーい、オーク諸君! その岩はこっちに運んでくれ!」

「ブヒィッ!(了解であります!)」

 屈強なオークたちが、軽々と岩を運び、土を耕していく。

 昨日仲間(?)になった彼らは、ポチへの恐怖心からか、それとも俺のトマトが美味すぎたからか、驚くほど勤勉に働いてくれている。おかげで農地は昨日の十倍に広がっていた。

「よし、休憩にしよう! 採れたてのキュウリがあるぞ」

 俺が籠いっぱいのキュウリを差し出すと、オークたちは感涙しながら齧りついた。

 さて、俺もポチと遊んでやるか。

「ポチ、おいで」

「きゅるっ!」

 ポチが尻尾を振って走ってくる。一晩でまた少し大きくなり、今は中型犬くらいのサイズだ。黒曜石のような鱗が太陽を反射して美しい。

「よし、今日は芸を覚えるぞ。……お手」

 俺が手を出すと、ポチは「任せろ」と言わんばかりに前足を上げた。

 †

(……嘘でしょ?)

 村娘姿で茂みに隠れていたルチアナは、その光景を見て腰を抜かしそうになっていた。

 畑の真ん中にいるのは、紛れもなく『始祖竜』の幼体だ。

 その小さな体には、神であるルチアナですら直視するのをためらうほどの、圧縮された魔力が詰まっている。くしゃみ一つで国が消し飛ぶ、生きた災害。

 それが、あろうことか。

「お手」

「きゅっ」

 人間の男の手に、前足を乗せている。

 

 ズドンッ……!!

 ただ「お手」をしただけなのに、大気が悲鳴を上げ、見えない衝撃波が周囲の雑草を薙ぎ払った。

 ルチアナの冷や汗が止まらない。あれは「お手」じゃない。質量兵器による打撃だ。

「よしよし、いい子だ! すごいぞポチ!」

「きゅるる〜(ご満悦)」

(な、なにあれ……。なんで懐いてるの? スキル【絶対飼育】って、まさか神獣クラスにも有効だったの!? バグよ、完全なバグだわ!)

 ルチアナが頭を抱えていると、カイトがこちらに気づいた。

「おや? お客さんかな」

 カイトが爽やかな笑顔で手を振ってくる。

 ルチアナはビクリと震えたが、ここで逃げるわけにはいかない。管理者として状況を確認しなければ。

 彼女は震える足を押さえ、精一杯の「村娘スマイル」を作って出ていった。

「あ、あの……こんにちはぁ。道に迷っちゃってぇ……」

「こんにちは。こんな辺境に来るなんて珍しいね。俺はカイト。こっちはペットのポチだ」

「きゅぅ(ジロリ)」

 ポチがルチアナを見た瞬間、その金色の瞳が鋭く細められた。

 低い唸り声と共に、周囲の重力がギシリと軋む。

 ポチは本能で悟ったのだ。目の前の女が、ただの人間ではなく、自分と同格の「力ある者」であると。

(ヒィッ! 睨まれた! 消される!)

 ルチアナが死を覚悟した瞬間。

「こらポチ! お客さんを威嚇しちゃダメだろ!」

 カイトがポチの頭をポカリと軽く叩いた。

 ルチアナの心臓が止まりかけた。始祖竜の頭を叩くなんて、自殺行為だ。

 しかし――。

「きゅぅ……(ごめんなさい)」

 ポチはシュンとして、大人しく座り込んだ。

 ルチアナは呆然とした。

 (制御できてる……。この男、あの破壊の化身を完全に「駄犬」扱いしてるわ……)

「ごめんね、人見知りな子で。お詫びにこれ、どうかな? 今朝採れたばかりなんだ」

 カイトが差し出したのは、真っ赤に熟れたトマトだった。

 ルチアナは恐る恐るそれを受け取った。見た目はただのトマトだが、表面が妙にツヤツヤしている。

「い、いただきます……」

 一口、かじった。

「――っ!?」

 衝撃が走った。

 口いっぱいに広がる濃厚な甘味と、爽やかな酸味。

 だが、それだけではない。トマトの果汁と共に、純度の高い魔力と生命力が体中を駆け巡ったのだ。

(何これ!? 美味しい! 神界のネクタールより美味しいじゃない! それに、食べた瞬間に肌のハリが戻っていく……これ、【絶対飼育】の効果で栄養価が限界突破してるのに加えて、始祖竜の魔素を浴びて育ったから、もはや『神薬』レベルになってるわ!)

 ルチアナは夢中でトマトを食べ尽くした。

 指についた果汁まで舐めとり、はっと我に返る。

 目の前では、カイトがニコニコと笑っていた。

「お口に合ったかな?」

「……う、美味いです」

 ルチアナは素に戻って答えた。

 そして、冷静に計算する。

 始祖竜は孵化してしまった。今さら消滅させようとすれば、大陸の半分を巻き込む大戦争になる。

 しかし、この男カイトがいれば、ポチは大人しい「ペット」でいてくれるかもしれない。

 それに何より……この野菜は捨てがたい。

(よし、見て見ぬふりをしよう。むしろ餌付けして、この野菜を定期的に貢がせよう)

 女神にあるまじき判断だった。

「あの、カイトさん! 私、ル……ルナって言います! このトマト、すっごく感動しました!」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。まだたくさんあるから、持っていくかい?」

「いいんですか!? あ、代わりと言ってはなんですが、これを受け取ってください!」

 ルチアナは懐から小さな袋を取り出した。

 それは本来、異世界には存在しないはずの「地球の野菜の種セット(大根、白菜、米)」だった。

「珍しい野菜の種なんです。カイトさんの腕なら、きっと美味しく育てられると思って」

「へえ、見たことない種だ。ありがとう、ルナちゃん」

 こうして、世界存亡の危機(女神による粛清)は、トマト一個で回避された。

「また来ますねー! 絶対来ますからねー!」

 ルチアナは大量の野菜を風呂敷に包み、ホクホク顔で去っていった。

 その背中を見送りながら、カイトは首を傾げた。

「いい子だったな。……でも、あの子が帰っていく方向、道なんてない崖なんだけど、大丈夫かな?」

 カイトの足元で、ポチが「あいつ、調子のいい女だな」という顔で、呆れたように鼻を鳴らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る