第2話

ポチのくしゃみと、消滅した森

 異世界生活二日目の朝は、重苦しい圧迫感と共に始まった。

「……ぐ、ぐるじい」

 胸の上に何かが乗っている。目を開けると、つぶらな金色の瞳と目が合った。

 ポチだ。昨日は手のひらサイズだったはずなのに、一晩で猫くらいの大きさまで成長している。

「きゅぅ!」

「おはよう、ポチ。……お前、成長期早すぎないか?」

 俺が身を起こすと、ポチは器用に肩へとよじ登ってきた。鱗がひんやりとして気持ちいい。

 スキル【絶対飼育】の効果だろうか。どんな生き物でも限界までスクスク育つとは聞いていたが、これほどとは。

「まあいいか。今日は畑を広げるぞ」

 俺は女神ルチアナから貰った「無限の水瓶」で顔を洗い、万能鍬(くわ)を担いで小屋を出た。

 †

 家の前は見渡す限りの荒れ地だ。

 地面は硬く、岩がゴロゴロしている。昨日は畳二畳分くらいしか耕せなかった。

 このペースだと、自給自足ができるようになるまで何ヶ月かかるか分からない。

「まずは、邪魔な岩をどかして……っと」

 俺が鍬を振り上げた時だった。

 ポチが「クルルッ」と喉を鳴らし、何かに反応して尻尾をピンと立てた。視線は、荒れ地の向こうにある深い森の方角を向いている。

「どうした? 散歩か?」

 俺もつられて森の方を見た。

 ガサガサ、と木々が揺れている。野ウサギでも出てくるのだろうか?

 ――ズシン、ズシン。

 現れたのは、ウサギなんて可愛いものじゃなかった。

 豚の顔に、丸太のような腕。粗末な革鎧を身につけ、錆びた斧を持った二足歩行の怪物。

 ファンタジーの定番、オークだ。しかも十匹以上の群れである。

「ブヒィィィッ! ニンゲン、ハッケン!」

「肉! ヤワラカイ肉ダァ!」

 先頭のリーダー格らしきオークが、汚い声で叫んだ。

 で、でかい。身長は2メートルを超えている。全身から漂う獣臭さと、殺気。

 日本の平和ボケした俺でも分かった。こいつら、俺を「食料」として認識してやがる。

(やばい、詰んだか?)

 俺の武器は鍬一本。スキルは農業用。戦って勝てる相手じゃない。

 俺が冷や汗を流して後ずさりした、その時だ。

 肩に乗っていたポチが、ふわりと地面に降りた。

「きゅぅ」

 ポチは俺を庇うように、オークの群れの前へと歩み出る。

 その小さな体と、ヨチヨチ歩きが何とも頼りない。

「おいポチ、戻れ! 食われるぞ!」

 俺の制止も聞かず、ポチはオークたちを見上げた。

 オークたちが一斉に足を止める。

「ブヒ? ナンダ、コノトカゲ……」

「ウマソウダナ。丸焼キニ……」

 一匹のオークが、ポチを掴もうと手を伸ばした瞬間。

 ――『跪(ひざまず)け』

 言葉ではない。

 脳髄を直接鷲掴みにされるような、絶対的な「命令」が空間を支配した。

 俺は思わず尻餅をついたが、殺意を向けられていたオークたちの反応は劇的だった。

「ブ、ブヒィッ!?」

 オークたちは白目を剥き、一斉に泡を吹いてその場に硬直した。

 彼らの本能が理解してしまったのだ。目の前の小さな生物が、自分たち如きが触れていい存在ではない、捕食ピラミッドの頂点であることを。

 だが、ポチはそんなことには無頓着だった。

 鼻がムズムズしたのか、小さく上を向く。

「……くしゅんっ!」

 可愛いくしゃみが響いた。

 ポチの口から、青白い「何か」が飛び出した。

 ズドォォォォォォォォォォォン!!!!

 音が、遅れてやってきた。

 ポチの目の前にあった空間が、ねじれた。

 直線状に放たれた「くしゃみ」は、オークたちの横を通り抜け、後方に広がっていた鬱蒼とした森へ突き刺さる。

 光が収まった後、俺は口をポカンと開けていた。

 森がない。

 いや、正確には「ポチの正面にあった幅50メートル、長さ数キロメートルに渡る木々」が、跡形もなく消滅していた。

 燃えたのではない。抉れたのでもない。

 最初からそこには何もなかったかのように、綺麗な更地(さらち)になっていたのだ。

「……は?」

 俺は目をこすった。

 遥か彼方の地平線が見える。風通しが良くなりすぎだろ。

「きゅぅ?」

 ポチは「すっきりした」という顔で、鼻水をペロリと舐めた。

 俺は震える声でポチに話しかけた。

「お、お前……今のは?」

 そうか、魔法か。異世界のトカゲは火を吹くと聞いたことがある。

 きっと、体内に溜まった魔力的なガスが暴発したんだな。くしゃみでこれなら、本気で怒らせたら家がなくなるぞ。

 俺は自分を無理やり納得させた。

「こらポチ! 人に向けてやったら危ないだろ! めっ、だぞ!」

「きゅぅ……(しょぼん)」

 俺が叱ると、ポチはシュンとして俺の足に擦り寄ってきた。反省しているならよし。

 さて、問題は目の前のオークたちだが……。

「あー、その……大丈夫か?」

 俺が声をかけると、オークたちはビクリと震え、一斉にその場に平伏(ドゲザ)した。

「ブ、ブヒィィィィッ!!(命だけはお助けください!!)」

「ブヒッ! ブヒブヒッ!(なんでもします! 靴もお舐めします!)」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、必死に地面に頭を擦り付けている。

 ポチの「くしゃみ」を見て腰を抜かしたのだろうか。

 それとも、俺の持っている「万能鍬」が伝説の武器に見えたのか?

 よく見ると、こいつら意外と筋肉質で、力がありそうだ。

 俺の脳内で、ピコンと計算式が弾き出された。

 【対象:オーク(群れ) 状態:絶対服従・恐怖】

 【スキル『絶対飼育』の適用範囲内です】

「……お前ら、もしかして畑仕事を手伝ってくれるのか?」

 俺が尋ねると、オークのリーダーは顔を上げ、ブンブンと首を縦に振った。

「ブヒ! ブヒィ!(やらせてください! 土いじり大好きです!)」

「そうかそうか! いやあ、人手が足りなくて困ってたんだ。悪いな、助かるよ」

 俺はニッコリと笑った。言葉は通じないが、心は通じたらしい。

 やっぱり異世界、話せば分かるやつらもいるもんだ。

「じゃあ、あそこの岩をどかして、あの一帯を耕してくれるか? 終わったらトマトやるから」

「ブヒィッ!(御意! トマトのためなら死ねます!)」

 オークたちは脱兎のごとく動き出した。

 斧を投げ捨て、素手で巨大な岩を持ち上げ、剛腕で地面を掘り返していく。重機並みのパワーだ。

 ポチが開けた「更地」も、これならすぐに立派な農地にできるだろう。

「よしよし、順調だ」

 俺はポチを肩に乗せ、オークたちの働きぶりを満足げに眺めた。

 ――数時間後。

 森の一部が謎の消滅を遂げた現象を調査しに、近くを飛んでいた竜騎士が偵察に来るのだが、彼はそこで信じられない光景を目にすることになる。

 凶暴なはずのオークの群れが、満面の笑みで鍬を振るい、楽しそうにキャベツの苗を植えている姿を。

 そして、その横で「世界を滅ぼす災厄の波動」を放つ小さなトカゲと、のんきに昼寝をする人間の男を。

 竜騎士は「疲れてるのかな……」と呟き、報告書には『異常なし』と記して飛び去った。

 こうして、世界規模の危機(ポチのくしゃみ)は、奇跡的に隠蔽されたのだった。

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