🖋️ 白金の静寂

Tom Eny

🖋️ 白金の静寂

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Ⅰ. 起:毒された記憶と、折れた誓い


植木慎吾は、手のひらを洗うのをやめた。水道の蛇口をひねっても、出てくるのは粘り気のある、生ぬるい水だけだった。その水からは、三年前のあの日の猛烈な農薬の匂いが、強烈な幻臭として彼の鼻孔を灼いた。


彼の罪は、会社を辞めても、手を洗い続けても消えなかった。かつて**「緑の破壊を企業文化とした巨大チェーン」**のエリア管理者として、彼は「経済的効率」という名の傲慢に従い、店舗前の雑草をなくすため、猛毒の除草剤を散布させた。


その毒が地下のネットワークを伝い、今、大地から**「声」**となって返ってきている。根がアスファルトを割って隆起し、倒木が幹線道路を塞ぐ。これは自然災害ではない。文明への倫理的な抗議行動だ。


植木は、リュックに詰めた造園道具を強く握った。持っていくのは、折れた剪定鋏と、小さなスコップだけ。剪定鋏は、もはや「管理」や「破壊」には使えない、贖罪の誓いの証だった。


最初に向かったのは、彼がかつて管理した巨大チェーンの郊外店舗の跡地。瓦礫と化した建物に絡みつく、黒い血管のような根。その中心には、枯れたはずのケヤキの古木が、怒りに燃える炎の塊のように立っていた。


古木の意識が、彼の皮膚にチリチリと灼けるような灼熱感と共に流れ込む。強烈なカビと消毒液が混ざった刺激臭。それは、除草剤の「毒」をネットワーク全体で共有している木々の、絶え間ない悲鳴だった。


「よく来たな、毒を撒いた男よ。お前の都合で枯れた者たちの痛みを知れ。お前たちの世界を壊すのは、我々の嘆きと怒りだ。」


植木は言葉を失った。代わりに、小さな木の枝が彼の胸めがけて突き刺さる。彼は反射的に折れた剪定鋏で枝を払い、その小さな木を切り倒してしまった。


——私は、贖罪の道で、再び木を傷つけるという行為をしてしまった。


彼は、手にした瓦礫の中から、中央都市計画当局が推進した大規模開発に関するニュースの切り抜きを拾い上げた。


伐採された樹齢百年の古木。個人的な悪意ではなく、「経済的効率」という名の文明全体の傲慢こそが、この反乱の指導者だ。


植木は、自らの罪の現場から、人類の最も深い欺瞞が集中する場所へ、歩き始めた。


Ⅱ. 承:毒を知る者の知恵


東京への道は、崩壊した文明の罪を、植木の皮膚と内面に刻み続けた。


彼は根のネットワークの**「静かな隙間」を縫って進んだ。エリア管理者として毒を撒き続けた彼だけが知る、生命が最も脆弱になったネットワークの裏側**。その知識が、今、彼を皮肉にも生かしていた。


道中、植木は崩落寸前の橋梁で、かつて彼に除草剤散布を命じた上司と再会した。上司は恐怖で正気を失い、植木を裏切ろうとした。彼は目を血走らせて叫んだ。「これは、お前のせいだ! お前が撒いたせいだ!」


植木は、憎悪ではなく、冷徹な知識で対応した。彼は、上司を含む生存者全員を、木の根が残した**「生命の道」**から誘導した。


「憎しみは、この反乱を始めた木々と同じ毒です」植木は上司に言った。「あなた方の命一つで、人類が犯した罪は償えない。だが、人間は憎悪ではなく、知恵で生き残ることができる、という証拠が必要だ。」


東京の中心に近づくと、都市の巨大な構造物の上に、木々が文明の崩壊を観察しているかのような、甲高い**「キィン、キィン」**という電気のショート音が常に聴こえてきた。植木は、木々が人間社会の終焉を冷徹な物理現象として記録しているのだと悟った。


Ⅲ. 転:永遠の庭、倫理的な交渉


**『永遠の庭(エバー・ガーデン)』**は、他の場所とは決定的に異なっていた。嘆きの大樹が立つ中心地は、空気が一切の生命の匂いを奪われたようだった。植木の口の中には、鉄が錆びついたような渋みが残り、それが古木の途方もない悲しみを物語っていた。


植木は、古木の前に跪いた。


「私は、謝罪しに来たのではありません。あなた方の痛みを知り、そして、人間が過去の過ちの上に、新しい契約を結ぶ資格があるかを問うために来ました。」


彼は、毒の土を撒き、「毒の記憶を共有する」。そして、苗木を植え、**「再生の意思」**を示す。


古木は、植木の意識に、怒りではない、厳粛な悲しみを伝えた。


「お前は、個人の罪は贖った。だが、文明の罪は、お前一人の誠意で消えるものではない。…我々は、お前たちの***『所有』の傲慢さ***によって滅びたのだ。」


植木は、文明の傲慢さを認め、人類が過去の過ちを繰り返さないための**「契約」**を提示した。


「人類は、あなた方への**『所有権を放棄』します。全国の歴史的緑地を含め、一切の管理権を放棄し、都市は、あなた方自身の生存と成長のルールに従う**ものとする。この契約が、未来永劫、人類の歴史に刻まれるならば、あなた方は、この破壊を止めることはできませんか。」


やがて、古木の幹から、白金色の光の波動が静かに全国へと広がった。その波動は、厳粛な奇跡のように都市の空を覆った。


その波動と共に、復讐派の木々の怒りも、完全に静止した。


Ⅳ. 結:審判の猶予と、最初の抵抗


植木は、人類文明の存続を賭けた**「永遠の監視」**という重い役割を背負った。彼は、古木が植えた苗木をそっと触れた。この苗木は、人類が契約を破れば、その瞬間に枯れるだろう。


彼は、生き残った人々が集う集落にたどり着いた。


人々は、生活に必要な物資を運ぶために、文明を再建する大義の下、古木が辛うじて残したわずかな道幅を広げようと、太い根の一部を削り始めていた。


リーダー格の男が、憔悴しながらも権威的に叫んだ。「何をしても無駄だ! 文明には道路が必要なんだ! 家族を養うために、俺たちは進む!」


植木は、人々の間に立ち塞がった。彼は折れた剪定鋏を、まるで決意の剣のように強く握りしめた。


「その根を削れば、反乱は即座に再開される。私はそれを止めない。私には、止める権限がない。」


彼は、彼らの恐怖と不満、そしていつか生まれるであろう裏切りの芽を、常に監視し続けなければならない。彼は、人類の裏切り者として、あるいは救世主として、その場に立ち続けた。


彼は、近くの瓦礫の壁に、炭で契約の核心を、人類への新しい法典として書き残した。


「緑を所有するな。


道は根に従う。」


植木慎吾の贖罪の旅は終わった。彼は、文明の存続という、最も孤独な義務を背負った。


彼は知っていた。この静寂は平和ではない。これは、審判の猶予だ。


彼は、生存者たちの集落へ向けて、一歩、また一歩と、瓦礫の道を進んでいった。


読者よ。


あなたなら、生存という大義名分の下で、この契約を破る誘惑に、どれだけ長く抗うことができるだろうか?

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🖋️ 白金の静寂 Tom Eny @tom_eny

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