第2章 新しい生活
廻りが徐々に明るくなった。緑川はさっきと同じ装置の中にいた。さっきとは別の係員、今度は白のスーツを着ている、が来て、「お疲れさまでした。どうぞ装置から降りてください」
彼は装置から降りた。何も変わった所はない。服も先ほどと同じ。
「少し説明させていただきます。あなた・・」
「これはもう仮想の世界ですか?」
「そうです。今のあなたは当社の記憶装置上にある一種のエネルギーです。あなたの行動はすべて自由ですが、あなた専用のAiがイメージや感覚についてはシンクロして作動しますので、実社会におられた時と何ら違和感はないと思います。怪我をすれば痛いし、出血します。基本的には病気にはなりませんが、怪我された場合には病院で治療できます。小さな怪我の場合には、自然治癒力もあります。また、体は年を取り、年齢に応じて体力も下がります。人を故意に傷つけた場合には警察が来て逮捕されますので、仮想の人間などと思ってぞんざいに扱わないでください。何もかも実社会通りです。ただ、あなたの意識は今のまま維持されます。老化による認知症などはありません」
「意識と体はかなりギャップがあるのですね」
「それはあなたがその年齢を選ばれたからです。実際より若い体を選ばれる方がほとんどですが、これまでのところ不都合の訴えは聞いておりません」
「そうですね。力が湧いてきた感じがします」
「それでは説明の続きをします。まず、必要セットをお渡しします。これには、公共交通機関用のパス、健康保険証、パスポート、本人証明書、当初必要なお金、家の鍵、消去装置です。有効期限のあるものがありますので、ご自身で更新してください。仕方は実社会とほぼ同じです。あと、町の地図をお渡しします。そこには、病院、警察署、税務署、駅、マーケットなどが載っています。あなたの家には青い丸印、あなたの働く場所には赤の丸印がついています。3日後の午前8時までに出勤してください。最後にここでの生活にあたっての説明書2冊です。薄いほうは最小限必要な事なので、家に着いたら必ずすぐお読みください。分厚いほうには細々したことがすべて載っています。困ったときに見てください。あと何か質問がありますか?」
「よその町に行くことはできますか?」
「電車か車で行くことは可能です。ただ、現在存在するのはこの町の地図に描かれている範囲だけです。あなたが、例えば東のほうに境界を越えて行こうとすると、世界はその方向に拡張されていきます。無限に拡張されます。ただどこまで行ってもこの町の延長です。他の仮想世界に行くことはできません。景色は変わりますので、時には遠くまで行ってみるのも良いと思います」
「もう一つよろしいですか?」
「はい。もしまた質問があれば、ここに来ればいいですか?」
「ここには来れません。この場所は先ほどの地図の外側にあり、あなたが出て行くと消滅します。新入者があるときのみ出現しますが、場所はその都度変わります。いろいろな社会のシステムは実社会と同じですので、該当役所や住民に聞いてみてください。親切な人が多いと思いますよ。では、仮想社会にお入りください。その扉の向こうがそうです」
彼は扉から外に出た。少し下っている道が正面から真っ直ぐに伸びており、その先に駅のような建物が見える。後ろを振り返ると建物は消えており、山林となっていた。その山林の中に入っていく道はなく、その向こうには高い山がそびえていた。
彼は道を下り、駅に着いた。自分の住まいは地図によるとここから3つ目の海岸通り駅だ。下りのプラットホームに上ると、数人が電車を待っていた。反対のホームにはもう少し多めの10人余りがいる。10分ほど待つと電車が来た。乗り込んで空いている席に座ると、車内放送が流れてきた。「次は今里、今里です」
窓の景色を見ていると、前方に海が見えた。15分余りで海岸通り駅に着いた。駅前には商業ビルがいくつかあり、店もいくつか見える。駅を降りて、地図に従い、海方向に歩くと、閑静な住宅街が開ける。商店もちらほらある。人通りも多い。10分ほど歩くと、目の前が開け、海岸に沿う道路に出た。それを地図に従い右に曲がり、数分歩くと、我が家らしき家が見えた。海岸からは100m位離れているが、間に建物はない。家は普通よく見る平凡な平屋一軒家だが、別に不満はない。玄関に立ち、もらった鍵でドアを開け中に入った。すべての部屋を見て回った。3LDKなので、すぐに見終わった。一応必要な家具はすべてそろっている。台所には普通のダイニングセット、冷蔵庫、オーブン、電子レンジ。居間には50インチテレビとソファ。寝室にはクローゼットとベッド。クローゼットの中にはいろいろの洋服が吊ってあった。小さな箪笥があり、引き出しには、下着、くつしたなどが入っていた。壁にかかっている時計を見ると、午前11時45分だった。彼が家から身に着けていた腕時計も同時刻になっていた。少し空腹感を感じる。体はイメージなので食べる必要はないんだろうと思ったが、薄いほうの説明書を読んでみた。そこには、<食事は規則正しくとることをお勧めします。摂取状態によりやせたり、太ったります。十分な栄養が取れていないと、体力が低下します。規定以上に体力が低下すると消滅します。>とあった。
彼は台所に行き、冷蔵庫を開けてみた。冷蔵庫の中には何もなかった。買い物に行かなきゃ。彼は家を出て、来るときに見かけたマーケットらしき所に行ってみた。自動扉を通り中に入るとそのマーケットは食料品と日用品の売り場があり比較的大きなスペースを持っていた。日常のものなら一応揃いそうだ、と彼は思った。中には結構人がいた。これらはAPなんだろうな。どういう反応をするか見ておきたい、と彼は思い、近くの若い女性に声をかけた。「こんにちは。今日はいい天気ですね」
「こんにちは。そうですね。久しぶりにいい天気なんですよ。昨日まで雨が多かったです。こちらへは最近来られたのですか?」
「そうなんですよ。まだ来たばっかりなんで、この辺のことがよくわからないんです」
「ここは住みやすくていいところですよ。役所、病院、駅は近いし、ここより大きなモールも歩いて行ける範囲にありますよ」
「ありがとうございます」
その女性の表情、話し方、動作、すべて人間と同じで不自然さはなかった。彼は、元人間ですか?、と聞こうとしたが、やめておいた。
マーケットの中に喫茶店があったので、そこに入り、コーヒーとサンドウィッチを注文した。サンドウィッチは結構おいしく感じ、食べ終えると満腹感を感じた。数日分の冷凍食品を買い、家に戻った。クローゼットから楽そうな室内着を選び着替え、今まで着ていた服は、浴室にあった洗濯機に放り込んだ。お金はあるので捨てても良かったが、記念に取っておくことにした。もちろんコピーで本物ではないけど。
その日は何がすでにあるか、何が購入する必要があるかのリストを作った。お金は口座に1000万円あることになっている。彼がSLに預けた財産は5000万円を少し超えていた。だいぶ減らされているが、彼らは、お金には不自由しない、と言った。今後どれくらいの収入を得るのかは、まだわからない。マーケットや喫茶店での値段は比較的安いと思った。彼はまず街を知るために車を買おうと思った。
翌朝、彼はマーケットの喫茶店に行き、トーストとコーヒーを注文した。昨日と同じウェイターで愛想がよかった。優雅な朝食タイムだ。これまで働いている時は、朝食は十分な時間を取らずかき込んでいた。誰も知り合いがいないのは、少し寂しい気がしないでもないが、職場の複雑な人間関係には疲れていたので、一人でいることは快感であった。少なくとも今は。働き始めればまた知り合いができるだろう。
彼は通りかかったウェイターに声をかけた。「近くに自動車販売店はありますか?」
「出てすぐの通りを、右の方へ行けば、歩いて10分ほどで車の販売会社が2店あります。並んでいますのですぐわかりますよ」ウェイターはにこやかな顔をしながら、右手を挙げて方向を示してくれた。
「ありがとう」
店を出て、ウェイターが示してくれた方向へ道路に沿って10分ほど歩いて行くと、右手に2つの自動車販売店が並んで建っていた。まず最初の店の目に陳列してある車を何台か見た。一台気に入った形があるので、店の中へ入ることにした。すぐ店員が寄ってきた。
「お気に入りのに車がありましたでしょうか?」
「あそこのシルバーメタリックのSUVの性能について教えてほしいんですけど」
「すぐパンフレットをお持ちします」と言い、店員は奥に引っ込んだ。すぐいくつかの書類を持って、奥から出てきた。
「これがパンフレットです。各諸元について書かれています」
緑川はしばらくパンフレットを読み、必要十分だと思った。
「これはいくらですか?」
「はい、120万円です」
「安いですね。これいただきます」
「ありがとうございます。そしたらこの2枚の書類に記入いただけますか?」
緑川が記入終わると、店員は鍵を3つ渡した。
「えっ、もう乗って帰っていいんですか?」
「手続きが済みましたので、あの車はもうお客様のものです」
「保険とかは?」
「保険は車に入っています。費用は込みです。説明書は車の中にありますので、一応目を通しておいてください」
緑川は選んだ車の運転席に座り、装備を確認した。以前持っていた車のものとほとんど一緒だ。発進させ、まず、地図で中央の通りへ出て、それから東の方向へ進んだ。運転の具合は今まで運転していた車と何ら変わらない。一時間くらいは建物が途絶えることなく続いていたが、もうしばらく走ると、家並みが途絶え、郊外の風景になった。道の両側に農地が広がり、家がぽつりぽつり建っている状態になった。最初もらった地図ではそろそろ境界まで来ていると思ったが、車のナビではまだ先まで地図が続いていた。一時間ほど走ったところで道端にレストランが見えた。ちょうど空腹を感じてきたところだったので駐車場に車を止め、レストランに入った。
「いらしゃいませ」
緑川はランチ定食を頼み、手持ちの地図で場所を確認した。地図では境界を越えている。食事が運ばれてきたとき、店員に聞いてみた。
「この辺には初めて来たのですが、この先には町があるのですか?」
「このあたりに集落はないですが、この先に町があります。大きくはないですが、一応の店はそろっており、不便はないですよ。海と山があり、夏は海水浴ができますし、秋には登山できれいな紅葉が見れます。もし興味がありましたら、不動産屋を紹介できますよ」
「ありがとうございます。また考えてみます」
緑川は食事後来た道を引き返した。家に帰り、WiFiをオンにし、インターネットで地図を確認した。昼食を摂ったレストランの向こうに集落が表示されていた。その集落の先は行き止まりになっているようで、地図の表示はなかった。店員が言ったように南側に海岸があり、北側には登山道があった。ただその先の山は表示がなかった。
翌日、緑川は今度は反対側の西に向かって進んだ。一時間ほど進むといったん町並みは消え、森の中を走っている感じになったが、もうしばらく進むと、ビルがたくさん立ち並ぶ都会が現れた。最初の地図では、ここは境界に近い所のはずだったが、車のナビではかなり先まで、街並みの表示が続いていた。
家に帰り、やはりインターネットで地図を確認すると、西方に大きな町が出現していた。近くに山や海などの観光スポットはなさそうだった。緑川はインターネットの地図を印刷し、これまでの地図を捨てた。
新しく出現した町やそこに行くまでの景色はバラエティがあり、実社会と比べて全く違和感を感じなかった。彼はなかなかよくできたAiだなと思った。
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